Lv.5「やはり君と遊ぶのは楽しい。私の生きがいだ」

「まずは状況を整理しよう」


 そう言って、マスターはソファーに腰掛けた。

 状況の整理と言われましても。


「俺とマスターがメイドさんに監禁されてるっていう、とてもわかりやすく困った状況なのでは」

「これほど自由な監禁などあるものか。軟禁ですらないぞ」

「……まあ普通に携帯とか持ってるもんな」


 パソコンもネットに繋がってるし、最悪の場合、警察ぐらいなら呼べる。

 そんな大事おおごとにするわけにもいかないけど。


「そもそも篠原君に、真面目に閉じ込める気はあるまい」

「え、なんで? ドアは開かないじゃん」

「いいか、ルシアン。これは重要な情報だが」

「お、おう」


 真面目な表情で、マスターは言う。


「この部屋には、手洗いがないのだ」

「……そりゃ出してもらえないと困るな」

「うむ。監視付きだろうが、部屋から出ることは可能だろう」


 大事なお嬢様にトイレを我慢させるわけにもいかないだろうし、出してくれーって言えば出してはくれる訳か。


「これ、意外と簡単に出られる……? 真剣に監禁されてる訳じゃないのか」

「彼女は迷惑ではあるが、基本的には善良な人だ。まさか未成年者拐取などしない」

「俺が主張すれば立派に誘拐なんじゃないかって気もするけど」


 でも、篠原さんが悪い人じゃないなら問題は簡単かな。

 こっちはこっちで事情があるんだから、ちゃんとわかってもらえばいいだけだ。


「それならなんとかなりそうだな」

「ふむ……作戦を思いついてしまったのか、ルシアン」

「なんか妙に嫌そうだなマスター」

「嫌なわけではないが……」


 マスターはかなり渋い顔で俺を見つめた。

 なんでだろ、作戦があるって言ったら、アコとかめっちゃ嬉しそうにするのに。


「ともかく、その作戦を話してみてくれ」

「ほら、篠原さんは俺達の声が届くところに居て、悪い人じゃないわけだろ」

「うむ」

「なら、今日は用があるから帰らせてください! って素直に頼もう!」

「却下だ」

「なん……だと……」


 自信の作戦があっさりと否定されてしまった。

 なんでダメなんだよ、完璧な作戦だろ!


「困ってるんだから、まずは素直に頼めばいいじゃん。それでダメなら別のやり方を考えるし」

「そうだな、誠実に頼めば脱出自体はできるだろうが……決して良い方法とは言えん」

「えー、ちゃんと話すのが正しいやり方だと思うんだけど」

「ああ、正しい。正しいから問題なのだ」


 テーブルをこつこつと叩き、彼女はたしなめるように言った。


「正面から誠実に接する。それは正しい。非常にプリミティブで、強力な正しさだ」

「プリ……? まあ正しいならいいじゃん」

「正しすぎるのだ。強制的に相手を悪に落とす程に、な」

「……え?」


 相手を悪にする――って、どういう意味だろ?


「あなたのせいで罪のない自分が困っているのでやめて欲しい――その言葉は正しい。しかし正しいが故に、向けられた側は、他人を困らせた悪人ということになってしまう」

「困ってるのは事実だしなあ」

「そこについては謝罪するが、篠原君も悪意があるわけではないのだ」


 マスターは困り顔で、ほとんど中身の残っていないカップを揺らす。


「庇うわけではないが、篠原君もまた、彼女なりの善意で我々を閉じ込めている。私のリアクションが楽しみだ、などと言っていたが……確かに君がいると、私は素が出やすい。普段の両親との食事より、かなり会話が弾むのは確かだろう」

「マスター、俺達と居る時の方が素なのか……」


 和やかな食事になるのはいいことだし、何も用事がなかったら覚悟を決めて付き合ってもいいと思う。ただ、今日はちょっと困るからなあ。


「でもそれ、俺は困るんだよなあ」

「君にも利益はあるとも。車で少し将来の話をしたと思うが……君がごく普通の社会人として生きていくなら、父と顔を合わせておいて損はないだろう」

「マジで!?」


 知り合いになるだけでプラスの人間ってどんな大人物なの!?


