冬
荷造りを終えたシュウは、荷物の少なさに驚き、またそのことに驚いている自分にも驚いた。野球をしに日本に来て、野球しかせずに、そして野球が出来なくなり、去る。だから荷物が少なくなるのは当然で、そんなことに気づきもしないくらい野球に没頭していた自分がいた。
仕方のないことだった。ヒジに違和感を覚えたのは夏頃からだったか。だましだましやってきたが、ついにその時が来た。
秋の大会が終わり、直ぐ医者にかかった。何軒もかかった。そのどれもが、復帰には一年以上を要するという返事だった。
高校二年生の、それもスポーツ留学をしていたシュウにとってそれは死刑宣告に等しい。
あの八回、ついに限界が来たと思った。しかし、そこで引くわけにはいかなかった。ヒジが悪いということは、誰にも言わなかった。悟らせることすらしなかった。
痩せ我慢やプライドのためではない。勝つためだ。
勝つために日本に来た。だから、そのために最善を尽くした。そして、このザマだ。
また負けたのか、と思った。
最初に負けたのは、13歳の頃。バドミントンで道が絶たれた時だったなと、この数か月さんざん思い返した。あの頃も絶望した。
そして二回目の絶望が訪れた。二度目の敗北だから受け入れ易かろうと自分を無理に納得させようとしたが、そんな気配は自分の心からは全く感じることはできなかった。
二ヶ月、そう決めて再び練習に励んだ。もしかすると、治るかもしれない。根拠はないが、もしかすると――
そう思っての、二ヶ月。
出口の見えない練習の辛さは、予想していたよりもはるかに大きかった。
制球力、スタミナのためと信じて疑わなかった練習も、暗闇の中でもがいているのと同じだった。
なんと辛いことよ、とシュウは思った。
そして今日、二か月ぶりに硬球を握った。
全体練習の終わりに「少し付き合ってくれないか」と青田を捕まえた。
「おう。どないした?」と尋ねてきた青田の瞳に、自分の真意は映っただろうか。
初球を投げ、二球目を投げた。
三球目を投げたところで「ありがとう」と笑って青田との、ごく短い距離を詰めた。
「どうした。まだ傷むんか」
「なんとも言えないアルね。でも今日は、これで終わりアル」
「――さよか」
そう言った瞳は、雄弁だったか。
これで青田と会うのは終わりにしよう。シュウはそう思った。
いつも通りストレッチをし、いつも通りに片付け、いつも通りにハカセに報告をした。
ハカセは「そうか」と言って、また書類に目を向けた。
「失礼します」
目を合わせず、監督室の扉を開けた。
もうこれで最後かと思うと、込み上げるものが無いことはない。
「なあ」
ハカセが不意にシュウに声をかけた。はい、という返事は言葉になっていただろうか。
「猫伏を、頼みますよ」
なんと無責任な人だろう、しかしなんと責任感の強い人だろうか。
次にした返事は、言葉にはならなかった。
監督室のドアを、音を立てないよう閉じた。
ピン、と鳴ったチャイムがポーンと続いた。ボタンを放さずに押すと、そういう音色になることを知ったのは随分後のことだ。
「はーい、今出るアルよー」
短い、何も無い廊下を歩きドアを開ける。
何も考えていないような、それでいて何か思慮深いような、そんな猫伏が立っていた。
「よく来てくれたアルね。ささ、入るアルよ」
猫伏は、どうしたとも言わない。シュウに言われるがまま部屋に入る。
「最近どうね。投手の練習は慣れたアルか?」
冷たい床に胡坐を掻いて、猫伏に笑いかける。果たして、ちゃんと笑えただろうか。
「――本当に、行くのか」
「一寸帰るだけアルよ。しばしのお別れね」
嘘だった。もう日本の地を踏むことはないだろう、そう思っていた。
「何故一言も言ってくれなかったんだ」
「言ってもどうにもならんアルよ」
これも嘘だった。言いたくなかっただけだ。エゴと言われても仕方がない。
「良いライバルだった、アルね」
「嘘だ!」
猫伏がそこで一度言葉を切り、そして「オレは、どうしようもなく……どうしようもなかった……すまない」と拳を震わせた。
冷めた目線で見ている自分に気づいた。
思えば、どこまでが本気か分からない男だった。真面目だが、何を考えているかわからない。無口ではないが、おしゃべりではない。
有体に言えば、今風の優等生。なんでもそつなくこなす。
しかもこの男、野球の才能がある。そこにシュウは苛立っていたのかもしれない。
