8. 里美


 ふわりと、花の香りがした。

 これは何の花の香りだろう。甘くてとてもいい香りだ。知っているようで、思い出せない。

 冷え切っていた体は、すっかり温まっている。まるで、陽だまりの中で昼寝でもしているように心地いい。

 そう思ったとたん、杏子は目を覚ました。


 そこは見知らぬ部屋だった。

 日のあたる廊下に面した和室には、杏子の寝ている布団以外、家具らしいものはひとつも見当たらない。まるで旅館の一室のようだ。

 襖は大きく開け放されていて、ガラス越しに見える庭には、小さな池と手入れの行き届いた松の木が見える。とても美しい、小さな日本庭園だ。


(ここは、どこかしら?)

 杏子はゆっくりと身を起こした。

(あたし、何してたんだっけ?)

 記憶が混乱している。


「あら、気がついたんですね?」


 声とともに、ふわりと花の香りがした。日のあたる廊下に、長い黒髪の女性が立っている。まだ若い、二十歳くらいの穏やかそうな女性だ。


「あの、ここは?」

「ああ、そうですよね。いきなり知らない部屋で目を覚ましたら、びっくりしますよね?」


 彼女はニッコリと笑いながら部屋に入ってくると、杏子のそばに座った。


「ここは、梛神社の宮司さんの家です。あなたが中宮の近くで具合が悪くなった時、ちょうど宮司さんが通りかかったそうですよ。お連れの方たちは、応接室の方で休んでもらってます」


「そうですか」


 杏子は、中宮での事を思い出して、小さくうなずいた。


「あの、具合はいかがですか?」

「もう大丈夫です。ありがとうございました。あたしは椎名杏子っていいます。あなたはこちらの娘さんですか?」


 杏子が何気なく尋ねると、彼女はすこし悲しそうな顔をした。


「いえ、わたしは、二月からこちらでお世話になっている者で、里美さとみといいます。あの、実はわたし、記憶を失くしているんです。里美という名前も、宮司さんが付けてくださった名前なんです」


「記憶を?」


「はい。この神社の敷地に倒れていたそうです。宮司さんが病院に連れて行って下さったんですけど、治らなくて、そのままこちらでお世話になっているんです。今は神社のお手伝いをしています」


「そうだったんですか。それは心細いですよね」


「はい。でも、宮司さんはとても良くしてくださいます。いなくなった妹さんの代わりみたいに、思って下さっているみたいです」


 里美という名をもらった彼女は、宮司の事をとても信頼し、慕っているように見えた。


「妹さんが、いなくなったんですか?」


「はい。宮司さんとケンカして、出て行ったらしいですよ。あっ、こんな話しちゃったこと、宮司さんには内緒にしてくださいね」


 里美は小さく舌を出して、可愛らしく笑う。


「大丈夫、内緒にします」

 杏子は安心させるように、ニッコリと笑った。


「それじゃ、お連れの方の所へご案内しますね」


 里美のあとについて廊下に出た杏子は、庭に面した廊下の角を曲がった。両側が部屋になっている中央の廊下は、日が当たらないせいかすこし薄暗い。一階建てなのか、かなり広くて、歴史のありそうなお屋敷だった。