「何をしてる人なんだよ! 政治家か何か!?」

「そこまで大層な家系ではないが、この辺りで働くつもりなら手札の一枚にはなるな」

「どんだけだよ……いやこんなビル持ってりゃそうか……」


 自宅代わりに使うぐらいだし、他にもあるんだろう。

 土地とか建物とか持ってる人は凄いんだろうなあ、ぐらいのことはなんとなくわかる。


「皆とのホワイトデーを明日にまわしてでも、両親と夕食を共にする方が君の得になるだろう。そういう意味で、篠原君は善意で閉じ込めているわけだな」


 大人の理屈だがな、と苦笑して言うマスター。

 言いたいことはわからなくもない。


「将来のため、か……アコが喜びそうではあるなあ……」

「私以外の女の親と会うだなんて! と言って怒るかもしれんぞ」

「……確かに、金とか仕事とかどうでもいいと思ってるやつだけども」


 アコのリアクションはわかりやすいようで、読めないところもある。

 どちらにしても、偉い人とのご飯なんて絶対に嫌です、とは言うだろうなあ。


「大人の理屈ではあるが、篠原君なりの善意で我々を夕食に誘ったわけだ。にもかかわらず迷惑者扱いしては、彼女が可哀想だろう?」

「それはちょっと申し訳ないかも」


 こっちは家に押しかけたわけだし、ご両親と顔を合わせて、お邪魔しましたって挨拶するのは礼儀な気もするし。


「オンラインゲームのプレイヤーにはありがちなことなのだが、ルシアン、君は勝つことにこだわり過ぎ、勝ち方にこだわりがなさすぎる。重要なのは明確に勝つことではない。最適な落とし所に着地することだ」

「う……まあネトゲは勝てばおっけーなとこあるかも」

「リアルでは、相手を攻めて勝てば良い、というわけではない。特に相手が敵ではないのならな」

「なるほど……」


 マスターの話は勉強になるなあ。

 ネトゲなら、敵は全部倒せばいい。クエストはどんな形でもクリアすれば報酬は同じなことが多い。

 でもリアルはそうはいかないもんな。勝てばそれでいいってわけじゃないか。


「なら今回の落とし所は?」

「そこまでされたら逃げられても仕方がない、というような、子供らしい頑張りを見せなければならない。ズルはせず、正面からこの脱出ゲームを乗り越えようではないか」

「ふむふむ」

「以上が状況の整理だ」


 マスターが満足気に話をまとめた。

 目的は、篠原さんの顔を立てつつ逃げ出すことなんだな。

 うーん……でもさ、顔を立てるっていうなら、他に方法はあるんじゃないかな。


「ちなみに、篠原さんの善意は本当にありがたいけど、どうしても今日は俺の都合が悪いから帰らせてってお願いするのは」

「私が面白くないので却下だ」

「ですよねー!」


 もう一つの目的は、マスターと楽しく遊ぶことらしい。



   †††   †††   †††



「では早速、行動を開始しよう」

「と言っても、どうするんだ?」

「まずはこの部屋から外に脱出することだな」


 ドアの方に顔を向けるマスター。

 髪がふわっとなびいて、緩やかに流れた。


「脱出方法はいくつかあるが、最も簡単なものは、本人に扉を開けさせることだ」

「やっぱり篠原さんに開けてもらうんだな」

「うむ。手洗いに行くとでも行ってドアを開かせ、鍵が閉まらないように何か挟んでおけば、以降は簡単に脱出ができる」

「おーけー、それでいこう」


 何にせよ部屋から出ないと話が進まない。

 六階の窓から出るのは流石に怖いし、できれば真っ当にドアから出たいところだ。


「じゃあ早速、篠原さんを呼ぶか」

「いや、その作戦で外に出られるのだから、他の手段をとっても問題はない、という建前を用意した上で……」

「建前……?」


 てくてくとパソコンに歩いていくマスター。

 そしてかたかたとキーボードを叩き始める。

 しばらく操作すると、部屋のドアから、ブー、と音が。


「よし、イントラネットから私の部屋の電子ロックを解除したぞ」

「おうちょっと待て」


 いきなりズルい方法が出たんだけど!

 子供らしく正面から頑張るんじゃないの!?


「どういうことだよ、マスター! ロック解除できるのか?」

「無論だ。電子制御である以上、管理権限と端末さえあれば操作は容易い。特にこの電子ロックシステムは、試験的に導入したものでしかないのでな」

「管理権限、あるんだ……」

「ここは自宅だぞ?」

「そう言われたらぐうの音も出ないけど!」


 そりゃ自宅の管理権限が、住んでる本人にない方がおかしいよな!

 言われてみたら当たり前だわ!


「そして我が家で最も機械に強いのは私だ。必要な情報は手元にある」

「なんで閉じ込められると思ったんだ篠原さん……」

「彼女もさして電子機器に明るいわけではないのだ」


 メイド篠原さん、割と普通のお姉さんだったらしい。

 誰も彼もが機械に詳しいわけじゃないか。

 ともかく、これで部屋の外には出られるんだな。


「後は逃げるだけ、か?」

「そう簡単ではない。彼女が警戒をしているのは間違いないぞ」

「あー、バレたら捕まるんだな」


 逃げ場のない廊下で追いかけられたら、流石にどうしようもない。

 クールで有能そうな感じだったし、護身術とかで取り押さえられそうな感じもする。


「見つからないようにしなきゃダメか……大変だな」

「うむ。そこで、この手鏡だ。廊下の先に鏡を出し、先の様子をうかがう。彼女の位置を確認して行動を起こすわけだな」

「スパイっぽいな! それで行こう!」


 なんかステルスゲーみたいでワクワクするな!

 そう胸をときめかせる俺に、マスターは頷いて、


「――ということを行ったという建前で、監視カメラをチェックするぞ」

「だから待てって!」


 凄くズルい手が出たぞ!

 監視カメラあるの!? しかも使えるの!?


「見られるのかよ、監視カメラ! ってか、なんで閉じ込められてる側が監視カメラを使うんだよ!」

「何故だ、監視カメラは内側から使うものだろうに」

「そうだけど!」


 おっしゃる通りだけど、ステルスゲーの監視カメラって壊すもんじゃん! こっちが使うのおかしいだろ!

 

「よし、映像が出たぞ。見てみろ」

「ああもう……ええと、これは廊下か」

「流石に部屋の中にカメラはないのでな」


 監視カメラの映像は、ビルの廊下を映し出したものだった。

 この部屋の前にあるカメラみたいだけど、篠原さんの姿はどこにも見えない。

 パッパッパッと映像が切り替わっていくがどこにも人気はなかった。

 と、一つだけドアの空いた部屋があるのが見えた。


「この部屋、ドアが開いてるな」

「執務室だな、篠原君はここに居るのだろう。我々が呼んだ時に気づくよう、ドアを開けて居るらしい」

「問題が起きないように気を使ってくれてるのかな」

「逃げようとした場合の対策でもあるだろう」

「ですよね」


 一応逃げられないように考えてるみたいだ。


「幸いなことに、執務室はこの部屋より奥だ。エレベーターホールまでのルートはクリアだと見ていい」

「ふんふん。じゃあ作戦は……」

「どんなゲームでも、最初に挑戦する戦法は決まっている」


 きらりと瞳を光らせて、マスターは力強く言う。


「強行突破だ!」



   †††   †††   †††



 そっとドアを押すと、重い割に音もなく開いてくれた。

 監視カメラの映像通り、廊下には何の人影もない。


「……敵影なし」

「よし、行くぞルシアン」


 部屋を出て、恐る恐る廊下を進む。

 深い絨毯が足音を消してくれるから、よほどのことがなければ音は出ない。


「このままエレベーターに乗り込めば我々の勝ちだ。慎重に行くぞ」

「おけ」


 耳元でささやくマスターに、頷いて返す。

 興奮しているのか、どことなく吐息が熱く感じられた。

 そのまま篠原さんと出会うことなくエレベーターホール兼玄関ホールまで到着した。

 下へのボタンを押して、その間に靴を履き替える。


「くっ、エレベーターって遅いな……」

「見回りをしている様子はなかった、心配はない」


 わかってるけど、緊張するのは仕方ない。

 少しの間をおいて、やっとエレベーターが六階に来てくれた。


「これに乗って降りれば脱出完了か……意外と簡単に出られたな」


 そう油断した俺をあざ笑うように、ドアが開く瞬間、チーン、と大きな音が廊下に響く。

 やっべ、かなり大きな音だったぞ!


「今の聞こえたんじゃ!?」

「間違いない! すぐに乗り込むぞ!」


 これ、絶対篠原さんに気づかれたぞ!

 俺達は慌ててエレベーターに乗り込んだ。

 マスターが一階のボタンを押し、すぐさま閉のボタンを押し込む。

 イライラするぐらいゆっくりと、しかし確実にドアが閉まっていく。


「危ないな、ダメかと思った……」

「うむ、なんとか間に合ったようだ―― 」


 ドアが締まり切る直前。

 ガンッと音を立てて、ほんの少しの隙間を残して、ドアの動きが止まった。

 え、と思った瞬間、ドアの隙間からするっと指が入り込んでくる。

 

「ちょっ、指! 指!?」

「ああ……ダメだったか……」


 細い指がぐっと扉を押し広げる。

 ゆっくりと開かれていくドアの向こうには、


「お嬢様、西村様」


 落ち着いた声で言いながらも、どこか得意げな笑みを浮かべたメイドさんが居た。


「夕食まで外出は控えて頂けますでしょうか」

「……はい」

「うむ……」



   †††   †††   †††



「失敗した失敗した失敗した……」

「中々に惜しかったな。初回から幸先が良いぞ」

「ドアの隙間から指が入ってくるの、めっちゃ怖かったんだけど」

「うむ、映画もかくやという光景であったな」


 マスターは笑ってるけど、俺は下手なホラーよりびっくりしたぞ。

 この人、俺と一緒にゴリ押し脱出ゲームをするのを楽しんでるんじゃなかろうか。


「そもそも部屋から脱出してたことに全く突っ込まれなかったなあ」

「これでも私の自宅だ。鍵の閉まった部屋から脱出したぐらいで驚きはせんだろう」

「普通はかなり驚くと思うんだけど」


 マスターの家では、普段からこういうことが行われてるんじゃないかって気がしてきた。

 意外と脱走癖のあるわがままお嬢様だったりするんだろうか。


「ともあれ、靴を手に入れることはできた。一歩前進といったところか」


 俺達は、履き替えた靴をこっそり持って戻ってきた。

 これで靴を履き替える時間は省略できる。


「音がする以上、もうエレベーターは無理かな?」

「いや、ギリギリのタイミングだった。少しでも気をそらせば脱出が可能だ」

「なるほど。しかし気をそらすって言っても、どうやって……」

「これを使う」


 マスターは携帯を手にしてニヤリと笑ってみせた。


 再びエレベーターホールに戻ってきた俺とマスター。

 俺はエレベーターのボタンに手をかけて、彼女の様子をうかがう。


「押していいか?」

「少し待て……よし、今だ!」


 マスターの合図で、下行きのボタンを押す。

 同時に、携帯から微かに呼び出し音が流れ出した。

 少しの間を置いて、廊下の向こうからも電話の鳴る音が。


「ふっふっふ、この階の固定電話を鳴らし、その音でエレベーターの音を誤魔化す。仮に気づかれても、電話中なら対応が遅れるという作戦だ。これで脱出成功間違いなしだ」

「篠原さんが電話に出てくれたら、さっきの感じなら間に合いそうだよな」

「うむ、これで我々の勝利だ!」


 本当に楽しそうだなあ、マスター。

 ドキドキとエレベーターを待っていると、


『もしもし、お嬢様? いかが致しましたか?』


 そんな声が携帯から聞こえてきた。


「あれ、マスターだってバレてんじゃん」

「自宅の番号だぞ、見知らぬ番号では無視される可能性がある」


 ひそひそと言っている間に、エレベーターが到着した。

 チーン、という音を立ててドアが開く。

 もう呼び出し音は止まってたし、聞こえちゃったかな?


