第12話
翌日の夕方。
エリル第三王女の来訪日を迎え、接見の時刻が近づいてきた。
もちろん準備は万端であり、リビングは華やかな歓迎ムードで彩られている。
『ようこそ日本王国へ!』
『エリルさまワッショイ!』
『ランテリア王国万歳!』
などと貼り紙や風船をそこらの壁に施し、おもてなしの粋を極めた。
子どものお誕生日会に見えなくもないが、浩太の真心がこもった迎賓の場である。
客の冒険者たちにもその旨は伝えた。
本日に限り、屋号『吉岡家』は休店だ。
そして浩太と蘭子、チャムの三人は、ダンジョンの入口で並び立ち、今か今かとその時を待っている。
「殿下、エリルさまがお見えになられたようです」
花柄の白いワンピースで身なりを整えたチャム。
彼女はダンジョンの奥を正視するように見据え、静穏かつ緊迫に口をつく。
すでに通路の両脇には、たくさんの兵士が向き合う形で列を成していた。
頭からつま先まで鉄鎧を装着し、物々しい雰囲気を漂わせた兵士たちだ。
「オーホホホ! オーホホホ! オーホホホ!」
ダンジョンの奥から木霊する、イカれた女の笑い声。
エリル第三王女であることに疑う余地はない。
わがままお嬢さま、という事前情報は、言葉を交わさずとも今ここに確定した。
そんな小柄な人影が、ギニスらしき兵士を従え、ズイズイと歩み寄ってくる。
ほどなくして――。
エリルは浩太の眼前で立ち止まり、その全貌をあらわとした。
「わたくしはランテリア王国、第三王女、エリル・ランテリアでしてよ。あなたが日本王国の王子、吉岡浩太さまでして?」
「はい、僕が王子の吉岡浩太です。エリルさま、ようこそお越しいただきました」
一人称を『俺』から『僕』に変え、言葉遣いに気をつける。
ギニスにはタメ口で軽くあしらったが、目の前にいるのは一国の王女だ。
浩太も王子という立場上、王侯貴族の振る舞いを心がけねばならない。
「こちらこそお招きいただき、感謝しておりますわ。オーホホホ!」
手の甲を口元に添え高笑いするエリルだが、見た目がもうぶっ飛んでいる。
百五十にも満たない背丈に反し、地面スレスレまで伸びる金色の縦ロール。
二つの掘削ドリル、それを頭に装着しているといっても過言ではない。
そり返った尋常ではない長いまつ毛には、余裕で文鎮が載ると思われる。
お星さまがキラキラするパッチリお目めは、どこの宇宙につながっているのか。
腰のキュッと締まった青いドレスはとても艶やかだが、どちらかといえばテニスウェアのほうがお似合いだ。
そしてエリルの周囲には、少女漫画のごとく謎の花が咲き乱れていた。
浩太は思わず目をこすった。
「あたしは王子の親戚、坂峰蘭子です。エリルさま、ようこそいらっしゃいました」
「わ、わ、わ、わたしは殿下に仕える、チャ、チャ、チャ、チャァァァーーーー!」
さすが蘭子は肝が据わっており堂々としたものである。
チャムは声がうわずり、自己紹介にすらなっていない。
雲の上の存在を目の当たりにし、脳の神経回路がショートしたのだろう。
ひとまず浩太はエリルをリビングに招き入れることにした。
まずその前に、基本的なルールだけは伝えておかねばならない。
「エリルさま、そこで靴を脱いでもらえますか」
「どうしてですの?」
「家の中が汚れるからです」
「わたくしの国では靴を脱ぎませんことよ」
「我が国では家の中で靴をはきません」
「どうしてですの?」
また同じことを訊いてきた。
それでも浩太は大人の対応をとる。
「家の中が汚れるからです」
「わたくしの国では靴を脱ぎませんことよ」
「我が国では家の中で靴をはきません」
「どうしてですの?」
また同じことを訊いてきた。
浩太は内心イライラしはじめた。
「い、家の中が汚れるからです……」
「わたくしの国では靴を脱ぎませんことよ」
「わ、我が国では家の中で靴をはきません……」
「どうしてですの?」
「いいから脱げって言ってんだろ! 何度も何度も同じこと繰り返しやがって、おまえの脳ミソはセキセイインコかよ!」
その瞬間――。
「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」
「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」
「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」
「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」
「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」「――ッ!」
通路で守備を固める何百という兵士。
