第9話 運命断つ切札
「とっておき? それは実に興味深い。それでは見せて貰おうか」
黒い影は真っ直ぐこっちへ向かってくる。
演算間に合うか!?
「私に任せてっ!」
我々と蚊の群れの間にマリアが割って入る。
「『マリア』」
「大丈夫っ! ニュンフェ、お願いっ!」
マリアの髪がふわりと
右手を振りかざすと、白い光の波が一気に黒い影を押し返す。
大半は白い波に飲み込んだが、一部枝分かれ躱される。
<演算補助開始。情報収束開始。予測投影開始。オブジェクト「
オブジェクト「阿頼耶識」
空間にある汎ゆる情報を回収し蓄積し未来予測を行う。温度、湿度、物質、物質の元素の構成、原子の相対位置、量子のスピン、運動量、電子の位置確率。量子の性質である不確定性原理の限界に挑戦した。ベイズ推定による未来予測オブジェクト。これがアキラがラプラスの悪魔と呼ばれる由縁である。
<予測開始。事前確率……推定。事後確率……改訂。思考節約開始。再予測開始……>
情報を蓄積しては予測を繰り返す。余分な思考は排除し、ただ予測を行う。
蚊の群れは二本、四本、八本と鼠算式に枝分かれしてがマリアを360°包囲し死角なく襲いかかり――
黒い影を無数の銀閃が引き裂いた。
マリアの前に立つ背を見せるアキラ。
彼は天羽々斬を振りかざし蚊の群れが霧散させた。
<阿頼耶識>により全方位攻撃を予測し、さらに<阿頼耶識>により蚊の群れの中に統率する分隊長のような蚊を見抜き、それだけを切り落とした。
蚊の群れは統率を失い霧散したのだ。
「マリアっ!」
「うんっ!」
マリアは両手を振り上げると、光の粒子が巻き上がり、一気にニュンフェが飲み込んでいく。
「みんなニュンフェでウィルスを除去するっ!」
難を逃れた蚊はまだいた。
やはり女王を何とかしないと。
マリアが掲げた手の平を広げると、ニュンフェが無数に枝分かれし、白い光の筋が空間を疾風の如く駆け抜け、一匹一匹捕らえていく。
それはまるで大樹だった。蚊を包みこんだ白い光は実や葉や花のようだ。
アキラは駆け抜け男に迫る。
アキラの視界に男の動作予測がモーションとして、現在の状態と重なって表示される。
セミオートで発砲しながら、突っ込んでいく。
残像として表示された男を打ち、男の行動を制限する効果的な牽制を行った。
更に電子の確率密度が色分けされ、着弾部分が青く表示された。
「無駄な事をっ!」
弾丸はこの男には通じない。低質量の物体ではダメージを与えることは出来ないだろう。この男への攻撃はどうあってもすり抜ける。それも実態がありながらだ。考えられるのはトンネル効果。量子力学において、確率は小さいものの粒子がポテンシャル障壁をトンネル抜けして逆側に抜けることがある。この場合環境からエネルギーを借り受けて丘を乗り越えることで反射電子のエネルギーを高くすることで返済する。
極端な話、これを利用すれば人間は壁をすり抜けられる。仕組みは解らないがそれを利用したのだろう。だとすればそれは使用者の認識に依存し、エネルギーを借り受ける場合、電子の確率密度に変化が生じる。
だが――
人の認識速度を越え、電子の確率密度が高い場所を攻撃したらどうなるだろうか。
青く表示された部分は確率密度が低く。逆に赤は確率密度が高い。
男の肩に一匹の蚊を目視で確認、阿頼耶識で読み取る。
体長4.82㎝。繁殖器確認。女王の確率99.2%
「紅、
『了解っ!』
私は0.5秒だけ重力系移動オブジェクト<醜女脚絆>を起動する。
発生した重力波により亜音速まで加速する。
<天羽々斬最大硬化>
天羽々斬の刃の素材は超原子、複数の原子で構成された
アキラは男の認識速度を越え、最大硬化の天羽々斬で、確率密度が真紅の肩ごと蚊を切り裂いた。
「何っ!」
男の肩と血液が宙を舞う。
女王は胸部から真っ二つに引き裂かれ、床に落ち生き絶えた。
赤い鮮血が金属床を染める。
「馬鹿なっ!? 何故すり抜けないっ!?」
男は宙に舞った腕を掴み、傷口に当てると、泡が吹き出し瞬時に結合する。