『もしもし、お嬢様?』


 いや、大丈夫だ、まだ携帯から声が聞こえる。

 よし、この時点で執務室にいるなら、どうやっても間に合わないはず!


「成功だマスター、乗ろう!」

「うむ! すまない篠原君。我々は所用があるため、少し外出する。悪いが夕食には合流できない」

「ごめんなさい!」


 二人で携帯に声をかける。

 良かった、無事に脱出できた。これでアコと秋山さんにお返しを渡しに行ける!

 そう喜んでエレベーターに乗ろうとした俺の肩に、ぽんと手が置かれた。


『「それは、困ります」』


 携帯と耳の両方から声が聞こえる。

 俺の肩に置かれた手に、ぐっと力がこもった。

 前に、進めない。


「ま、まさか……」

「そんな馬鹿な……」


 恐る恐る振り返った俺とマスター。

 そこに立っていたのは、片手に受話器を持った篠原さんだった。

 ああ……コードレスなんですね、ここの固定電話……。


「お二人とも、お部屋でお待ち下さい」

「……はい」

「うむ……」



   †††   †††   †††



「またしてもダメだったか……」

「そりゃ閉じ込めてる部屋から電話があったら様子見に来るよなあ……」

「しかし固定電話へかけたはずなのだ。固定電話という名前なのに、あんな固定されていない電話を持ち出すとは卑怯だろう」

「コードレスの電話機か、子機だろ。よくあるって」

「そんなものがあるのか……」


 無線で本体とつなげて会話できる、携帯電話の原型みたいなやつ。俺の家の電話にもついてるけど……知らないのか、マスター。

 全く考えてなかった俺が言うのも何だけど、変なところで抜けてるのがマスターらしい。


「いやはや、失敗ばかりだが、なかなか面白いな」

「完全に楽しんでるじゃん、マスター」

「やはり君と遊ぶのは楽しい。私の生きがいだ」

「遊ぶって言っちゃったよ!」


 篠原さんもマスターも、最初から遊んでる感じではあったけどさ!


「もう素直に帰してくれって頼もうぜ」

「いや、まだ最後の策がある」

「最後とな」

「うむ。ここまでの失敗を踏まえた上での、決戦用プランだ」


 気合の入った表情で言うマスター。

 決戦と言われても直接対決は勘弁して欲しいんだけど。


「どうするんだ?」

「ルシアン、ここまで我々はエレベーターにこだわってきたな?」

「そりゃ脱出するならエレベーターだし」

「うむ。しかし、実はもう一つ脱出路がある。階段だ」

「階段あるのかよ!」

「当然だろう。六階建てなのだ、避難用の階段がなければ違法建築だぞ」

「いや、知らないって」


 なんで建築基準法を知ってて電話の子機を知らないんだろ。

 それはともかく、階段ならもっと簡単に脱出できそうな気はするな。


「なら階段で行こう! どこにあるんだ?」

「階段はこの階の奥……執務室の先にある。普通に行けば確実に気づかれてしまうだろうな」

「それ詰んでるじゃん!」


 執務室の前を通って階段まで逃げ切るって、それはちょっと無理だろ。階段を降りる前に靴も履き替えなきゃいけないし。


「階段もエレベーターも無理なら、マジでどうするんだよ」

「ふっふっふっ。そこでこれまでの失敗が活きてくるのだ。見ていろ、私の見事な作戦を!」


 マスターは自信満々に、篠原さんに聞こえてるんじゃないかってぐらいに良い声で言った。


「これがラストミッション! 名付けてプランBだ!」

「……絶対に今思いついただろ」



   †††   †††   †††



「作戦通りにやって来たけど、マスター、どうだ?」

「うむ、完璧だ。まもなく来るぞ……3、2、1……来た!


