第3話
辛うじて……ルクルクは自決という終わりを迎えずに済む事が出来た。男が咄嗟に刀を首筋から離し、多少の切り傷に抑えられた為だ。
「ばっ、馬鹿野郎!」
滑らかな肌に鮮やかな血が流れる。橙色の陽光を浴びたそれは、ある種の絵画的美しさすらを秘めているようだった。
男は携帯していた塗り薬を取り出すと、乱暴にルクルクの傷へと塗り付けた。
「痛っ……」
「うるせぇ、黙っていろ!」
幸い、塗り薬の質の高さもあり、首筋の傷から出血は見られなくなると……。ルクルクは商人に巻かれていた白布を、スカーフのように巻き付けた。
「これで、アタシは貴方様のものです」
「……何を言っているんだ?」
ルクルクは得意気に胸を反らし、「フフン」と笑った。
「アタシの村ではぁ、旦那様が奥様の首に刃物を当てて、ちょっとだけ斬るんですぅ。そしてそしてぇ、奥様は布を首に……こうやって、巻くんですよぉ」
理解の及ばぬ婚礼文化だ――男は刃に付着したルクルクの血液を見やった。
「いやぁ、良かったなぁアタシぃ。こんなに素敵な旦那様が出来て……」
「……何度も言うが、お前を妻にしようとは少しも思わない。俺はな、元々この世界では無い、別の世界から来たんだ。お前に言っても理解は出来ないだろうが……」
「別の世界ぃ? どうして? 旅行ですかぁ?」
「……理由があるんだよ。とにかく、首の傷は悪かった……だがな、お前とは夫婦になれない、なりたくないんだよ」
慰謝料だ、取っとけ――男は金貨を一枚、彼女の足下に放り投げ、歩き出した。すぐに後ろからトコトコと足音が聞こえる。「殺すぞ」と怒鳴り声を上げた。背後の足音が止んだ。
男の後ろ……おおよそ一〇メートル程の距離を保ち、ルクルクはトボトボと付いて来る。やがて辺りは暗くなり、手提げ灯無しには歩く事すら困難となった。
彼に謝礼金を払う依頼主は、港町からやや遠い集落に暮らしている。腕に自信があるとはいえ、男は無駄な労力と危険を冒したくは無かった。
仕方無い、今夜は野宿でもするか……男はルクルクに時間を取られた事に憤りつつも、月明かりを受けて煌めく小川の傍で腰を下ろした。
ふと――男は辺りを見渡す。邪魔者ルクルクを捜していた。
「……町に行ったか」
人間よりも脚力に優れた獣人なら、町まではすぐだろう……男は刀を磨き終えると、その場で寝転がった。テントはおろか、寝袋すらも持ち合わせぬ野宿程、寒く心細いものは無い。
恐らくは「夏期」であったが……男は身体を震わせた。
それでも眠気は不思議と起こり、段々と彼の瞼が閉じていく頃――遠くから近寄って来る手提げ灯を認めた。上下にフラフラと動く灯りは、真っ直ぐにこちらへと向かっている。
男は刀を構えたが、すぐにそれは不要であると下ろした。「やはりか」と思ったのが悔しかった。
「殺されに来たか」
灯りが見慣れたワンピースを照らす。紛れも無くルクルクだったが……。
「あのぉ、ご飯を持って来て――」
「――もう一回、顔を照らせ」
「へっ? 顔を?」
「良いから照らせ!」
「……嫌ぁ」
苛立ちながら男は立ち上がり、ルクルクから手提げ灯を取り上げる。すぐに彼女は顔を両手で押さえたが、顔面に残る青痣を隠す事は出来なかった。
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