彼らは鎧の金属音をガチャリと立て、一斉にこちらの方へ振り向いた。
隊の先頭にいるギニスも同様で、その目玉はピンポン玉のように飛び出している。
チャムは顎をカクカクと震わせて驚愕し、MLBの首振り人形みたくなっていた。
やってしまった。
しつこいのでつい怒鳴ってしまった。
早くも化けの皮が剥がれてしまったか。
と、浩太がアルマゲドンを覚悟していたところ――。
「エリルさま、王子が失礼いたしました」
蘭子が慎み深く頭を下げた。
そして彼女は居住まいを正し、弁明の言葉を口にする。
「ですが、王子が靴を脱ぐという行為に執着するのには理由がございます。その理由とは、我が国の気候風土に関係しています。日本王国は高温多湿で雨も多く、足元が泥だらけになりやすいのです。そのような足元で家の中に入れば、床が汚れてしかたがありません。ですから我が国では、靴を脱いで家の中に入る習慣ができました。そして汚れとは穢れ。穢れとは不浄。不浄とは災い。靴を脱ぐということは、その災いを家の中に持ち込まないという意味もあるのです。王子はその文化を大切に思うがゆえ、つい気持が強く表に出てしまったものかと思われます。どうかエリルさま、王子のご無礼をお許しください」
そう述べ終えた蘭子は、王女に対しもう一度深く腰を折る。
「そうでしたの。そのような理由があるとは存じませんでしたわ。ならわたくし、靴を脱ぎましてよ」
ダンジョンとリビングの境目。
そこでエリルは布張りのパンプスを脱いだ。
やや動揺の色を示した王女だが、機嫌を損ねた様子は見られない。
蘭子の機転により窮地を脱し、浩太は心の内でほっと胸を撫で下ろす。
なんにせよ、おもてなしの本番はここからだ。
「さあ、エリルさま。こちらへどうぞ」
リビングに設けられたキッチンテーブル。
浩太は来賓用のイスをすっと引き、そこへ座るようエリルをエスコートした。
自身も蘭子とその対面に座り、給仕役のチャムはキッチンでスタンバイとなる。
ギニスは通路でじっとたたずみ、SPのように事の成り行きを見守っていた。
「エリルさま。まず食前にお飲み物をどうぞ。チャム、あれをこちらに」
「はい、殿下」
浩太の指示を受け、チャムはクーラーボックスよりコーラを三本取り出した。
500mlのペットボトルのコーラだ。
チャムはそれを、エリル、浩太、蘭子の前へ順に置いていく。
もちろんコップになどは注がない。
そのまま口をつけて飲むのが日本王国のスタイルである。
すると――。
エリルはしげしげとペットボトルを覗き込んだ。
「この黒い飲み物はなんですの?」
「これはコーラという飲み物です。このようにして飲んでみてください」
浩太はキャップを開け、コーラをゴクゴクと喉に流し込む。
うだるような室温だけに、クーラーボックスには氷をどっさりと入れていた。
キンキンに冷えてやがるコーラが、犯罪的なうまさで乾いた喉を潤していく。
「ぷっはー! やっぱコーラはたまんねー! ゲップ! ――はッ!」
口元を手で拭いゲップを吐き出したところで――。
浩太は己の過ちに気がついた。
コーラのテイストと爽快感に刺激され、またしても地をさらけ出してしまった。
それもゲップというおまけつきだ。
エリルは眉にシワを寄せ、勘ぐるように「じ~~~~~」っと目を細めている。
彼女が不審に思うのも無理はない。
これをイギリス王室の晩餐会に例えるとわかりやすい。
女王陛下の目の前で、皿のスープを直接喉に流し込み、うんめー、うんめー、と騒ぎ立てたうえ、これ見よがしにゲップを吐き出したようなもの。
二度と晩餐会に呼ばれないどころか、なんとかボンドに殺される。
もうダメだ。
これで王子という偽りの牙城は崩れ落ちた。
と、浩太が地球の滅亡を覚悟したところ――。
「エリルさま。王子の振る舞いをお許しください」
蘭子が謹厳に頭を下げ謝罪した。
そして彼女は目の前のコーラに視線を落とし、うら悲し気な表情で言葉を紡ぐ。
「ですが王子はコーラという飲み物に、ただならぬ思い入れがあるのです。それはなぜかというと、王子の父と母、つまり国王と王妃も、このコーラをこよなく愛していたからにほかなりません。その国王と王妃は先日、そろって天へ召されました。その亡き両親を偲ぶあまり、王子はつい感情を込み上げさてしまったのではないでしょうか。王子はまだ十七歳、親を失うには早すぎます。そんな王子の心情を、哀悼の意を、どうかお察しください」
しんみりと語り終えた蘭子は、すっと目尻に指先を運んだ。
「そうでしたの。国王と王妃がお亡くなりになられたとは存じませんでしたわ。わたくし、お悔やみ申し上げましてよ」
エリルは瞑目すると、胸の前でそっと両手を合わせた。
おまえの国は仏教かっつーの!