 カウントダウンにあわせて、マスターが携帯の通話ボタンを押す。

 そして、チーン、とかすかな音が聞こえた。俺が呼んだエレベーターの到着した音だ。


「よしよし、タイミングは完璧だな。このために、ここまで失敗を重ねてきたのだ」 


 画面に映し出された監視映像の中で、篠原さんが部屋を出て来た。

 と同時に、りんりんと固定電話の呼び出し音が鳴り出した。

 篠原さんは一瞬足を止めて部屋の中に顔を向けた後、はっと慌てたようにエレベーターホールへ駆け出して行く。

 そして部屋の前を、衣擦れの音が通り過ぎて行く――よし!


「今だ!」

「行くぞー!」


 パソコンの前を離れ、俺とマスターは、そろって部屋を飛び出した。

 エレベーターホールの逆方向、六階の奥へと、音を立てないように走る。


「ふはははは! 電話の呼び出し音で気をそらしている間にエレベーターに乗り込む――と見せかけて、入れ違いに階段へ向かう! 完璧なタイミングで行われたこの作戦、成功は間違いなしだな!」

「言ってる間に走れー!」


 何度か角を曲がりながら、ぱたぱたと走る俺達の視線の先、廊下の奥に非常階段のマークが光っていた。

 自宅であのマークを見るとは思わなかったよ!


「あれか!」

「うむ! 鍵は閉まっていないはずだ!」


 階段につながる扉を開くと、ぎーっと音を立てて、冷えた空気が漏れ出してきた。

 よし、これは間違いなく外に繋がってるな!


「さあ、急ぐぞ。後は靴を履いて逃げるだけだ」

「わかってるって、俺もすぐに――」


 え、ちょ、あれ、嘘っ!?

 俺は廊下の方に目を向けて硬直してしまった。


「…………」


 まだ俺達とかなり離れた廊下の先に、こちらを見つめる篠原さんが居たのだ。

 もうこっちに来てたのかよ! バレるの早いって!

 これはのんびり靴を履き替えてたら逃げられない。こうなったら靴なしで行くしかないか!

 ……と、思ったんだけど。


「…………」


 篠原さんは、しー、と人差し指を唇にあてて、残った手をひらひらと振って見せた。

 行っていいん、ですか?


