第2話

 パチン、と柔らかな頬を打つ音が響いた。やや驚いたような表情でルクルクは「何でですか」と小首を傾げる。


「脱げって言ったのは、貴方様ですよぉ」


 男は強い嫌悪感を、ルクルクにではなく……に向けていた。




 どうして俺は、彼女に脱げと命令したのか? 何故、彼女の頬を打たなくてはならなかったのか? 何と身勝手、何と嫌らしい男なのだ、俺は――。




 女性であれば、こうするべき。


 彼は他人にこそ明かしはしないが、無意識の内に女性へ強要してしまう「律」を隠し持っていた。


 武力も、恐らくは知力も及ばない相手に「脱げ」と言われれば、そうするしか無い……ましてや娼婦になり掛けていた女、には少なからず免疫があるはず……。


 それでも――「嫌だ」と、どうしてこの女は言わないのか!


「あぁ、分かりましたよぅ、草むらに行きましょう。そこなら恥ずかしくないだろうし……」


「……何故、言わない」


 押し殺すような低い声に、ルクルクは「えぇ?」と長い獣の耳を微動させる。


「何故、『そんな事は出来ない』……そう言わないんだと聞いている!」


「だってぇ……貴方様にお礼するなら、アタシ……お金も無いし、だからせめて……私の中で、まだ汚れていないところをあげるしか無いんですものぉ……。それにぃ、エヘヘ……貴方様なら良いかなぁって」


 貞淑たれ――彼が女性に強制する「律」の正体である。身勝手極まり無く、突き詰めたエゴの塊がそれであった。


「ほら、見てください。アタシだって目は付いています、他の人と比べて、良い感じがするでしょう?」


 何という、崩れた獣人だ――男が眉をひそめた時、ルクルクはゆっくりと歩み寄り……。


「なっ……!」


 男に抱き着いたのである。黒い外套を通り越すようなルクルクの体温が、底意地の悪い彼の心に注ぎ込まれるようだった。


「止めろ……!」


「貴方様、何だか辛そうですからぁ。……アタシ、目隠しされて来ましたんで、村の帰り道も知らないし、村の掟で一度でも所在簿が消えれば帰れないし……だからぁ、アタシ、貴方様の娼婦になりますよぉ」


 男は二度目の平手打ちをルクルクに食らわせた。


「ふざけるな! 誰が好き好んでお前のような獣人を娼婦にしようとするんだ、そこまで俺は落ちぶれていない!」


 じゃあ……ルクルクは赤らむ頬を撫でて返す。


「奥さんになりますよぉ、それならば文句も無いはずですよぉ?」


「……そう簡単に、弾みで夫婦になる馬鹿が何処にいる?」


 ペタリとその場で座り、ルクルクは尾を振って「ここですよぉ」と笑った。


「アタシ、優しい人が好きなんですねぇ。ギューッと抱き締めてくれてぇ、良い子良い子ってしてくれてぇ……エヘヘ」


「なるほどな、優しい男が好きか。俺はピッタリだな――」


 三度――ルクルクは男に頬を打たれた。すぐに彼女は「ほらぁ」と微笑んだ。


「貴方様がアタシを打つ時ぃ、必ず手を下に流すでしょう? アタシ、知っていますよぉ、怪我が残らないようにしている、優しい頬打ちですぅ」


「やはり、この世界はばかりか……」


 これも「優しい」か――男は刀を構え、ルクルクの首筋に当てた。


「俺はな、お前みたいなだらしない女が大嫌いなんだ。恐らく、頭の悪いお前は娼婦か奴隷か、呪薬の材料になるのが関の山だ。だったら……この場で死んだ方が、ずっと楽だと思うが?」


 しばらく……ルクルクは首に当たる刃を見つめていたが、徐に平川の方を見やった。


「そんなに、アタシと夫婦になるのが嫌ですかぁ」


「あぁ、嫌だね」


 ふぅーん……と、虚無すら感じさせる表情を浮かべるルクルクは、不意に――自ら首を刃に当て、身体を後ろへと滑らせた。


 刃物が物体を斬る時、刃を当てるだけでは足りない。接地させ、「引く」という行為が必要となる。


 獣人ルクルクの取った行動――それはまさに切断の流れであり、俄に男の額に冷や汗を垂らした……。

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