第3話

 攻撃的な客は容易い。緊張する客は手強い。微笑む客は手に余る。


                    ――ガリオ・ゼールイ(貿易商)――




 クーノス国民として生活を始めたユリカと孝行は、四方を雪に囲まれる日常に素早く適応した。日に三度、家の周りを雪掻きするのは最初こそ身体に堪えたが、その内に良い意味での「力の抜き方」を覚え、ユリカ一人でも元から住んでいた国民さながらの動きが可能となった。


 家の暖炉に火が焚かれて一〇日が経った頃、二人は仕事を得る為に国営の定職斡旋所へと足を運んだ。幸い彼らは「執行者」である為、この世界での読み書きに苦労はしない。後は希望する給料と休暇、福利厚生を差し出された求人票と擦り合わせるだけだった。


 当然……二人は命を狙われる身として自覚していたが、よく話し合った結果……ある程度の「公的な立場」を得る事で、かえって身の安全に繋がるのではと結論した。


 クーノスに暮らすのは一年から長くて二年、と考えていたユリカと孝行であったが、慣れ親しんだ雪と住民の温和さに、予想以上の居心地の良さを覚えていた。


 可能であれば、この地を出て行きたく無い……とすら二人は思っていたが、その願いを両者は口にする事が無かった。どちらか一方が隙を見せてしまえば、そこを追っ手が突いて来るような気がした。


 如何なる時も保身を第一に――二人の間に生まれた不文律である。


「……それでは、さん。気に入られたものがありましたら、いつでもお越しください。これ、求人票を纏めておきましたから」


「どうもご丁寧に。これからもお世話になります」


「いえいえ。……あぁ、そうだ、をお待ちになるんでしたか。休憩所がありますから、そちらで」


 ユリカは会釈し、促されるまま休憩所へと向かった。


 ユリカの偽名は「ユイリ」。孝行の偽名は「タカイチ」である。二人は互いを偽名で呼び合い、自宅だけでは本名を使用した。執行者生活の大半を偽名で過ごした彼らにとって、自宅の外で本名を呼ぶ、という失態は無かった。


 仮に……誤って本名を外部で晒した時も、隠れ蓑となる風習がクーノス国にあったのが幸いである。


 この国では「二つ名」というものがある。クーノスに暮らす夫婦は互いを家の中でのみ、「内名うちな」で呼び合うのである。これは夫婦間の結束を高めるおまじないとされ、逆に家の外では「外名そとな」という別名を用いて生活する。


 公的に偽名の使用が許可された国、クーノスは「逃亡者」である二人にとって、全く好都合な孤立国家であった。


「ふぅ……温かい」


 ユリカは真ん中に据え付けられた暖房に手を翳し、マフラーの中に顔を半分程埋めた。大きな暖房を中心とし、椅子が車座に置かれた休憩所は、ユリカの他に三人の利用者が座っている。各々が本を読んだり、窓の外を眺めたりするその光景は、ユリカに元の世界の「駅」を思い出させた。


 孝行を待つ間、ユリカは求人票の纏めを眺めた。金は良いが短期の農作業従事者、そこそこの稼ぎで長く勤められそうな飲食店や本屋、「激務高給」といきなり銘打たれた飲用水販売店――小説を読むように、ユリカは一枚一枚にじっくりと目を通していく。


 飲食店なら、売れ残りを持って帰れたりして。


 微笑むユリカは、「ゾーマン軽食店」と記載された求人票をもう一度、丹念に読み返した。


 孝行が彼女を迎えに来たのは、それから一〇分程が経った頃である。

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