第9話 涙の精霊

一回目の壁が立ちはだかった時、人は一人で解決せず、誰かに協力を求めるだろう。自分一人の見解では解決方法を見いだせず、周囲の人間、多くは両親か友人かに協力を得るわけだが、果たして二回目の壁に遭遇した場合にはどうなのだろうか。




「まさか自分でも涙が出るなんて思ってもいなかったねー。私、何かに耐えるのは強い方だと思ってたんだけど過大評価し過ぎてたみたいだね。びっくりだよ」




光夏にとって、今回はその二回目だった。二回目であるから、自分で解決しなければいけないと思ってしまったのだ。


無意識に気を張っていたのだろう。僕の言葉で光夏は意識してしまった。その結果、涙がこぼれた。




「安心しろ。別に、僕以外には見られてない」


「祈吏に見られたら終わりな気もするけどね」




ちょうど誰の人目にもつかない部室の裏。夕暮れ時。


僕は右手を軽く握り、来るべき時を待っていた。


練習を終え、誰もいなくなったこの場所で、僕は光夏と向かい合うようにして話している。


なんてことはない。光夏の違和感に気が付いたから僕がそれを指摘してやった。ただそれだけのことだ。




「一体いつ気が付いたの?」




部室の壁にもたれかかるようにして尋ねてくる光夏。




「それは、まあ」




小晴がヒントをくれたからだろう。




「それにしても、笑えない。なんて酷いことを言ってくれたよね。昨日私からあんなことを言っておいて、その返しが笑えない」


「昨日? ああ…」




そういえばそんなことを言っていた。今日笑えない人は明日笑えない、だとか。




「その言葉そのまま返してやるよ」




呆れたように、光夏は笑った。




「ほんと、その通りなんだよね、これが。自分で言っておきながら嫌になっちゃうよ」


「で、少しは落ち着いたのか?」


「うん。おかげさまでね」




単純な話だった。


光夏の目標は陸上で結果を収めることでも、誰かの役に立つことでもなかった。


その根本的な願望は『周りにいる人に笑ってもらいたい』


ただ、それだけだった。




「前にも言ったけど、私は中途半端な人間だから誰にも頼られたりすることはないし、人に好かれることも少なかったのよ。これ、友達が少ないって意味じゃないからね。知り合いは多くても、中途半端に平均的だから誰からも欲されないってだけ」


「分かるよ。僕もそうだ」




突出した何かがなければ、それは名前のない登場人物。




「だから、私はずっと怖かったの。中途半端な今の私がもし嫌われてしまったらって。需要がないと切り捨てられて、誰も周りにいなくなるんじゃないかって。いつも怖がってた」




強気でいる光夏も、光夏なりの虚勢だったのだろう。


中途半端な人物は、誰かに好かれることはない。その代わり、誰かに嫌われることも少ない。だから仮に嫌われてしまえば、そこに価値は見いだせなくなる。




「それで、人の役に立つだとか何とか言い出したんだよ。自分の中に価値を見出すために」


「でも、結局は偽善だった」




間髪入れず、指摘してやる。


ゆっくり、光夏は頷いた。




「私が欲しかったのは、周りの人の笑顔だったんだよね。例えそれが本物でも偽りでも、自分に向けられた笑顔を見れば安心が出来た。ああ、少なくとも今の私は嫌われてないんだって。どんな人でも、嫌いな人に笑顔までは見せられないでしょ」




僕も人目を気にするタイプだからよくわかる。




「負の感情が籠った笑顔なら、分かるよ」




そう、だから純粋な笑顔を見ると安心する。




「私も同じ」




笑って光夏は言う。純粋な、嘘偽りのない笑顔で。




「だから、自分の中で自分の志に従うって言葉を祈吏に言われた時、考えたの。私の中で、私が周りを喜ばせる為に活かせるものってなんだろうなーって」


「それが陸上だったってことか」


「そういうこと」




光夏が陸上を始めたのは何かやりたいことを見つけたから。そう思っていた僕は、どうやら勘違いをしていたらしい。




「私が速く走れば誰かが笑ってくれた。自分のことのように一緒になって喜んでくれる人達が沢山いたんだよ」




光夏にとっての陸上はあくまで手段でしかなかった。


周りに笑顔を咲かせるための、一つの道具。一つの手段。


それが、




「今は、違うんだよな」


「ま、そういうことだよね」




だから、二回目の壁なのだろう。


自分の信じていた道に不安を抱き、進むべきかを迷ってしまう壁。言うならば、自分自身。端的に言えば、疑心暗鬼。


僕は握っていた右手を離し、身体の力を抜く。


光夏は一つ息を吐いて、淡々と話した。




「去年の関東大会で私は個人で表彰台。リレーでもうちの高校は入賞することが出来たの。これは史上初の快挙なんだって。周りのみんなも、先生も。それに地元の人まで喜んでくれた」




光夏の活躍で中堅校から強豪校になった。


強豪校になって、それを喜んだ人たちがいた。




「でもね、」


「それを素直に喜べない人もいたと」




割って僕が話すと、瞼を閉じて、光夏は頷いた。




「如月さんだな」




陸上部部長、如月沙希。


長距離の選手としての活躍も輝かしいことながら絶対的な信頼性のある、周りから見て価値のある人。




「沙希さんは、ほんとに凄い人なんだよ。誰からも好かれるような性格だし、私なんかとは大違い」




心なしか、光夏の声は大きくなる。




「沙希さんがいたから、うちの高校は強くなった。選手として活躍して、他の部員をまとめてさ。私はその波に乗ったに過ぎない。それなのに、ね」


「まるで自分の手柄であるかのように評されて、笑えなくなった、か」




言い淀んだ部分を言ってやる。




「ほんと、祈吏は祈吏だね」




その通りだったらしい。




「最後の大会、長距離の選手にコーチは私を推薦したの。長距離の専門は沙希さんなのに、去年結果を残した私を試合に出せば知名度が上がるって。私はそんなの望んでない。去年の私は単純に運が良かっただけなんだよ。それが今年、沙希さんを差し置いてまで私は走りたくはない」




人を笑顔にするための手段が、その逆を生み出していた。


赤坂光夏が走るとなれば、如月沙希は笑えない。


しかし、




「だからと言って、手を抜くわけにもいかんだろ」


「当たり前でしょ! そんな失礼なこと、出来るわけがない」




それだから、複雑な境遇に陥ったということか。




「でも、そうね。どうすればいいか分からないの。沙希さんがとっても優しい人だってことは知ってるよ。きっと私が走るとなれば、応援してくれるような。そんな人だと思う。それでも、ね」




