6. 訳の分からない恐怖感


 その夜、杏子はあまり眠れなかった。まだ明けきらない薄暗い窓の外を見ながら、杏子はあきらめたように起き上がった。

 いつも昼近くまで寝ている杏子が、こんなに朝早く起きたことを知ったら、大介はさぞかし驚くだろう。しかし、大介もまだ自分の部屋で熟睡中だ。

 一階へ降りてコーヒーを入れると、杏子はソファーに座ってタバコに火をつけた。


 三枝夫妻の依頼を受けてからというもの、杏子は心の隅に、ずっと嫌な感じを引きずっている。それが何なのかはわからないけれど、恐れと言いかえてもいい。

 大介はそんな杏子のことを、いつもの杏子らしくないと言う。

 確かにそうだ。今までの自分は、依頼された仕事はいつもきっちりこなして来た。もしも命にかかわる人さがしを依頼されたら、もっと必死になって居場所をさがしていただろう。そう思うと、確かにいまの自分はおかしい。


 あの梛神社には、理恵の居場所をさがすヒントがたくさんあったはずなのに、恐れるあまり見ないようにしていた。そんな自分が、杏子は情けなくて仕方がなかった。


「椎名、早いな。どうかしたのか?」

「カジさん」


 トイレにでも起きたのか、よれよれのジャージ姿で梶原が立っている。


「なんか目が覚めちゃったの。気にしないで、カジさんはもっと寝ててよ」


 梶原は、杏子の前に置かれた山盛りの灰皿をチラリと見ると、小さく息をついた。


「気になることがあるなら言えよ。ひとりで悩んでもロクな事ないぞ」

 梶原は杏子の向かい側に座ると、めずらしく真剣な目で杏子を見つめる。


「佐々木の命が助かったのは、おまえのおかげだ。おれひとりだったら、たぶん佐々木は助からなかっただろう。おまえの力は、人の命を救ったんだ」


「カジさん……」


「おまえが、自分の力をどう思ってるのか知らないが、おれはすごいと思ってる。犬猫さがしに費やしてるのが、もったいないと思うくらいにな。おまえの力を使えば、助かる命はたくさんあるはずだ」


「カジさんも、あたしがいつもと違うって思ってるの?」

「まあな」


 梶原は難しい顔でうなずく。


「自分が変だってことは、あたしもわかってるのよ。とにかく、いつもの調子を取り戻せるようにがんばるから、気にしないでよ」


 杏子はタバコをもみ消すと、ソファーから立ち上がった。

 梶原との会話を強制終了させて、そのまま部屋へ戻ろうとする杏子を、梶原は腕をつかんで引きとめた。


「おい待てよ。せっかくだから、ちゃんと話をしようぜ」


「カジさんと話したって、わからないわよ。あたしだって、何が怖いのかはっきりわからないんだから!」

 吐き捨てるように杏子は叫んだ。


「おまえ、怖いのか?」

 梶原は、驚いたように杏子を見る。


「そうよ。笑ってもいいわよ。女子高生の命がかかってるのに、あたしは訳のわからない恐怖心に負けて、仕事に集中できない臆病者なのよ」


 自嘲の言葉を叫びながら、杏子は梶原の手を振り払おうとしたが、よけいに強くつかまれてしまう。


「おまえは臆病者なんかじゃないさ。たぶん、あの神社には何かあるんだろう。おれは、神の名をかたる人間が、この世で一番恐ろしいことを知ってる……」


 そう言って、梶原は遠くを見つめた。

 ハッとしたように杏子は体を震わせると、大きく見開いた目で梶原を見上げた。


「カジさん……戦場記者だったの?」

 絞り出すような声で杏子が聞くと、梶原が驚いて杏子を見下ろした。


「おまえ、見たのか?」

「ちがうわよ! 見ようとしてないのに、ものすごい勢いで、映像があふれてきたんだもん!」


 それは、梶原がかつていた場所なのだろう。たくさんの戦場とたくさんの死者が、嵐のように杏子の頭の中を駆けぬけていった。


「……そうか、悪かったな」


 梶原はつかんだままの杏子の手を見つめ、ほんの一瞬、悲しそうな笑みをもらした。


「皮肉なもんだな。人間と人間が普通に殺し合うよりも、神の名を騙るヤツの方が平気で残酷なことをするんだ。日本だってきっと同じだろう。そういう出来事を、たぶんおまえは、見ないうちに感じ取ってしまったんだ」


「神の名を、騙るやつ……」


 梶原の言葉が、すっと杏子の心の中に入ってきた。

 確かに杏子は、かつてあの神社であったことを、無意識のうちに見ないようにしていた。それはたぶん、見るのが怖ろしい事が、実際にあったからなのだろう。


「椎名、おまえの目に見えるものを、おれは一緒に見てやる事は出来ないが、おまえのことはおれが必ず守ってやる。だから、もう怖がるな」


 梶原は、そっと杏子を抱きしめた。


「ちょっと、何すんのよ!」


 いきなり我に返った杏子は、無精ひげだらけの梶原の頬を思いきり叩いた。


「すまん。おまえがあまりにも無防備だったから、つい」

 梶原は、叩かれた頬を撫でている。


「無防備って、こっちは真剣に悩んでるんだからね、ふざけないでよ!」


「おれだって、真剣に相談に乗ってるじゃねぇか。真面目な話、おれはおまえの力を尊敬してるんだ。今回の事件で、おまえは見たくないものを見るかも知れないが、それは過去の事だ。おまえの身の安全はおれが保証する。だから、もう逃げるなよ」


 杏子は梶原の顔を見上げた。

 無精ひげだらけの頬が、すこしだけ赤くなっている。

 ふと可笑おかしくなって、杏子は笑った。


「わかった。もう逃げないわ。でも、あたしは今までひとりでやって来たの。無精ひげクマ男さんに、守ってもらわなくても大丈夫よ」


「なるほど、そうきたか」

 梶原はニヤリと笑った。

「OK、その言葉、ちゃんと覚えておけよ」

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