 杏子がキョロキョロしながら廊下を歩いていると、広々した玄関の手前で里美が立ち止まった。この襖ばかりの家には珍しく、その部屋だけドアがついている。


「失礼します。杏子さんをお連れしました」


 里美は、杏子を部屋に案内すると、そのまま一礼して出て行った。


「椎名、大丈夫か?」

「杏子さん!」


 黒革のソファーに座っていた大介と梶原が、弾かれたように立ち上がると、ふたりの向かいに座っていた青年が、杏子の方へゆっくりと振り返った。


「心配かけでごめんなさい。大丈夫です」


 杏子はソファーのそばへ歩いて行った。


「あの、あなたが宮司さんですか?」

「ええ。宮司の名木浩章なぎひろあきです。梛神社の梛ではなく、名前の名と木と書く名木です」


 やわらかな笑みを浮かべて、宮司は立ち上がった。

 白い着物に浅葱色の袴が良く似合う好青年に、杏子は違和感をおぼえた。里美から話を聞いて、杏子は宮司のことを、もっと年上の人のように思っていたせいだろう。


「お世話になってしまったみたいで、ありがとうございました」


 杏子がペコリと頭を下げると、宮司は笑って杏子にイスを勧めた。


「困ったときはお互いさまですよ。ましてや、うちに来て下さった方たちです。お役に立てて良かったですよ。今いろいろとお話を聞いていたところです。東京のタウン誌の方だそうですね?」


 宮司の言葉に、杏子の笑顔が一瞬引きつった。


「うちみたいな小さな神社に、東京から取材にいらしたなんて、本当に驚きました。昨日、奥宮でケガをした青年を見つけたのは、あなた方だそうですね?」


「えっええ、あたしたちも本当に驚きました」


 杏子は思い出したように、口元を押さえてうつむいた。梶原と大介がどんな風に話したのかわからない以上、迂闊なことは言えない。


「ぼくたち昨日は、まずお参りしてから宮司さんにお話を聞こうと思っていたら、あんな事になってしまったので、今日は偶然とはいえ、宮司さんのお宅にお邪魔出来てラッキーでした」


 大介が、助け船を出すようにしゃべりはじめる。


「あとで、お宅の写真を撮らせてもらえませんか? かなり歴史のありそうな、立派な日本家屋ですよね」


「ええ、構いませんよ。うちはまだ百年そこそこですけど、氏子さんの中には、もっと古いお宅もありますよ」


「氏子というと、この近くに住宅があるんですか? 山の中には、この神社しかないと思っていましたが……」


 梶原が、首をかしげながら聞く。


「そうですね。道路からは見えませんが、集落に続く横道があるんですよ。うちの前の道をすこし下ると行けますから、行ってみたらいかがですか?」


「そうですか、では後で行ってみます」

 梶原はそう答えてから、すこし面持ちを変えた。


「ところで、こちらの神社には『願いが叶う木』があるという噂を聞いたのですが、それは、境内にある御神木のことでしょうか?」


「ええ。たぶんそうだと思いますが、その噂には、こちらも困っているんです」

 宮司は表情を曇らせる。


「実は亡くなった父が、一時期この神社を盛り立てようと活動していまして、その噂も、父が活動の一環で流したものでした。しかし、お祀りしている御祭神の性格上、あまり騒々しい事は控えるべきだったのです。そういう訳で、その噂に関することを記事にするのは、遠慮させて頂きたいのですが」


 穏やかな話し方だったが、宮司の言葉には断固とした拒絶が感じられた。


「そうですか、わかりました」

 梶原は残念そうにあごを撫でる。

「まあ、夏向けの小旅行がテーマですので、いくつか写真を掲載させて頂くかも知れませんが、噂には触れないとお約束します」


「ありがとうございます」


「いえ、こちらこそお世話になりました。写真や文章を掲載する場合には、改めて許可を頂きますので安心してください」


 梶原はそう言って立ち上がった。

 大介に続いて、杏子が宮司に会釈して出て行こうとすると、ふいに呼び止められた。


「杏子さんでしたね。もしかして、あなたは霊感が強いのではありませんか?」

 杏子を見る宮司の目は、不思議な光をたたえている。


「霊感はないですけど、どうしてですか?」

「いえ、そういった力を持っている方が、よく中宮あたりで気分を悪くされるので、もしかしたらと思っただけです」


 にっこりと笑う宮司は、もう爽やかな青年の顔に戻っている。


「そうだ、もし何日か滞在されるようでしたら、里美と話をしてもらえませんか?」

「里美さんと?」


「ええ。あの子は、訳あってこの神社に身を寄せていますが、わたしも祖父も、若い女性のことはよく分かりません。困っていることがないか、聞き出してくれると助かるのですが」