それでも。




「沙希さんの笑顔が見えなくなっちゃったのは確かだよ」




赤坂光夏、二回目の壁。


それは、周りの人を笑顔にしようとして、近くにいる人の笑顔を奪ってしまったこと。




「それこそ、自分の『目標』がなんなのか、また分からなくなっちゃった」


「………」




言葉を返せない。


いや、正確に言えば返すだけの立場じゃなかった。


目標をどうしろだなんて、今の僕に言えたことじゃない。


僕に出来るのは光夏の現状を指摘してやることくらいで、その解決策を示してやることなんて到底出来やしない。


ただ。


目標が分からなくなったと聞いて、安心している自分もいた。


俯いた光夏を前にして、僕は佇むことしか出来ない。そんな自分がもどかしい。


これ以上、僕に何が出来る。


そう思った、その時だった。




「やるかやらないかじゃないのかな」


「えっ?」




絶好のタイミングで。


重い空気を割くかのような、鋭い声がこだました。




「出来る出来ないって、ただの言いわけ。勝てる勝てないって、ただの結果論。後悔しないように生きるなら、答えはやるかやらないか。違うかな?」




如月沙希が、そこにいた。


凛とした佇まいで、自信に満ち溢れているその姿。


直感的に思う。


ああ、だからこの人が部長なんだ、と。




「沙希さん……」




光夏が動揺しているのが分かった。恐れる訳でも恥じらう訳でもなく、ただ単純に困惑している。


当然だろう。まさか練習後の部室に如月沙希が現れるだなんて思いもしていまい。だから光夏は問いかけに素直に答えてくれていたのだ。


だが…。




「なんとか間に合いましたね」




偶然は起きるものではなく起こすものらしい。


白の制服を身に纏った少女は、やるべきことを終えて満足そうだった。




「ちょっとだけ危なかったけどな」




小晴が、沙希を連れてきてくれた。


沙希と僕らが遭遇する、偶然を演出してくれた。


僕はその時を待っていたに過ぎなかった。光夏の話を聞いて、出来る限りの本音を引き出してやる。それを如月さんが聞いてくれれば、思いが伝わるのではないかと思った。




「光夏の話…立ち聞きしちゃった。変な風に巻き込まれてね」


「いや、えっと…」


「ごめんね」




沙希が頭を下げた。




「どうして沙希さんが謝るんですか! 謝るなら、私の方です」


「光夏、何か悪いことしたのかな? してないよね」




光夏が俯く。




「むしろ、感謝してる。光夏がいてくれなければ、陸上部はここまで強くならなかったんだから。あれだけの結果を残しているのに、光夏が走らない方がおかしいよ。あたしも、部長としてそのくらいは理解しているつもり」


「でも、沙希さんは…」




そこまで言って、光夏が言い淀む。


小晴の視線に諭されて、変わりに僕が言った。




「それで、いいんですか」


「雨崎祈吏君…だったかな。前に一度、話したことがあるね」




とんでもない記憶力。




「あたしは、後悔するような生き方をしているつもりはないから」




如月沙希はそう言って、再び光夏に向き直る。




「光夏がもし勘違いしているのなら、引退する前にこれだけは言っておこうかな。あたしは、うちの陸上部が強くなっていくことに誇りを感じているんだよ。あたしが入部した頃は弱小校で、地元の人でも名前さえ憶えられていなかった。それが、今では地元の誇りと呼ばれるまでに成長した。それは、あたしだけでやってきた事なんかじゃない。あたしがいて、他の部員がいて、そして光夏が活躍してくれたからなんだよ」


「でも、次の大会で沙希さんは引退しちゃうじゃないですか」


「あたしは、今のあたしに納得してるから」




白い歯を見せて笑う如月さんの姿が、夕陽に照らされる。




「さっきの話、聞いちゃった。光夏が陸上で走るのは人の笑顔にするためだって。でも、本当にそれだけなの? 光夏は陸上が好きなんじゃないの?」


「私は…」


「一目散でシューズを取りに行ったり、休憩時間にも準備を欠かさなかったり。そんな光夏の全部が全部、他人の為だなんて、あたしは思わない」


「………」


「誰よりも練習熱心なの、ちゃんと見てるよ。陸上部のことを誰よりも考えてくれてるの、あたしはちゃんと知ってるよ」




ちゃんと見てる。知ってる。


この言葉は、重い。




「あたしは、そんな光夏が大好きなんだよ。そんな光夏の行動ひとつひとつを、しっかりと見ているつもりだよ」


「沙希さん…」


「だからさ、私が言いたいのは」




如月さんは、その一言一言をゆっくりと、聞かせるように言った。




「光夏が周りを笑顔にしようとするのは分かるけど、何より一番は光夏自身が楽しんで、笑うことなんだよ。それを誰も自分勝手だなんて思わないよ。だってさ、私達は…」




「全力で楽しんで走る光夏の姿を見て、笑顔になれるんだから」


「…っ!」




顔を覆うように、光夏が如月さんの胸に飛び込む。


自分が勝手に抱いていた罪悪感。そして、妄想の中で膨らんでいった周りに対する不信感の全てから、解放されたような、涙を流して。




「…行こうか、小晴さん」




そっと小声でそう言って、小晴の手を引く。


涙を流す光夏の姿を見て、僕がここにいるべきではないと思った。




「光夏さんの誤解が解けて良かったです」




雨の精霊は、ここでは涙の精霊だった。


ほんの僅かなことをしたまでだが、少しでも力になれたことに小晴は満足そうな顔をしている。


そして、もう用は済んだとばかりに空を見上げて、彼女は言った。




「これで、また光夏さんの夢にひとつ近づくといいですね」

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