第8話

 その人にとって「恐怖」を感じる対象は、それこそ千差万別だ。例えば私は、子犬が酷く恐ろしい。獲物を切り裂く立派な牙を生やし、力強い体躯へと育った姿が見えるからである。


                ――ケランゼー・ジャスキオ(啓蒙家)――




 何て幸運なんだろう――ルクルクは息を切らしつつ、胸に抱いた薬草を覗き込んだ。紙袋の中から香る匂いは、すぐにでも夫の咽頭痛を和らげてくれそうだった。暗い夜道を等間隔で照らす街灯は、夫の待つ宿への誘導灯であった。


「待っていてねぇ、アナタぁ……」


 その実、夫はそこまで痛みに喘いでいる訳では無かった。彼女がここまで薬草の為に奔走する理由に、クーノスへやって来る道中の一件があった。寒さに耐えかねたルクルクは、夫の上着を結果として取り上げてしまったからだ。


 果たして夫は風邪を引き、コンコンと咳き込みながら毛布を被る羽目になった。


 申し訳無い事をした……彼女は涙ぐみながら引き留める夫を捨て置き、宿を飛び出したのが二時間前である。一刻も早く薬草を持って帰り、遠い昔に母から学んだ手法で煎じてやりたい。その一心でルクルクは駆けて行く。


「……ふぇっ」


 慣れない雪道に足を取られ、ルクルクは前のめりに倒れ込んだ。フワリと浮かぶ雪に塗れ、身体を勢い良く、犬のように震わせる彼女に……。


 大丈夫ですか――と手を差し出す者がいた。清らかな女性の声だった。


「あっ、ありがとうございますぅ」


 グシグシと顔を拭いながら、ルクルクは伸びて来た手を掴んで立ち上がった。服と肌の間に雪が入ったらしく、刺すような冷感を覚えた。


「うぅ……寒いぃ」


「あら、雪が入ったのではありませんか?」


 優しい声だなぁ、とルクルクは声の主を見やり……。




「……っ、ひぃっ!」




 女の微笑みを認めた瞬間、思わずルクルクは叫び声を上げたのである。


「どうされましたか?」


 心配そうに問うて来る女に、ルクルクは獣耳を極限まで倒し、尾をグルリと股の間に巻き込んだ。身体がブルブルと震え出す。最早雪の冷たさによるものではなく、眼前に立つ女に感じ取る「悍ましさ」が……ルクルクを恐怖させた。




 どうして、どうしてだろう! この人、凄く凄く……何処までも、本当に何処までも……――。




「あの、本当に大丈夫ですか?」


「は、はい、はい! 大丈夫です、大丈夫ですからぁ……」


 女は訝しむように小首を傾げ、ジッとルクルクの泳ぐ目を見据える。


「……何か、私は貴女に失礼を?」


 ブンブンとかぶりを振った獣人に、なおも女は問い続けた。


「……では、本当に何も?」


 ルクルクは勢い良く、何度も頷いた。


 お願いだから、いなくなって……そう願いながら、何度も何度も――祈りのように頷いた。


「……そうですか。雪道は滑ります、お気を付けて」


 そう言い残し、女はゆっくりとその場から立ち去った。女が曲がり角に消えたと同時に、ルクルクは猛烈な勢いで走り出した。宿に着くまで三度転んだ彼女は、それでも痛がる事無く……夫の滞在する客室に向かった。


「ど、どうしたんだ一体!」


 夫――平川が目を丸くし、ベッドから起き上がってルクルクの身体に着いた雪を払い落とす。


「夜盗か何かに――」


「ち、ちが……違う……」


「じゃあどうして様子がおかしいんだ!」


 ルクルクは身体を震わせながら……平川に抱き着くと、子供のように泣き出してしまった。安堵感と恐怖感の狭間に立たされた彼女は、救いを求め――夫の胸に飛び込んだのである。


「……落ち着け、ルクルク……ほら、もう怖くないよ」


 平川はあやすように彼女の頭を撫でてやるも、しかしルクルクの震えは止まらない。やがて……彼女は絞り出すように、嗚咽交じりに訳を語った。


「こ、こっ……怖かっ……たよぉ……お……女の人……いて……」


「女? 武器か何かを持っていたのか?」


「違うの、違うよぉ……あ、あのねぇ……私……転んで……その人……大丈夫ですか……ってぇ……」


「その女が起き上がらせてくれたのか?」


 ルクルクは頷いた。


「……そっ、それでぇ……顔を見たら…………とても……怖くてぇ……」


「怒っていたのか? その女は」


「怒っていない、怒っていないよぉ……笑っていて……」


 笑顔が怖い――平川はルクルクの話を聞き、腑に落ちないながらも彼女をベッドに寝かせた。彼女の代わりに薬草を煎じようと、平川は傍を離れようとしたが……。


「いっ、行かないで……」


 服の裾をルクルクがしっかりと掴んでいた。


「何処も行かないよ。一階に炊事場があっただろう、共同の。そこで――」


「お願い、お願いだからぁ!」


 鬼気迫る声色に――平川は頷かざるを得なかった。


 いつもにこやかなルクルクが、これ程怯えるのは……平川は胸騒ぎに顔を歪ませた。


「……手、手……繋いでぇ」


「あぁ、これで良いか?」


 平川は毛布に手を差し込み、ルクルクの手を探し当てた。


 外出していたせいか、それとも恐怖のせいか……彼女の手は酷く冷たかった。

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