「どうしたルシアン?」

「いや……なんでもない」


 声をかけてくるマスターに返事をして、篠原さんに頭を下げて階段へと滑り込んだ。

 これはどうも、見逃してもらったみたいだな。


「我々が居ないことには、すぐに気づくはずだ。篠原君が追いついてくる前に降りるぞ」

「りょ、了解」


 真面目な顔で言うマスターに、さっき追いつかれたけど見逃してくれました、とは言なかった。


「だが転ばないように注意するのだぞ、怪我をしては意味がない」

「……怪我……そっか、わかった」


 階段を駆け下りるマスターの後に続きながら、納得した。

 篠原さんとしては、階段に入られた時点でもうダメなのか。

 階段なんて危ない場所でお嬢様を捕まえたりして、怪我でもさせたら大変だ。驚かせて転ばれても困る。

 マスターが階段にたどり着いた以上、そこで脱出は成功してるんだ。


「落とし所、か。なるほどな……」


 脱出するのは何度も止めたけど、どうしても嫌なようだし、怪我をさせてはいけないから見逃した、という形は、なるほど篠原さんにとっても許容範囲なんだろう。

 マスターの言う最適な落とし所っていう感じ、ちょっとわかった気がする。

 理解はできたけど……でも篠原さん、妙に慣れてるというか、あっさりしてたような。


「……マスター、もしかしてこういう逃亡劇ってよくあるのか?」

「っ!?」


 聞いてみると、マスターはびくっと身を震わせて、速度を落とした。

 とんとんと階段を降りながら、らしくもなくつっかえつっかえに言う。


「そ、そこまで頻繁ではないが……なくもないというか……稀によくあるというか……」

「あるんだ……」


 普段からこんなことやってるのかよ。どういう状況で起きるんだよ。


「日曜にシュヴァインやアコと出かけると約束している日に、さして重要ではない予定を押し込まれたりすると……無理やり脱出することも、あってだな……」

「ああ……そういう時に、こうやってステルスゲーみたいなことをしてるんだな」

「まあ心配は要らん。こうして脱出しても後から咎められた経験はない。多少なりとも重要な用事では、絶対に逃げていないのだ」


 そりゃ篠原さんも楽しそうにやってるわけだ。

 いつもやってる遊びみたいなもんなんだな。


「……マスターの家って、面白くて面倒くさいな」

「なぜだ!?」


 マスターって、昔は親の言う通りにしてたけど、ネトゲを始めてから色々抵抗するようになったって言ってたよな。

 家族もお手伝いの人も、そうやって急に子供らしくなったマスターを可愛がってるんじゃないかなって、なんかそんな気がした。

 別荘にお邪魔したりとお世話になってるし、今度みんなで、マスターの両親にご挨拶したいな。きっと面白い人だと思う。


「……しかし、お金持ちって変な人が多いんだなあ……」

「ネットゲーマーに言われたくはないぞ」

「……そだな、ネトゲも変な人は沢山いるか」


 うん、俺も人のことは言えないな。


 篠原さんが追って来ることはなく、俺達は無事に外に出ることができた。

 ここまで来たら流石に連れ戻されるってことはないだろう。


「駅まで送りたいところだが、私は篠原君を足止めせねばならん。すまないが、ここからは別行動だ」

「一人で大丈夫だよ。篠原さんには謝っといてくれ」


 今度機会があったら、できれば他のみんなも一緒の時に、ご一緒しますので。

 それはもう面白いマスターの姿が見られるぞ、きっと。


「ではルシアンも気をつけてな」

「まあ、今以上の危険は早々ないと思うけど」

「そ、それもそうだが」


 苦笑するマスター。友人の家に閉じ込められるって、それ以上に危ないことは日常ではそんなにないよな。

 と、その時。急に俺の携帯が鳴り出した。

 番号も教えていないのに、篠原さんから電話かと一瞬警戒したけど、違う。


「あれ、妹だ」

「何か緊急の要件ではないか?」

「かも……そんなに電話してくるタイプじゃないし」


 SNSを通じて送ってくるならともかく、電話っていうのが緊急っぽい。

 嫌な予感を覚えつつ、とりあえず出てみる。


「ど、どうした瑞姫? 何かあったのか?」

『お兄ちゃん、助けてー!』


 電話の向こうから悲痛な声が聞こえた。

 な、マジで緊急事態か!? どうしたんだ!?


「どうした、事故か、事件か、急病か!?」


 慌てた俺に、同じように慌てて、瑞姫が言う。


『お兄ちゃんのお友達の、強そうな人が来てるの!』

「強そうな人!?」


 どんな人だそれ!? 格闘技とかやってる人!?

 そんな友人、俺には居ないぞ!?


「強そうって、どういうことだ!? 本当に俺の友達なのか!?」

『強そう!? 私そんな風に見える!?』


 電話口から、瑞姫とは違う声が聞こえた。

 漏れ聞こえた声には聞き覚えがある。間違いなく友人だし、それに強い人だ!


「秋山さんかー!」


 わかるわ、確かに強そうだわ!


「なんでうちに来てるんですか!」

『ホワイトデーだから、先月のお返しを貰いに来ましたー!』

「自分から来てるんですか!?」


 瀬川にでも聞いたんだろうけど、自分から取りに来るか!?

 本当に、行動力の化身かこの人! 


「すぐ行くから大人しくしててください! 瑞姫は気をつけろよ、何かあったら家は捨てて逃げるんだ!」

『私って西村くんの中でどういうイメージなの!?』


 何か言っている秋山さんをスルーして、電話を切る。

 まさかの危機的状況だ。何なら、マスターの家に監禁されるよりヤバイ。 


「悪い、マスター。すぐに帰らないと!」

「う、うむ。頑張るのだぞ!」

「おう!」


 緊急ミッション、リア充襲撃クエストが発生。

 なんとしても、俺達の家を無事に守らないと。

 待ってろよ瑞姫! 今お兄ちゃんが助けに行くからな!


「……あー、ルシアン。セッテにももう少し優しくするのだぞー」


 小さく聞こえたマスターの声は、意図的にスルーすることにしたのだった。

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