とツッコミたくなるのを堪えつつ、浩太は蘭子に感謝した。
頭の回転が速い蘭子がいてくれて、本当に助かった。
さすが学年二十位あたりをうろつく成績だけのことはある。
ちなみ浩太は学年最下位がマイポジションとなっている。
「では、わたくしもコーラとやらを飲んでみましてよ」
「エリルさま。ぐいっといっちゃってください。こうやって、ぐいぐいぐい~っと」
浩太はコーラをラッパ飲みし、よりそのうまさを引き立てて見せた。
するとエリルもキャップを開け、コーラをゴクゴクと豪快に飲み込んでいく。
次の瞬間――。
ブッシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!
エリルは大量のコーラを吐き出した。
それはシャワーのごとく浩太の顔に降り注ぎ、王女はゴホゴホとむせ返る。
「く、口の中で爆発しましてよ! な、なんですのこれ!」
「ば、爆発だと! もしや起爆ポーションのたぐいか! おのれエリルさまになんてことを! 王子、貴様は我が国の友好を裏切ったな!」
ギニスは鬼の形相で腰から剣を抜き、リビングの中へ一歩、足を踏み入れた。
ダンジョンで整列する兵士たちも抜刀し、押し寄せるようにして陣形を整える。
チャムはクーラーボックスを頭にかぶってうずくまり、
「わたしのせいじゃない……わたしのせいじゃない……わたしのせいじゃない……わたしのせいじゃない……わたしのせいじゃない……わたしのせいじゃない……」
と、同じ言葉を繰り返し、氷まみれでブルブルと体を振動させている。
終わった――。
すべてが終わった――。
異世界人からすれば、コーラは真っ黒で不気味な液体。
それが口の中で弾け飛ぶのだ。
起爆ポーションと思われてもしかたがない。
せめてチャムに毒味をさせ、リアクションを確かめておくべきだった。
その反応しだいでは、どろり濃厚ピーチ味という選択肢もあったのだ。
とはいえ、それを後悔したところでもう遅い。
起爆ポーションは王女の口の中で起爆してしまった。
もうこの絶望的な運命に抗うすべはない。
そんなとき――。
蘭子がガタリとイスから立ち上がる。
「みなさん、落ち着いてください! これは炭酸飲料という、弾けるだけの飲み物です! 起爆ポーションなんかじゃありません! それにエリルさまを見てください!」
そう言い放つと、蘭子はエリルを指差した。
すると――。
王女はペットボトルを両手に、コク、コク、コク、とコーラを口にふくんでいた。
弾ける炭酸を楽しむかのように。
甘い味に酔いしれるかのように。
「はじめは驚きましたけど、とてもおいしいですわ。それにこのシュワシュワ感がたまりませんの」
エリルはコーラをお気に召したご様子。
アホみたいな顔でコーラを逆噴射していたが、これならもう大丈夫だ。
蘭子が騒乱を鎮めてくれたおかげで、またしても危機を乗り越えることができた。
「みなの者! 剣をおさめよ!」
ギニスの指示により、兵士たちは腰に剣をおさめビシっと直立。
そんな彼らに対し、蘭子は鬼気迫る勢いで双眸を射放つ。
「我が日本王国は、決してエリルさまに危害を加えることなどありません! それになんですか! 王国軍第三近衛部隊隊長およびその部下が、王子の面前で剣を抜くなど、宣戦布告にも等しい行為! こちらはあなたたちを信頼し、護衛の兵士すら待機させていないのです! 友好関係にヒビを入れたのは、むしろそちらのほうではないのですか!」
蘭子の強い語勢に、ギニスはなにも言い返せない。
先生に怒られた小学生のように、シュンと下を向いていた。
「オーホホホ! これは一本取られましたわ! さあおまえたち、非礼を詫びるのでしてよ! オーホホホ!」
「も、申し訳ありませんでした! どうかお許しを!」
エリルの命を受け、ギニスは片膝をついて頭を下げた。
