第9話
弱き者よ、勇者たれ。剣を握る事無く、しかし悔恨に拳を握る事も無く。
――『光刃紋の鐘楼』セゴン・ザリ著――
「アナタぁ……昨日は……本当にごめんなさい……」
「良いよ良いよ、気にするなって」
潮垂れた様子のルクルクを撫でながら、平川は朝食代わりの薬草湯を飲み干した。彼女の購入して来た薬草は驚く程に咽頭痛に効き、今朝毛布から抜け出した平川は歌い出したくなるぐらいだった。
「その薬草ねぇ、お店の営業時間が終わっていて……でも、店長のおばさんが優しくて売ってくれたんだぁ」
平川の手に頭を押し付けたルクルクは、「お礼しなきゃだよねぇ」と尾を振った。
「うーん、そうだなぁ……良し、この後に市場へ行って、店主に礼をしに行こう」
「うんうん! それが良いよぉ! あ、それとねぇ? 兵隊さんにもお礼をしなきゃだよぉ」
兵隊? 問うた平川は窓を開ける。朝の底冷えするような冷気が入り込んで来た。
「そう、兵隊さん。兵隊さんが許可してくれなかったら、アタシ薬草を買えなかったんだよぉ」
「なるほどな、まぁ同じ兵士がいるとは限らないが、市場にいたら挨拶をして、いなければ店主に言付けを頼もうか」
パンに干し肉と野菜を載せ、半ば無理矢理に挟み込んだルクルクは、もう一つ同じものを拵え、窓際でクーノスの雪景色を眺める平川に手渡した。
クーノスの大規模市場――通称「ネドラ市場」は、夜明けと共に目覚める。多くの商売人、輸送業者が忙しなく歩き回り、時には怒号に似た掛け声が聞かれた。
ネドラ、とは「雪」を司る偉大な魔女の名である。一説にはクーノスを雪で覆い隠し、クーノス人の祖先に当たる少数民族を、畏るべき侵略者から守護した……らしかった。またネドラは商才に長けていた、という言い伝えから商人達は彼女の名を市場に冠したのである。
「どけどけ! 轢かれたいのか!」
「す、すいません」
人力で荷車を牽く輸送屋に怒鳴られ、平川とルクルクは通路の端を歩いた。しかしながら今度は別の輸送屋が現れ、「どいたどいた!」と虫を払うように合図をされる。
「……来る時間、間違えたかもねぇ」
「……確かに」
市場に軒を連ねる商店が一斉に開店するまで残り一〇分、この準備を怠った者は漏れなく――一日の稼ぎを他店に取られてしまう為、彼らの焦りを責める事は出来なかった。
「ルクルク、その薬草屋は何処だ?」
「ちょっと待ってぇ、えーっと……」
背伸びをして目的地――女主人ポナの店を探すルクルク。市場全体が蠢くような慌ただしさは、彼女の目を回してしまう程だった。
「何だ、人に酔ったのか」
「だってぇ……みーんな忙しそうなんだもん」
あちらを見やり、こちらを見やりを繰り返すルクルクだったが、営業開始の鐘が鳴らされて五分後、「あっ」と飛び跳ねた。
「あった、あったよぉ!」
平川の手を引き、言う事を聞かない犬のように前進するルクルクは――首を捻る夫に気付いた。
「どうしたのさぁ」
「いや……」
「えぇー、教えてよぉ」
せがまれるまま、平川は一〇〇メートル程先を行く男――彼は兵士のような格好であった――を指差した。
「ルクルクの言っていた兵士って、あのような格好か?」
「うーんと……あ、そうそう! 昨日は暗くて余り見えなかったけど、確かにあんな感じだよぉ! でもアナタぁ、顔を見ていないでしょ? あの人かどうか――」
かぶりを振った平川は、小首を傾げるルクルクに言った。
「見付かった」
「見付かった?」
頷き……平川はポナの店から反対方向へと、ルクルクを引いて歩き出した。
「ねぇ、何が見付かったのぉ?」
「尋ね人さ」
数秒の間を置いて――ルクルクは「もしかして」と声を潜めた。
「ノグチさん?」
平川は応答しない。する暇も無く、唯彼は取り憑かれたように進んで行く。
かつて……酒を酌み交わし、悩みを持ち寄って語り合い――殺し合った男の姿を追って。
お前も、俺を殺しに来たのか。そう疑われ、殺意のままに刀を向けられるかもしれない。仮に平川一人で「ノグチ」の元を訪ねれば、その可能性は大いにあった。
異世界で生きる事を受け入れ、それなりの生活を送っている――その証明をしてくれるのが「
ノグチと再び――今度は更に深く、関係を築きたかった。彼らの置かれた悲観すべき状況を、少しでも好転させたかった。
最初に何と言おうか? 謝るべきか、それとも……。
「あっ、ノグチさん曲がっちゃうよぉ」
革製と思われる防具に身を包んだ尋ね人は、二人に構う事無く足早に通りを曲がった。平川達もそれに倣い、次第に距離を縮めて行く。
鼓動が高鳴り、息が荒ぐ。それでも平川は意を決して――裏路地を歩く彼に叫んだ。
「ノグチ――」
ビクリと方を震わせた男は……腰に据えた刀に手を掛け、振り返る。
「…………ヒラ……カワ?」
ノグチは平川の顔を、続いて――傍らで微笑む獣人の女を見やった。
「ノグチ、久しぶりだな。この通り……俺も収まったよ、この世界に」
「初めましてぇ、ノグチさん。旦那がお世話になっていますぅ」
底抜けに明るいルクルクの声に釣られたらしく、ノグチはぎこちなく一礼した。
「仕事、いつ終わるんだ?」
平川が上擦った声で尋ねた。
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