「――そんなに思ってくれていたとは、知らなかったアルね」
ついぼそりと、本音とも偽りともとれない一言が漏れた。
「私は、野球しかなかったアルね。ネコはどうアルか?」
「そりゃあオレも……野球しかないさ。今まで野球しかしてこなかったし、高校も野球で入った。だから必死に練習しているし……」
「――必死さが、必死さが足りないアルよ!」
言わなければよかった、と思ったがもう遅い。自分をコントロールできなくなっていることに気づいていたが、もう止まらない。
「私は、何のために野球をやっているか説明できるアル。一つは、国のため。中国は、野球ハッキリ言ってメチャ野球遅れているアル。だから、私がなんとかするアル。私しか、なんとかできないと思っているアル。だから練習でも試合でも、一球を、一瞬でも手を抜かないし、抜けないアル。分かるアルか? 日本人と中国人の一球の重みの違いが! 私の一球は、国家の一球アル!」
「……」
「それに、私は何より、勝ちたいアル! シュウは本当に勝ちたいアルか!? 私は一度、完全に負けているアルね。だから、もう負けたくなかった。それなのに――」
「負けなくないのは、俺も同じ……」
「違う!」
気づけばシュウは、猫伏の胸倉を掴んでいた。身長が10センチほど違うが、気迫が猫伏を圧倒する。
「全然違うアル!」
「お、おい……」
シュウが左手を振り上げて、振り上げて、下ろした。
泣いた。
別に猫伏が悪いわけではない。むしろ、良く練習をしている。元々のセンスの良さに練習という積み重ねが加わった。最近ブルペンで見ていると、驚異的に成長していると思う。
だからこそ、許せなかったのかもしれない。
「――すまんアル。一寸取り乱したアル」
何も無い床にへたり込む。猫伏は、胸倉を掴まれた驚きが、未だ覚めない。
「ネコはよくやっているアル。特に今年の夏からは、ホントに良くやってると思うアル」
猫伏は答えられない。答えに困っているのか、何を言うべきか悩んでいるのか。
沈黙が流れる。お互い何を考えているか、分かりかねている。しかし、お互いが何を考えているか、それぞれが必死に考えている悪くはない時間だとシュウは感じていた。
「でも」
沈黙を破る。猫伏が胡坐を掻いて俯くシュウに視線を落とす。
「でもやっぱり、全然違うアルよ――」
猫伏はやはり答えられない。
シュウが立ち上がり、たった一つだけの小さなダンボールのガムテープを剥がす。中から黒い布袋を取り出した。
「グローブ……」
そう呟く猫伏の目の前に座り込み、袋をグイと突き出す。
「やるアル。多分だけど、ネコ来年の春、背番号1アル。エースが内野手用のグローブじゃ恰好つかないアル」
「いや、そんな」
「貰って欲しいアル。このまま肥やしにしてしまうのは、なんだか惜しいアルからね。道具も、使ってもらった方が多分嬉しいアルよ」
ニヤっと笑う。泣き笑いの顔になるのは、格好つかないが仕方がない。
突き出された袋を猫伏が受け取れずにいると、「ん」と更にグローブが突き出される。
猫伏は両手で受け取りグローブを取り出す。
見慣れたグローブだった。良かったことも、悪かったことも、このグローブと共にあった。日本に来た時に、一番になれるようにと母がお金を工面してくれて、一番良いグローブを買った。そんな真っ赤なグローブだった。
「刺繍……」
「ああ、気になるアルか? 確かに、日本人がするグローブじゃないかもしれないアルね」
手の甲の部分に中国の国旗。続く勝利の二文字。
そんなグローブを渡す意味を、果たして猫伏は分かってくれただろうか。
しばらくグローブを見つめたのち、猫伏がすっと左手にグローブをはめた。
「――貰うよ。ありがとう」
分かってくれただろうか。
その後、二人で少し喋った。今までのことと、そしてこれからのこと。
じゃあそろそろ、言って猫伏が腰を上げたのは、0時を少し回った頃だった。
お互いもう少し喋りたい気もしたし、もう十分喋ったような気もした。
猫伏を玄関まで見送る。「頑張るから」と言ってグローブを握りしめる猫伏に、「もう十分頑張ってるアル。でも、なんのために頑張るか、アルよ」と声をかける。
――わかってるさ。
猫伏のその返事に、救われた。
玄関がカチャと締まった。また泣いた。
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