彼が背にする何百という兵士もまた、一様に同じ所作をとる。
浩太も浩太で、『余にひれ伏すがよい』、なんて勝気に内心つぶやいた。
ひとまず仕切り直しである。
「チャム、メインディッシュの用意を頼むぞよ」
「はい、殿下」
チャムはカップメンの準備に取りかかる。
しかし、ただのカップメンではない。
王女を招くにあたり、値の張るものを用意した。
容器がどんぶりの形をした、三百円近いものである。
家系豚骨醤油味。
浩太ですら、なにか自分のご褒美のときのみ食べるプレミアム。
ほどなくしてカップメンは出来上がり、チャムはその三つをテーブルへと持ち運ぶ。
「これがカップメンですの。いい匂いがいたしますわ」
「さあエリルさま。かき混ぜてから、ズルズルズル~っといっちゃってください」
「わかりましてよ」
エリルはテーブルに用意された箸(洋子専用ヒョウ柄模様)を手に取った。
それを器用に使いこなし、カップメンをかき混ぜていくが――。
「これ、ちょっと硬くありませんこと? 食べられるのかしら?」
と、やや難色を示しその手が止まった。
浩太も麺を確かめてみる。
するとエリルの言うとおり、麺がまだ硬い。
もしや――。
と思い、浩太はチャムに訊いてみることにした。
「チャム、お湯を入れてから何分で持ってきた?」
「いつもと同じ、三分ですが」
浩太の予感はズバリ的中した。
これはノンフライのカップメンであり、お湯を入れてから出来上がるのは五分だ。
チャムにそれを伝えなかった、浩太痛恨のミス。
ましてや、あと二分待ってくれなど、エリルに言えるはずもなかった。
これを首脳会談でのお食事会に例えるとわかりやすい。
総理大臣が合衆国大統領に対し、生焼けの焼き魚でもてなしたと同じこと。
まだ焼けていませんでした、もう一度焼き直します、などと口にできるだろうか。
潰れかけたクソまずい定食屋じゃあるまいし、そんなことができるわけがない。
それに沈黙をつらぬいたところで、その状況を打破できるわけではなかった。
以下予想される首脳同士の会話。
『総理、魚が生焼けとはどういうことだね?』
『だ、大統領……それは……』
『君は我が合衆国を、生焼けのふぬけた国だと揶揄しているのかね?』
『そ、そんなことは……』
『国交断絶だ』
こうなる。
これが浩太の思い描くシナリオ。
それと同じことが起きただけに、浩太の焦りの色も深くなる。
すると――。
「エリルさま、たいへん失礼いたしました。これは私どもの不手際です。どうかお気を悪くなさらず、つくり直したカップメンを食べては頂けないでしょうか?」
蘭子が素直に謝罪の意を示す。
「不手際は誰にもあることでしてよ。なら新しいカップメンをお願いいたしますわ」
エリルはこちらの落ち度を不問としてくれた。
あれやこれやと心配する前に、素直に謝ればよかったのだ。
それでもダメならしかたがない。
結果がどうであれ、まず謝罪することが物事の道理。
チャムが万引きをしたときも、浩太自身が彼女にそれを教えた。
自分の保身や最悪のシナリオばかり考えて、一番大事なことを忘れていた。
浩太は深く猛省し、そのことを気づかせてくれた蘭子に感謝した。
「新しいカップメンが出来上がりました」
チャムが用意したのは、縦長の容器のカップメン、醤油味。
家系豚骨醤油は、ケチって三つしか買わなかったのでしかたがない。
するとエリルは匂いを嗅いだのち、ふぅふぅしながら麺を一本、口の中へ運んだ。
「おいしいですわ! 今までに食べたことのない味でしてよ!」
と、カップメンを大いに称賛し、また麺を一本、口の中へ運び入れた。
あくまでも一本ずつである。
「わたくし猫舌ですの。ふぅ~! ふぅ~!」
おまえの国にネコがいるのかよ! 大げさにふぅふぅしてんじゃねーよ!
