第2章 乗馬クラブは。

 小淵沢グランプリは、チャンセラーサードの暴走と、乗り手の黒沢の事故死によって、私には悪夢のような後味の悪さが残った。

 救急車で黒沢が運ばれたりした後、その間30分の中断時間を置いて競技は続行された。

 優勝候補だった黒沢の事故に拠って、私は一人の強力なライバルが欠けたことで、3位に入賞出来て、3位の賞金を手にしたが、目の前でライダーの一人の死を目にしたことは、賞金以上の重みを感じさせた。

 ベテランの乗り手が狂奔する自馬を制御しきれなかった事、また、チャンセラーサードは、これまで黒沢とのコンビで、何度も入賞する成績を残してきている、そんなに御し難い馬とは思えなかったが、犬畜生と同じ、馬もいつ何時狂うかは予想も就かない、その為に乗り手は日常で馬の調教に励むのだ。

 救急車で運ばれた黒沢の死が報じられ、黒沢への1分間の黙祷がアナウンスされ、衝撃のため息やざわめきは、馬の咳きと何頭かの犬の吠え声のみで静まった。


 競技も終わり、道中の混雑も予想されるので、所属クラブの伊藤オーナーに賞金の20万円の中から5万だけ抜いてポケットに入れると、残りの15万を渡した。

 選手の中には、賞金全てを自分のポケットに入れる者と、所属クラブのオーナーや厩務員らと分け合う者も居る。人それぞれだ。

 馬運車にカルーゾと競技に出場した他の、クラブ所属の馬を積み込んで伊藤オーナー等が帰路に就くのを見送って、私は自分の車で後を追った。

 私の場合は、しがないサラリーマンで、毎日馬に跨れるような身分ではない。謂わばサンデーライダーに等しい。

 従って、普段は伊藤オーナーに頼んで、専属のトレーナーのクリスに調整してもらっている。

 クリス・スラッタ―はオーストラリア人だが、日本の大学に留学して日本文化を研究している。

 学費と生活費の足しにと、クラブでアルバイトをしているのだった。乗馬は子供の頃からで、ナショナルチームの1員候補にもなったと言う事だった。

 

 「人の噂も75日」小淵沢での競技中の黒沢の事故死の衝撃も、普段の日常の中でずっと過去の出来事の中に忘れられて行った。


 しかし、そんな日常の中で、私はふとした時に思い浮かぶのは、事故死した黒沢と、その事故の原因であったチャンセラーサードのあの狂い方、過去の競技成績や、普段の運動を見る限り、あんな狂い馬とは思えなかった。あの時、何に驚いたのだろう。

 或いは、黒沢は馬にどんな無理を強いたのだろう。あの時の彼の騎乗ぶりを見ていた限りでは、どうしてもライバルの一人確実と思える騎乗だった。いくら考えても理由が分からなかったが、時折疑問が蘇り、結論の出ない思いを繰り返した。


 しがないサラリーマンの私、30歳半ばと言うのに、いまだ独身で、これと言って特に付き合っている女性も居ない。

 専ら、サンデイライダーに近いとは言え、時間の許す限り、クラブでクリスとカルーゾを交えての時間を過ごした。

 そんな日常の中の休日、いつものように相模原のクラブで、クリスのアドバイスを受けながら、クラブ所有の新馬のコントロールに汗を流した。

 クラブ会員として、年会費の他にカルーゾの預託費の支払いも有るので、準インストラクターとして、初心の会員やほかの会員の預託馬等の調整や、騎乗指導を行っていた。

 他の騎乗者の指導をするためには、当然資格が必要なので、私は馬術連盟と乗馬クラブの指導員としての資格を取得していた。


 騎乗後の汗をシャワーで流し、クラブのロビーで、コ―フィー片手に、時には女子会員が手作りのクッキーよと、テーブルに広げるのを摘まんで、騎乗した馬の調子や、指導した会員の馬と騎乗技量などを話題に、世間話も交えての懇談の一時は楽しいものだった。

 中にクラブ中で、「情報屋」と仇名を着けられている剽軽者を自認する桑原と言う男性が、「千葉の笠木さんとこで、また事故があったらしいよ」特ダネを明かすような口ぶりで、ロビーのカウンター際の草臥れたソファーや、籐椅子などに体を預けて雑談を楽しんでいる私たちの下へ、コーラのボトル片手に割り込んで来た。

 「事故・・・・・・」何人かが顔を揚げて桑原を見た。

 「あそこの、小林って言うおっさん、知ってるでしょ。時々、馬付きで来てるじゃないですか」桑原は手ぶりを交えて言った。

 「厩務員の・・・・・・・・・」一座の中の高橋が、桑原に確認する意味で言葉を挟んだ。

 「そう、小うるさいおっさんで、会員さんもぶつぶつ言ってるじゃん」

 「何、そいつが事故を起こしたんか・・・・・・・・・・・・・・・」

 「ああ、しかもまたチャンセラー」

 「えっつ、チャンセラーサードが」何人かが驚きの声を上げた。

 「また、暴走でもしたんですか」小池と言う女子高生が聞いた。

 「いや」と手を振りながら、一息入れて「馬房の中で蹴られたらしい」

 「それで・・・・・・・」一人がその先を促す。

 「ああ、おっさん、病院へ担ぎ込まれたが、今のところ意識不明らしい」

 「へえっつ、気の毒に」「それにしても、ご難続きで、一体、あそこ、どうなってんの」一斉に何人かが言った。

 「チャンセラーって、そんなにきちがい馬なの、そうは見えないけど」

 「見た目では分からんよ」

 「どうやら、前の黒沢さんの事も有るので、警察沙汰になってるらしい」情報屋は秘密を漏らすような口ぶりで言った。

 「やばいね」一座は相槌を打つように頷いた。

 「うんなこと言ったって、相手は馬だから、なんか、よっぽど気に食わない事でもしたんじゃないんか」

 「まあ、馬だから犬畜生と同じでしょう」

 「馬鹿言うなよ、馬の方が飼い主に忠実だぞ」と多田と言う会員が口を挟んだ。

 「さあ、どうかね、多田さんだって、自分の馬に結構裏切られてるじゃない」

 「先日も2反抗で失権したじゃないですか、と情報屋が手をひらひらさせながら反論して、一座から笑いが起こった。

 「おー、恥ずかしい」多田は照れたように笑った。

 「加藤さんは、どう思いますか」と多田は私の方へ振って来た。

 「えっつ、チャンセラーの事・・・・・・・・」私は多田に顔を向けて聞き返した。

 「ええ、どう思います」

 「うーん、どうって、分からないなあ、これまであんなことは無かったし、第一、外産で笠木のところでは高い金出して買ったんでしょう。十分、馬の性格も調教度も調べているでしょう。これまでもいくつも勝ってるじゃないですか」私自身、大きな疑問を感じているが、答えが無いまま当たり障りのない答えをする。

 話題は目下新聞テレビや週刊誌を賑わしている、日大と関西学院大とのアメリカンフットボールの試合中、日大の赤のユニフォームを着ているDFが、ボールをパスし終わって、無防備になったQBの後ろから販促タックルを行った件で、日大の監督コーチに非難が集まり、問題の選手の販促タックルを行った理由などが、記者会見で発表されると、問題は一競技の不正行為にとどまらず、監督コーチの辞任、その監督が学校運営の常務理事の一人でもあったことで、巷では、日大の運営についてのガバナンスについての非難まで発展していた。

 

 「先生、今日はありがとうございました」ビギナーで、クラブオーナーの伊藤からの依頼で、私がレッスンを担当しているOLの朝倉智子が、騎乗した馬の手入れを終えてロビーへ上がって来た。

 「お疲れさん。先生なんて呼ばないで、なんかくすぐったいからね」私は応えて、彼女の席を作るように、腰の位置をずらした。

 「あら、先生は先生じゃないですか、今日の私、どうだったですか」生まれながら備わっている女性特有の媚びるような笑顔を向けて来た。

 イングランドエアーの東京支店に勤めているOLで、英国へ行った時に、存分に乗馬を楽しみたいので、という目的でビギナーとして会員になったのだ。

 「うん、今日は良かったよ、唯、脚を使う時、余り後ろへ引かないように、どうしても脚で押そうとすると、踵が尻の方に流れてしまって、下手するとその為に上体が前傾しがちだから、折角、格好いいんだから、腹帯のすぐ後ろで使うように、いつも意識してやっていれば自然に身に着くと思うよ」手ぶりを交えて私は応えた。

 身長、169センチくらいで、すらっとした体格、胸は大きくは無いが、騎乗姿は、運動が決まれば絵になると私は思っている。

 「先生にいつも注意されるから、気を着けてはいるんですけど、つい、力が入っちゃって・・・・・・・・・」

 「脚が後ろへ流れると、騎座が浅くなるんですよ、重ねて言うけど、時折、自分の騎座位置を確かめて、膝の位置を下げるように、騎座を深くすると、上体も安定するし、脚を使うにもいいし、意識して絵になるように時々馬場の鏡に映して姿勢を直したらいいよ」


 乗馬クラブのメインの馬場には、必ずと言ってよいくらい、大きな鏡が設置されている。

 それは自らの騎乗姿勢や、騎乗中の馬の歩き方や姿勢を映して、自分の馬への扶助の良し悪しを確認するための物でもある。


 「先生、珈琲は、お注ぎしましょうか」と智子は自分のマグカップと、私のマグカップの中を覗いて、中の珈琲が少なくなっているのを確かめ、二つのカップを持つと立ち上がった。

 「有難う」私は、立ち上がってカウンターのコーヒーメーカーのところへ行く智子の後姿を目で追った。

 「朝倉ちゃん、始めた頃に比べれば、見違えるほどよ、なんか自信もって乗ってるって言う感じ・・・・・・・」雑談の輪の中から、仕事をリタイアしてから始めたと言う髪の白い都築氏が言葉を挟んだ。

 「まあ、都築のおじ様、そうでしょうか、固くなってるんじゃないかと」と笑顔を向けて答えた。

 「それにしても、先日のチャンセラー、怖いねえ、私らじゃあとっても、触るのも怖いわ、厩務員さんも気の毒よね」と、再び事故を重ねたチャンセラーサードの噂に戻った。

 暫く雑談の輪の中に居たが、頃合いを見てロッカールームの隣のシャワー室へ入った。

 「先生、お帰りですか、私も帰りますので、途中までご一緒させてくださいませんあか」シャワーを浴びている私の隣のブースから、ジャーじゃやーと言う両方のシャワーの音に交じって、朝倉智子の声が聞こえて来た。

 「えっつ、ああ、いいですよ」私は応え、同時に着替えが出来るように、隣のブースの智子の様子に注意した。 

 

 

 


 




 


 

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