 宮司の言葉は意外だったけれど、これは梛神社を探るチャンスかも知れない。そう思った杏子は、ニッコリ笑ってうなずいた。


「わかりました。そういう事なら、たぶん許可してもらえると思いますから、今日の午後か明日にでも連絡させて頂きます」


 杏子は宮司にそう約束した。



 宮司の家を出た杏子たちは、集落に向かって、ゆるい坂道を下っていた。


「それじゃ杏子さんは、また宮司さんの家に行くつもりなんですか?」

「そうよ。里美さんのことも気になるし、他にも何か掴めるかも知れないでしょ」

「それは、まあ……」


 大介は曖昧に答える。


「でも、その話だと、ぼくらはお邪魔ですよね? 杏子さんひとりで行くのは、危険じゃないですか?」

「大丈夫よ。あたしピンと来たの。里美さんはたぶん……」

「おい、その話はあとだ」


 梶原は、杏子と大介の話を遮った。


「集落だ。今はこっちに集中しろ」


 辺りを見まわすと、木々の間に家が点在していた。どの家も、黒光りする瓦屋根が特徴的な木造家屋ばかりだ。


「土地が狭い割には、けっこう家がありますね」


「ああ。だが畑が小さいな。これだけじゃ自給自足には十分だが、農家としては狭すぎる」


「でも、家から離れた場所に畑があるのかも知れませんよ。そういうの、よくあるじゃないですか」


「まあ、そうだが……」

 梶原はまだ納得できないようだ。


「カジさん、何か気になる事でもあるの?」

「いや、いいんだ。とにかく一番古そうな家を探そう」


 そう言って歩き出した梶原のあとを、杏子と大介は黙ってついて行く。本当にタウン誌の取材をしている訳ではないのだが、梶原のジャーナリストとしてのカンを、ふたりとも信じていた。

 しばらく歩くと、砂利道だった集落の一本道は、ひび割れてはいるものの、アスファルトの道路に変わっていた。


「あの家が一番古そうだな」


 梶原が目指す家は、確かに古そうな大きな家だったが、宮司の家と比べると、明らかに手入れが行き届いていないように見える。

 「田代」という表札を確認し、生垣に囲まれた庭へ回り込むと、縁側にポツンと座るおじいさんの姿が見えた。


「こんにちは。立派なお宅ですね。けっこう古いんですか?」

 梶原は、にこやかに声をかけながら庭に入ってゆく。


「ああ? 何か言ったかや?」


 おじいさんは耳が遠いのか、耳に手を当てて聞き返す。

 梶原が、めげずに同じ言葉を繰り返すと、ようやく聞こえたのか、おじいさんがうなずきはじめた。


「そうずら。うちは百五十年はたっとる。明治に建てたって話ずら」

「そうでしょう。柱の太さも立派なもんですよ」


 梶原は、おじいさんの家をしきりに褒めている。


「なんかカジさん、別人みたいっすね」

「ホント。ああやって取材するのね」


 庭の入口に立ったまま、杏子と大介は、感心しながら梶原の仕事を眺めている。


「あんた若いのに、見る目あるずらね。中に入って見て行くかや?」

「いいえ、そんなご迷惑はかけられません」

「いや、誰もいないからかまわねぇよ」

「おじいさんは、ここにひとりで住んでるんですか?」


「いや、かあさんは買い物だ。ああ、かあさんってのは息子の嫁のことずら。ばあさんが死んで、息子も死んで、孫は家を出ていっちまったんだ。この家をみてくれるもんは、もうおらんよ」


「お孫さんが、帰って来るかも知れないじゃないですか」

「いいや、勇太はここを嫌っとる。父親が死んでからは、怖がって帰って来ねぇ」

「怖がって?」

「ああ。ここのかみさんはたたるから」

「たた……る?」

「そうだ。おらっちの息子も、宮司さんとこの先代も、神さんに祟られて死んだんだ」


 おじいさんの言葉に、梶原と大介は、思わず杏子の顔色をうかがった。


「た……祟るんだ」

 杏子は、引きつった笑みを浮かべていた。

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