と、ツッコミたくなる気持ちを浩太はグッとこらえた。
それはさておき、エリルはたいへん満足した様子でカップメンを食べている。
アイマスクをしてでもお星さまがこぼれ落ちそうな、キラキラと輝く瞳。
彼女の周囲に咲き乱れる謎の花。
ランテリア王国との友好関係が、今ここに築かれた瞬間だ。
それを見て、浩太の緊張がほぐれた。肛門筋もほぐれた。
そんなとき――。
プゥ~~~~~~~~~! プッ!
ラッパの試し吹きのような音色が、浩太のケツより奏でられた。
やってしまった。
あろうことか、王女の前で、それも食事中にオナラをしてしまった。
しかもおっさんが奏でるような二段構えのハーモニーだ。
さらに輪をかけて深刻な問題は、近年稀に見る強烈な腐敗臭ということだった。
もはや生物兵器テロといっても過言ではない。
昨晩に食べた蘭子の魔女弁当。
それがこのテロの礎を築いたことは明々白々である。
浩太史上絶体絶命最大のピンチ。
「お鳴らしをしたのは誰ですの? たいへん失礼でしてよ」
エリルは鼻をぐっとつまみ、玉ねぎ頭の誰かさん声で、あきらかな嫌悪感を示していた。
ギニスは両手を大きく扇ぎ、浩太を犯人とばかりに睨みつけている。
チャムは首がもげそうな勢いで頭をぶん回し、自分ではないと全否定。
蘭子はまだ動かない。
「お鳴らしをしたのは、お二人のどちらかとは思いますけど」
むろん、その二人の容疑者とは、エリルの向かいに座る浩太と蘭子。
蘭子はまだ動かない。
「カップメンを食べる気もなくなりましてよ」
エリルは憮然と大きく息を吐き、テーブルの上に箸を置く。
蘭子はまだ動かない。
「そのダラダラと額に流れる冷や汗を見ると、お鳴らしをしたのは王子かしら」
浩太は額を手でぬぐった。
するとナイアガラの滝のごとくビッショリと冷や汗をかいていた。
蘭子はまだ動かない。
「最低ですわ! わたくしの前でお鳴らしをするなど、最大の侮辱でしてよ!」
エリルは怒号を吐き捨て、荒々しくイスから立ち上がる。
そして彼女はカップメンの容器を手に持ち、その中身を浩太の顔にぶちまけた。
浩太の顔面は縮れた麺と汁に覆われ、さながらカップメンのモンスターと化す。
そこで蘭子が動いた。
彼女は静かに立ち上がり、エリルの元へ歩み寄る。
浩太には蘭子のとる行動が予想できた。
『オナラをしたのはあたしです、すみませんでした』
そのようにスケープゴートを自ら引き受け、土下座で謝るつもりだ。
あわよくば土下座をしながら豪快に屁をこけば、なおのこと良し。
それで蘭子が犯人であると確定され、日本王国の危機はかろうじて救われる。
浩太は幼馴染の土下座と屁にすべてを賭けた。
すると――。
バッチーーーーーン!!