「頻度確率操作……それがテメェのオブジェクトだろ」
火星評議会の連中は、
男は電子の確率密度を操作し、物体をすり抜けさせていたのだ。
「……よく分かったな。それに、モース硬度8の生体義体をいとも容易く切り裂くとは……!」
「お前はそのオブジェクトを使い、初めの一発は食らったふりして、すり抜けさせていた」
「……ご名答。その眼が君をラプラスの悪魔と呼ばれる由縁だったのだな……」
「ああ、俺の眼は確率密度さえ見切る。これ以上テメぇがいくら頻度確率を操作しても無駄だ」
「……くっ!」
男の表情が初めて曇った。
男の背後の死角へ音もたてず白い影のニュンフェが忍び寄る。それ男は完全に意識の外を付いき、全く気づかない。
白い光の粒子が男の四肢を包みこむ。
マリアは男に向け手を掲げていた。
「何だっ!? これはっ!?」
男が気づいた。マリアが手の平を握りしめる。白いの粒子は大理石のように硬質化し四肢を拘束し――
「これはっ!? 細菌かっ!?」
男が見せた動揺、一瞬の隙を付き――
「終わりだっ!」
アキラは天羽々斬を薙ぎ、全てを断ち切る。
空間さえ断絶するかのような銀閃の一刀。
男の胴体は分かれ、絶命する筈だった。
切り裂かれた胴体から男の身体が青い粒子に変わっていく。
男は不敵な笑みを浮かべている。
『しまったっ! 量子化かっ!』
男は身体を量子化し、この場から逃げようとしているのだ。前の相手もそうだった。
「逃がさねえっ!」
遅かった。天羽々斬は空を切る。男は量子化し身体は消えていた。
男の笑い声が木霊する。収音装置に嫌らしさが響き、堪らなく不快だ。
「素晴らしい戦闘能力だっ! 私の目に狂いは無かったっ!」
かなり量子が広範囲に拡散し、阿頼耶識をもってしても実体を掴めない。
「どこにいるっ! 逃げる気かっ!」
「誠に残念だがそうさせてもらうよ。実験データも取れたし、また会える日を楽しみにしているよ……」
「くそ野郎がっ!」
男の笑い声と共に、その存在を完全に消した。
あの笑い声は何時までも私の回路をリピートし不快な思いをさせた。
<阿頼耶識……終了>
突然、視界が歪んだ。
平衡感覚を失い、アキラが膝を付く。
滴り落ちる紅い液体。
赤く染まった冷たい鋼鉄の床が何度も回っている。
過剰なストレスにより上昇した血圧が鼻の血管を破裂させたようだ。
「アキラっ!」
マリアが走って駆け寄る。
顔を抑え無理矢理起し、診察を開始する。
「……大丈夫だ……」
「もうっ! 馬鹿っ! 大丈夫じゃないよっ!」
鼻血がマリアの服を赤く染める。
「悪りぃ……洗って返す」
「馬鹿っ! こんな時に服の心配っ! 帰ったら検査するからねっ!」
「はは……お手柔らかに頼むぜ――」
不意にアキラはマリアに抱き締められる。
「……おいおい、服にまた血がつくぞ……?」
マリアの肩が震えてる。もしかして泣いているのか?
「……心配した……恐かったんだからぁ……」
気負っていても少女か……死の恐怖に晒され続けたんだ無理もない。それに大切なものが傷ついていく姿は耐え難いものだったのだろう。
「悪い……心配かけた……」
「貴方は人の気も知らないでっ! いつもいつも、いっつも無茶してっ!」
「すまん……ん? いつも?」
「……あ……」
アキラはマリアの肩を抱き、見つめる。
マリアは視線を反らし、アキラを見ようとしなかった。
「……もしかして……」
「いや、さっきのは――」
「そんなに俺は迷惑かけていたのか?」
「……………………はぁ?」
今まで自覚が無かったのか?
マリアは余りのアキラの鈍さに彼女は呆れて頭を抱えている。
オーバーフローを起しが演算速度が急激に落ちていため、フォローする余裕がない。これが人間で言う疲労に相当するのだろ。
『話はその辺にして、二人とも帰ろう。 皆が待っている』
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