第2話
ナグマルという樹木がある。月が円状に満ちる夜にだけ樹液を木肌から滲ませ、ナグマルツキヨバチなる昆虫に蜜を与える。このハチは栄養豊富なナグマルの樹液を巣に持ち帰り、女王の未来を約束された幼虫へと献上をする。
甘美なる蜜を大量に摂取した幼い女王は、古巣を捨てて旅立つ頃、ナグマルの木を求めて彷徨を始める。果たして目当ての木を見付けた女王は、新たな巣をナグマルに造り出す。
何故ナグマルはツキヨバチを誘因するのか? 理由は至極単純なものである。彼らを自らの枝に住まわせる事で「用心棒」の職を与える為だ。ツキヨバチは獰猛な昆虫である、縄張り(専門用語で鎖木という)と決めたナグマルの木に近付く、例えば木肌に穴を空ける害虫を追い払う。
伐採を試みる人間にも同じで、以前にはナグマルの樹林を開拓しようとした獣人達が、およそ三七ヶ月間、ツキヨバチによって足止めを食らった……という記録も残っている。
今――ナグマルの木に手を掛け、幾度も嘔吐き、混入物の無い胃液を吐き出す少女がいた。
「……けほっ、うぅ……おぇ……えっ」
少女の足下が濡れている。胃液の臭いに釣られ、「掃除者」と呼ばれる腐肉食性の昆虫が集まって来た。
ようやく落ち着きを取り戻した少女は、ある種のムカつきを覚え――訳も知らずに集まった昆虫を踏み潰した。その様子を隣で見守る女がいた。
女はなだらかな少女の背中を摩りながら……一つの結論に辿り着いていた。
この子は、いつか素晴らしい事に――。
「……落ち着きましたか、ツキーニさん」
濡れた口元を拭い、少女は優しく声を掛けた女を見上げた。
初めての殺人――それを犯した者の双眼があった。
どうして私は人を殺したのか? どうして私は吐いているのか? 一体私は、この後にどう振る舞えば良いのか――?
言葉にならず、しかしながら負で満ち満ちた複雑な感情が、少女の両目から迸るようだった。
「ねぇ、ユリィ」
少女は問うた。
「私、本当に人を殺したのね」
女は頷いた。
「手際良く」
だったら――少女は震えた声で更に問う。
「アイツも……こうすれば死ぬのね」
首肯し、女は鈍く輝く少女の目を見つめて言った。
「きっと、死にます」
少女――ツキーニは深呼吸し、血で汚れた短刀を……傍に転がる死体の服で磨いた。
「死ぬしか無かったのよね、この人も」
胸部を抉られた男は何も答えない。不運にも亡くなった彼の言葉を代弁するように、女は「えぇ」と少女の肩に触れた。
「今日、ツキーニさんに胸部を刺され、心臓に穴を空けて死ぬ宿命でした。この方の運命は――いえ、ここに斃れている方々は全て、今日死ぬ決まりでしたから」
「……私は悪く無いのね」
「勿論。悪いとしたら――貴女の運命を決めた、標的ぐらいでしょうね」
少女は短刀を鞘に差し込むと、「行きましょう」と女の裾を引っ張った。
「私、もうすぐ会えると思うの。アイツに。そういう流れが来ているんだわ」
少女の細い指が看板を指差した。「この先、商人の街ラネイラ」と書かれていた。
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