蘭子は右手を大きく振り上げ、エリルの頬を勢いよく打った。
まさに闘魂注入、ビンタのお手本のようなビンタが炸裂した。
むろん、これはただでは済まされない。
蘭子は危害を加えないと言いつつ、明白な暴力をエリルに振るったのだ。
「あ、あなた……わたくしになにを……」
「オナラをしたぐらいなによ! 浩太はね、ウンコだって漏らしたことがあるんだから!」
静まり返るリビング。
ダンジョンからですら、時が止まったように物音ひとつしなかった。
チャムはリアルに石化している。
「な、なんと、お下品な……」
「うるさい!」
エリルの言葉をピシャリと遮り、蘭子はさらに激を飛ばす。
「この日のために浩太がどれだけ準備したか、あなたわかってるの! 歓迎の貼り紙や風船なんかは、浩太が一人で全部用意したのよ! あなたには読めないでしょうから教えてあげるけど、あの汚い字で書かれた貼り紙には、こう書かれてるわ! 『ようこそ日本王国へ!』『エリルさまワッショイ!』『ランテリア王国万歳!』、ってね! それだけじゃない! カップメンはどれがいいか、飲み物はどれにしようか、散々悩んだあげく浩太が決めたの! 一日中ひっちゃかめっちゃかになって、あなたのために浩太が準備したの! それがオナラぐらいでなによ! カップメンを顔にかけることはないでしょ!」
蘭子は涙を浮かべていた。
それはせきから溢れ出す寸前の、怒りと悔しさの涙に見えた。
「王子一人で準備したというのは本当なのかしら?」
しばしの沈黙を経て、エリルは浩太に問うた。
「ああ、本当だ」
「わたくしのために?」
「ああ、あんたのためだ。でもそれは俺の国を守るためでもある」
顔にかかった麺を手ではらいのけ、浩太は熱誠なまなこをエリルに向けた。
ややあって、エリルはキッチンにいたチャムの方を見やる。
「そこのお方、お水を一杯くださらないかしら」
「は、はい!」
王女の呼びかけに、石化が解除されたチャム。
彼女は早送りの様相を呈し、水を注いだコップをエリルに手渡した。
「これでおあいこ、ということにしてくださらないこと?」
エリルはコップの水を、ためらうことなく自らの頭へと降り注いだ。
彼女の頭から顔へと水が流れ落ち、艶やかなドレスまでもが水浸しとなる。
まさかの王女の振る舞いに、そこにいた誰もがハッと息を呑む。
いや――浩太だけはその限りではない。
ふん、と鼻を鳴らし、好敵手を称えるかのごとくその口を開いた。
「やるじゃねーか。ただの傲慢なお姫さまってわけでもなさそうだ」
「あら、ずいぶんなことをおっしゃるのね。わたくし、これでも民を守る王女なのでしてよ」
「十五歳にしちゃ、できた王女さまだよ、あんたは」
「お鳴らしをするあなたよりは」
「誰だって屁ぐらいするっつーの」
するとエリルがプッと吹き出した。
浩太も吹き出しそうになったが、必死に耐えた。
埋蔵された天然ガスが一気に放出してしまうと、なにかの拍子で大爆発を起こしかねない。
「それと蘭子さん、わたくし平手打ちをはじめて経験しましたわ」
「す、すいません……」
「わたくしにもさせてくださらないこと?」
「ど、どうぞ……。思いっきり叩いてください……」
蘭子はぐっと目を閉じ、エリルに頬を差し向けた。
すると王女はふっと笑みを漏らし、振り上げた手を引っ込める。
「蘭子さん、冗談でしてよ。さあ、ギニス! 城に戻りますわよ! オーホホホ!」
「はッ! みなの者、整列!」
ギニスの号令を受け、通路の両脇に兵士がズラリと並ぶ。
そこには整然かつ堅牢な王女への花道が開かれた。
アクシデント続きではあったが、幕引きとしては上出来である。
と、その前に――。
「王女さん。これはお近づきのしるしだ。持って帰ってくれ」
浩太はキッチンからダンボール箱ひとつを抱え、それをギニスへと託した。
その中にはカップメンの各種が詰め込まれている。
ついでに両親の寝室の化粧台から、イヤリングをワンセット拝借。
これもエリルにくれてやることにした。
どうせ母は返らぬ人だし、贈り物にはちょうどいい。
「それじゃあな、エリル」
「またですわ、浩太」
浩太が差し出した手を、エリルはしおらしく握った。
それとなく自然に、ファーストネームで呼び合う仲にもなった。
ギニスを従えたエリルは高笑いを響かせ、ダンジョンの奥へと立ち去っていく。
リビングに近い兵士たちからそのあとに続き、大名行列ができていく。
浩太は蘭子とチャムと並び立ち、ダンジョンの入口で王女を見送った。
最後の兵士が見えなくなるまで、三人そろって手を振り続けた。
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