第2話
「はぁ、沢山買っちゃいましたよぉ……」
大きなレジ袋を二つ、華奢な手で携えているユリカは、扉にもたれ掛かるようにして家の中へと入った。
「ただいま、
リビング、ダイニング、キッチン、洋間……それらで構成される彼女の家に、しかし人の気配は無い。
台所に購入物を置くと、そのまま彼女は部屋に掛けられたコルクボードの前に歩いて行き……貼ってある写真の一枚に軽くキスをした。
全部で一二枚貼ってある写真は、被写体が全て
食事をしているところ、誰かと連れ添って歩くところ、道端の猫と目を合わせているところ、酔って立ち小便をしているところ、電柱に手を掛けて嘔吐しているところ、公園でボンヤリとしているところ、家で眠っているところ……。
男の生活全てを平等に切り取った写真を部屋に飾る事により、ユリカは男と共に暮らしているという自己暗示を施していた。
「さぁ、ご飯にしましょうね」
ホットプレートを用意し、ユリカは肉と野菜を次々と並べていく。箸が二膳、皿が二枚、缶ビールが二本……。
それらの内一つずつが、小さなテーブルの向こうに置かれている。
「よいしょ、と」
彼女は自分と対面させるように、大きなテディベアを座椅子に座らせた。この人形はそのまま、孝行としての振る舞いを強制されていた。
「今日はお給料出ましたから……えぇ、そうなの、奮発して高いお肉を買い込んじゃった!」
テディベアは何も答えない。ユリカは後ろに纏めたポニーテールを揺らし、「フフッ」と照れて笑った。
「違います、違いますよ……そういうつもりじゃないんですけどぉ……もう、孝行は肉食系ですね?」
いそいそと焼けた肉、野菜を孝行に配膳するユリカの頬は紅潮し、恋という文字にすら恥じらう乙女の如くであった。
ユリカがテレビの電源を点ける、芸能人の不倫や貯金額を囃し立てる番組が映った。
「あぁ、ごめんなさい……孝行、こういうの嫌いですもんね。ううん、私も面白くないから……そうだ、今日は動物系の番組があるんですよ?」
チャンネルを変えるユリカ。画面一杯に映る子猫の映像に、彼女は艶めかしい程の幼い声で「可愛い」と述べた。
テディベアは何も喋らない。箸を持つどころか、微動すらしなかった。
「あぁ、可愛いですねぇ……私、もうちょっとしたら猫を飼いたいんです、孝行も好きですよね? うんうん、そうですよねぇ……あ、これ焼けてますよ」
新たな肉が一枚、テディベアの皿に載せられる。ユリカは缶ビールを飲み干し、小さく溜息を吐いた。
「ビールのお代わりですか? ちょっと待っていてくださいね……あっ――」
冷蔵庫を開けるユリカは、俄に絶望した表情を浮かべた。
「ごめんなさい……お代わり無かったです……ごめんなさい……ごめんなさい……私は気が利かない女です……」
焼けた音を立てるホットプレートは、濛々と煙を天井へと上らせていく。テディベアは彼女を文字通り、黙して見つめていた。
「うっ……うっ……ごめん……なさい……!」
ユリカはやがて……泣き出してしまった。テレビから流れる陽気な音楽、笑い声が彼女と縫いぐるみを包み込んだ。
「うぇぇぇ……ひっく……ひっく……え……? で、でも……私は……そんな……違います、そんなに出来た女じゃ……ほ、ほんと?」
嬉しい! ユリカはテーブルを回り込み、テディベアを抱き締めた。彼女の溢れんばかりに流れる涙が、次々と染み込んでいく。
「……えっ? ……んもう……今日は……汚れたから……せめて、ね……? うん、シャワー……浴びて来ますから……フフッ」
紅を差したような頬が、ニンマリと持ち上がった。ユリカは手早くテーブルの上を片付け、肉の大量に載った皿を持つと――ゴミ袋の中で引っ繰り返した。
テディベアは動かない。自分の為に肉を焼き、自分の為に泣き、自分の為にテーブルを片付けるユリカを、一言も労わない。
果たして掃除は一〇分程で終わり、続いてユリカは臭いを飛ばす為に窓を開けた。晴れた日にだけ充満している、夜の香りがした。
「はぁ、気持ち良い……さて、と……ちょっと待っていてくださいね」
沈黙を保つ縫いぐるみをベッドに置くと、彼女はタオルと替えの下着を持ってバスルームに向かった。
人工的で温かな雨を全身に浴び、ユリカはボディータオルに液体石鹸を三滴、それを濡らして握り揉む事六回――彼女の計算通り、適量の泡が生み出される。
ユリカは丁寧に身体を擦り始めた。首元から脇に流れ、続いて胸を丹念に擦る。腹、背中、太股から爪先へ……最後に股の辺りを一番長く、優しく洗い終える。
肩甲骨程に伸びた髪を濡らす、黒い絹のような手触りのそれは、阿桑田ユリカの自慢であった。シャンプーにトリートメント、手早く綺麗に念入りに塗り込み、落とす……。
二〇分間――一二〇〇秒を掛けて、ユリカは汚れた身体を洗浄したのである。
「……ふぅ……」
タオルの繊維すらが、自らを傷付ける棘であるかのように……ユリカは至極柔らかな手付きで、水を球状に弾く肌を軽く、叩くようにして拭いていく。
全てはベッドで待つ――孝行に肢体を献上する為である。
下着を身に付け、髪を乾かし、仕上げに歯磨きを一〇分間行う。口内の唾液までも消し去ろうとしているようだった。
「……お待たせしました、孝行……」
全身がホンノリと、薄紅色に染まるユリカ。それは温水によるものではなく……愛する孝行との情交を、心奥から待ち惚けている為であった。
「私、今日は……その……えぇ、何だか……込み上げている気がしまして……ですから……はい……」
好きなだけ、求めてください――。
ユリカは布団を被り、照明を消す。細い腕に抱かれたテディベアは、情欲から強く抱き締められ、ぐにゃりと変形していた。
テディベアは悦ばない。長く、熱く、粘るような吐息を、聴覚の持たぬ丸い耳で受け止めた。
小さい、絞り出されるような声が響いた。
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