7. 蛇神を祀る神社
「うわぁー、杏子さん、大変ですよぉー!」
大介が、ドタバタと洗面所から戻ってきた。
朝靄が晴れた諏訪湖の景色を見ながら、朝食のトーストをかじっていた杏子は、うるさそうに大介を見上げた。
「何よ?」
「カジさんが、ヒゲ剃ってます!」
一大事件のように叫ぶ大介の後ろから、梶原本人が姿を現した。相変わらずのボサボサ頭だが、伸び放題だったヒゲはきれいになくなっていて、まるで別人のように見える。
「何だよ、おれがヒゲ剃っちゃ悪いのか?」
「そーゆーわけじゃないけど、ぼくたち、ヒゲのないカジさん見た事なかったから、一瞬知らない人がいるのかと思っちゃいましたよ」
大介の言葉に、梶原がため息をつく。
「誰かさんが、おれのことを
そう言って、チラリと杏子に視線を投げかける。
「えっ、杏子さん、そんな失礼なこと言ったんですか?」
「だって、ピッタリじゃない。呼べなくなって残念だわ」
杏子はじっと梶原の顔を見上げた。
さっぱりとした梶原の顔は、本当に別人のようだった。ヒゲ面の時よりずっと男前だけど、前よりも眼光の鋭さが際立っているようにも見える。
今の杏子には、梶原のその目の鋭さが、たくさんの戦場を見てきた証のように思えた。
「ほんと残念」
杏子はそうつぶやいてから、コーヒーを飲み干した。
人はみな、多かれ少なかれ秘密を持っているものだ。どんなに親しい友人でも、その人の全てを知っている訳ではない。話す必要のない過去を、わざわざ知らせる人はそういないから。
梶原だけでなく、大介にも、杏子自身にもそういう秘密はあるし、きっと、三枝理恵にもあるだろう。だからこそ、秘密を知るには覚悟が必要になる。受けとめる覚悟が。
「椎名、おれも三枝理恵さがしを手伝うぜ。まずは何から始めるんだ?」
梶原の目が、もう逃げないと決めたんだろう? と聞いているような気がした。
「とりあえず、もう一度、梛神社に行ってみるわ」
杏子は答えた。
大丈夫、どんなことがあっても逃げない。三枝理恵をさがすために全力をつくす。
杏子の頭から、あの不思議な怖れは消えていた。
☆ ☆
道路沿いにある梛神社の鳥居の前には、昨日とは違い、車が止まっていた。濃紺のセダンの中をひょいとのぞいた梶原が、「警察の車だな」とつぶやいた。
「そっか、警察が来てるのね。それじゃ、あたしたちが佐々木くんを見つけた事は、すぐ神社の人にわかっちゃうかしらね」
「そうですね。隠してて、後でばれると印象悪いですからね。観光客を装うとしても、何か聞かれたら『昨日は大変だったんですよ』とか、言っといた方がいいですね」
「なるほどね。じゃ、そーゆー感じで。とりあえずお参りしてから、宮司さんをさがしましょう」
昨日とは明らかに違う元気な足取りで、杏子は階段を上ってゆく。
梶原はヒゲのないあごをつるりと撫でてから、ふたりの後に続いた。
階段を上ると、境内の中央にそびえる梛の巨木に、自然と目が吸い寄せられる。
杏子は梛の木の前に立ち、ぐるりと境内を見渡した。
怯えを捨てた杏子の目には、昨日見えなかったものが、よく見えるようになっていた。しめ縄の形が、絡みあった二匹の蛇の形をしている事や、社のあちこちにある蛇の模様だ。
「ここはやっぱり、
杏子はあきらめたようにため息をつく。怯えてはいないが、出来れば認めたくはなかったと言いたげな顔だ。
「まぁ、日本の神様は、けっこうな割合で蛇と関係があるみたいですからね。佐々木くんもその辺の事を調べてたんでしょうね」
大介がなぐさめるように言う。
杏子はゆっくりと、梛の木に一歩近づいた。
「あたしもちょっと調べてみたの。梛の木って神木には多いんですって。梛の葉は、古くから恋のお守りらしくて、女の人は鏡箱の中に入れていたみたい。だから例の噂も、まんざら嘘じゃないって事よね」
杏子はそう言ってから、木の幹に手を触れた。目を閉じると、やわらかな映像が浮かんでくる。神社に来た人たちの姿。その中には佐々木や理恵の姿もあったけれど、思いつめたような少女の顔が、何度も浮かんできた。
それとは別に、連れ立って歩く数人の男たちが、社の後ろへ消えてゆくのが見えた。
杏子は目を開けて梛の木から離れると、社の方へ振り返った。
「椎名、何か見えたのか?」
「ええ。でも、漠然としたものばかりで、まだよくわからないわ。それより、社の向こうには何があるの?」
「えっ、社の裏側は森ってゆーか、山ですよ」
大介の言葉を確めるため、杏子が社の裏側に行ってみると、草木の間に人の通った跡のような、かすかな道がある事に気がついた。
「この先に、何かあるんですか?」
「わからないけど、何人も向うへ行くのが見えたの。何かあるのかも知れないわ」
杏子は宮司をさがすより、この先に何があるのか確かめたくなった。
社のある境内から見ると、その道は下り坂になり、山の左側に回り込むように再び上り坂になっているように見える。
杏子は辺りを気にしながら、ゆっくりと歩きはじめた。
大介と梶原も杏子に続くように歩き出したが、大介は先が気になるのか、杏子を追い越してどんどん歩いてゆく。
「杏子さーん、こっちにもお社がありますよ!」
山の方から大介が手を振っている。
杏子と梶原が、道とも呼べない山の斜面を急ぎ足で登っていくと、草に覆われた岩肌を背に、小さな社が見えてきた。木でできた小さな社は、山頂にあった石の祠より一回り大きいくらいだ。
「中宮って書いてありますよ」
大介の声が聞こえて来たが、杏子は動くことが出来なかった。
岩山を背にして建つ中宮を見たとたん、杏子の見ていた風景がとつぜん色彩を失い、白と黒だけの世界になってしまったのだ。それと同時に、体はまるで金縛りにあったように、ピクリとも動かなくなってしまう。
追い払ったはずの恐怖が、急速に杏子の心を覆い始めた。
禍々しい黒色の煙のようなものが、社の後ろの岩山から流れ出てくるのに気がついた途端、杏子の体が震えだした。
「おい、大丈夫か椎名?」
後ろから梶原に両肩をつかまれ、杏子は我に返った。目に見える世界も色彩を取り戻している。
「大丈夫、ありがと……」
杏子は笑おうとしたが、そのまま意識を失った。
「椎名!」
倒れ込む杏子の体を、梶原があわてて支え、そのまま地面に座り込む。
「どうしたんですか!」
大介が中宮から駆け戻って来る。
「ここに来たら震えだして、急に倒れたんだ」
「そんな、今日は調子良さそうだったのに、どうして?」
大介は杏子の額にそっと触れてみた。青ざめた杏子の顔は、ひんやりと冷たい。
「この中宮に、何かあるって事か?」
「えっ、どういうことですか?」
「いや……それより困ったな。連れて帰るにしても、おれたちバイクだからな」
梶原が大きなため息をついた時だった。
「どうかされましたか?」
ふいに後ろから声がした。
大介と梶原が驚いて振り返ると、白い着物に浅葱色の袴姿の青年が、竹ぼうきを手に立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます