第2話

 アトラシアの背に聳えるのは、標高約八五七メートルのエルトゼン山である。うねるような山道を、幼い男児を背負った母親が歩いていた。二人は山頂付近に暮らす祖父の山小屋を訪ねようとしている。


「お母さん、まだお爺ちゃんの家、着かない?」


「もう少しよ、もう少しでお爺ちゃんの家が見えますからね」


 母親は額に汗を滲ませていたが、それでも日頃の農作業で鍛えられた身体に堪える事は無かった。毎日背負う肥料袋の重さに比べれば、愛しい息子の重量など辛くない。


「さぁ、見えましたよ。お爺ちゃんが手を振っているでしょう?」


「ううん、お爺ちゃん、いないよ」


 そんなはずは無い、と母親は遠くの山小屋を見やる。息子の言う通り、確かに祖父の姿は無かった。


「おかしいわね、いつも待っているのにね?」


 それでも母親は歩を進め、やがて玄関の前に到着した。煙突からは煙が上っていない、それに関しても彼女は訝しんだ。


「お爺ちゃん、いつも鶏肉鍋を煮込んで待っているのに……」


「忘れたんだよ、きっと」


 さて、病的な程に可愛がっている孫の好物を忘れるだろうか……まだ痴呆が始まるには早いと思うけど――母親はとうとう不安になり、息子を下ろしてから扉を叩いた。


「お父さん、お父さん……」


 しかし返事は無い。


「私、マウラよ。ユネスもいるのよ」


 一向に返事が無い。その内に息子が扉を引いた。


「鍵、開いているよ」


「あら、本当ですね。お爺ちゃん、絶対に鍵は開けっ放しにしないのにね……」


 お爺ちゃん――息子が先に屋内へ飛び込み、後を追うように母親も中を覗いた。


「…………えっ?」


 一杯に目を見開いた母親。眼前には「見慣れない女」が椅子に座っており、傍らに――血溜まりの中で斃れる祖父がいた。


 見慣れない女は硬直する息子に近寄ると……。


 彼の頭を撫でながら、徐に言った。


「待っていましたよ、さん。息子さん、お借りしますね」


 何で私の名前を知っているの? 息子を借りるって何なの? そもそもこの人は誰なの? お父さんはこの人に――殺されたの?


 次々と湧き出す疑問を、しかし母親は口にする事が出来なかった。


 唐突な悲劇、意味不明な依頼だけが彼女の頭で反芻され、まともな思考すらが不可能に陥っていた。


「……あっ、あぁ……あぁ……!」


 母親は腰砕けになりながらも……血に濡れた床を這うようにして女に縋り付き、泣きながら息子の助命を懇願した。


「お、お願いします……息子だけは……息子だけは……私はどうなっても……お願いします……!」


 女は訳も分からず黙りこくる息子を抱き上げ、優しい声色で返した。


「大丈夫、息子さんは死なせませんよ。ちょっとお借りするだけですから、用事が終わればすぐに――」


「嫌、嫌ぁ! 嘘を吐かないで、絶対に連れて行かせない! ユネス、ユネス!」


 その後も母親は幾度も「ユネス」と叫び、女の白い外套にしがみついたが……。


 やがて母親はその手を離した。正確には――握力を失った、というのが相応しい。軽やかな音の後に母親はダラリと手を下げ、血溜まりの面積を増やしたのである。


「大丈夫ですよ、マウラさん。、死なせませんから」


 女は懐に手を差し入れ、拳銃を取り出すと――。


 幼いユネスのこめかみに銃口を当て、引き金を引いた。




 他人の子を拉致した女――阿桑田ユリカには、ある計画があった。


 様々な薬を作れる仇敵キティーナに、そのまま対面して調合を依頼するのは余りに難しく、また余りに腹立たしい。


 ならばどうするか? 一見無害そうな人物――例えば子供に「お使い」を頼む事にした。


「お母さんのお腹に悪いものが入っているから、それを消す薬をください」


 などと一芝居を適切な時期、場面で子供に打たせれば、自分自身が危険を冒して対面依頼するよりも、遙かに簡単で賢いのでは――彼女は考えたのである。




「今、何をしたの?」


 キョトンとした表情のユネスは、自らのこめかみを小さな手で撫でていた。


「ユネス君が、もっともーっとになるお薬ですよ」


 彼の頭部に向けて放たれた銃弾(正確には塗布剤である)は――執行者阿桑田ユリカの所持する銃弾の中で、最も異彩を放つものだった。


 超至近距離で着弾した場合のみ効果を発揮する銃弾……彼女はそれを「お利口弾」と呼んでいた。


 有効対象は未成熟の「子供ヒト」。対象は着弾から一分間だけ、阿桑田ユリカの言葉のみを聞き、理解し、幾らをも疑わなくなる。


「ユネス君、これはお芝居なんですよ、ビックリしたでしょう?」


「お芝居? 血が一杯出ていたのに……」


「えぇ、とても上手なお芝居です。実はですね、お姉さんはユネス君にもお芝居が上手になって欲しいのです」


 鉄臭い山小屋を抜け出すと、ユリカはユネスの耳元で囁いた。


「これから私とユネス君は、お母さんと、可愛い坊やの役を演じます」


「お芝居の事?」


「はい、そうですよ。どんな演技をして欲しいか、私はぜーんぶ頭に入っていますから、ユネス君はそれを憶えてください……はい、分かった良い子は?」


 絡み付くユリカの腕に抱かれ――「お利口さんの」ユネスは小さな手を勢い良く挙げた。


「偉い子は大好きです――」

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