第2話
「け、警察がきたのかよ! くっそ! 地球はもう終わりだぜ!」
チャイムを耳にし、浩太は真っ先に地球の破滅を覚悟した。
しかし、よくよく考えてみれば、ダンジョンの秘密はまだ守られている。
ゆえに警察が尋ねてきたわけではないだろう。
誰だか知らないが、居留守を使うと逆に怪しまれる可能性がある。
だから浩太は玄関のドアを開けてみることにした。
玄関フロアに移動し、恐る恐るドアを開けてみたところ――。
「はい、回覧板」
回覧板を届けにやってきたのは、隣の家に住む幼馴染だった。
名前は、坂峰蘭子。
同じ学校であり同じクラス、幼稚園からの腐れ縁というドテンプレだ。
「そっか……もう回覧板の季節か……。季節の変わり目は早いもんだな……」
浩太は平静を装い回覧板を受け取った。
チンコを見られても恥ずかしくのない幼馴染とはいえ、ダンジョンのことは口が裂けても言えるはずがない。
一度漏れた情報は、
つまるところ――。
世界大戦の勃発である。
「なにつまんない冗談かましてるのよ。それより浩太、あんたの家、なんか暑くない?」
ショートヘアにTシャツ、ホットパンツ姿。
涼しげな格好の蘭子でさえ、家の中の温度がおかしいことに気がついた。
窓はすべて閉め切っているし、エアコンすら機能していない。
おまけに七月下旬の夕時ともなれば、家の中が蒸し暑いのは当然だ。
ひとまず適当に話を合わせ、この場の乗り切るほかはないだろう。
「いや~それがさ、俺んちの床下からとつぜん温泉が湧き出たんだよな。それで家の中がホッカホカの蒸し風呂状態になっちまってさ。ったく、やってらんねーぜ」
「あんたバカじゃないの? ただでさえバカな頭に磨きをかけてどうするのよ」
「ま、まあ、そういうことだ。今度いつしか、来世あたりでさ、おまえも温泉に浸かりにこいよ。それじゃあな」
「ちょっと待ちなさいよ」
浩太が玄関のドアを閉めようとするも、蘭子は取っ手を引いてそれを阻止。
そして彼女はなにかに感づいたのか、その切れ長の瞳を怪しげに光らせた。
「ところで浩太、おじさんとおばさんはどこに行ったのよ?」
「なんでそんなこと訊くんだ……?」
「だって、おじさんとおばさんの靴はあるのに、その二人の話し声が全然聞こえないんだもの」
信彦の革靴。
洋子のヒョウ柄のサンダル。
それらは玄関にきちんと揃えられている。
しかも今日は日曜日だ。
蘭子が不自然に思うのも無理はない。
だから浩太は自然な形で嘘をつくことにした。
「父ちゃんと母ちゃんなら、ちょっと遠くへ旅に出かけたけど……二人とも素足のまんまで……」
「嘘つくんじゃないわよ」
「う、嘘じゃねーよ! 素足以外は嘘じゃねーよ!」
ある意味これは本当だ。
「なんかさっきから怪しいのよね……ん? なんだろ、この臭い。なんか血生ぐさいような臭いがするんだけど――って、あんたまさか、おじさんとおばさんを殺したんじゃないでしょうね!」
鼻をクンクンし、鋭い嗅覚を発揮した蘭子。
彼女は話の途中でハッと青ざめ、思いもよらぬ殺人事件へと疑惑の目を向けた。
「おまえバカかよ! 俺が父ちゃんと母ちゃんを殺すわけねーだろ! 俺がボッコボコにして殺したのはな、ダンジョンから襲ってきたゴブリン――はッ!」
浩太はしまったと思い、両手で口を塞いで己の言葉を遮った。
しかし蘭子の疑いの眼差しは、どんどん色濃さを増していく。
そして彼女はサンダルを脱ぎ、「ちょっと入るわよ」とひと言、玄関フロアに足を踏み入れた。
「おい蘭子! ちょっと待てよ!」
慌ててそのあとを追うも、時すでに遅し。
蘭子はリビングに入るなり、棒立ちの姿勢で目ん玉をひんむいた。
「こ、これ……どういうことよ……」
「見てのとおり、リビングがダンジョンとつながっちまったんだよ」
バレたものはしかたがない。
不徳のいたすところだが、浩太は真実を打ち明けることにした。
「あの緑色の液体まみれで倒れている、不気味なものはなんなのよ……」
「あれはゴブリンの死体だ。ダンジョンからいきなり襲ってきたから、俺が殺した」
「おじさんと、おばさんはどうしたのよ……」
「ダンジョンへ復讐の旅に出かけた。狂気にかられながらな。とんだ昭和のヤンキーだぜ」
「こんなこと世間に知れたら、あんた、大変なことになるわよ……」
「そうだ。世界大戦勃発だ」
浩太にはこの最終シナリオしか頭に浮かばない。
地球上に弾道ミサイルが飛び交い、おのずと世界は破滅する。
「あんた、これからどうすんのよ……」
「もちろん、このことは秘密にする。全世界の人々のためにもな。だから蘭子も秘密を守ってくれ。俺はこの防衛線を必ず死守するから」
「わかったわ。あたしもそれに協力する。あんた一人に背負わすわけにはいかないもの」
「恩にきるぜ、蘭子」
浩太は蘭子とともにうなずき、彼女と固い握手を交わした。
思い起こせば、この幼馴染は困っているときに必ず近くにいてくれた。
それは幼稚園時のこと。
浩太はウンコを漏らしてしまったことがある。
先生に怒られるのではないか、友達に笑われるのではないか、と思い、園内に設置されたゾウさんの遊具の中に隠れていた。
すると蘭子がそれを見つけ、
『先生! 浩太がウンコ漏らしました!』
と、大きな声で叫んでくれた。
もちろん周りにはたくさんの友達がいた。
それでも彼女は、このことは秘密にしてあげるね、と優しく微笑んでくれのだ。
小学生のときにもこんなエピソードがある。
浩太は授業中に、またしてもウンコを漏らしてしまった。
でもトイレに行かせてくださいと、先生に言えるはずもない。
小学生とはそういう悲しき生き物だ。
しだいに悪臭が漂い、犯人探しがはじまるなか、蘭子は席を立ちこう言った。
『先生、誰かが漏らしたみたいです! でもその子がトイレから戻ってくるまで、みんなで目をつぶって待ってましょう! それなら誰が漏らしたかわからないはずです!』
浩太は彼女の優しさにふれ、涙がちょちょ切れそうなほど感銘を受けた。
そしてみんなが目をつぶる中、浩太は物音を立てないようトイレに向かった。
だがその後半年は、ウンコに関連するあだ名で呼ばれ続けた。
中学生時にはこんな出来事もある。
浩太は授業中に、プッ、と小さなオナラを漏らしてしまった。
だが大きなオナラではないし、その事実をないものとする手だてがあった。
上履きのゴム底を、キュッ、と床にこすりつける。
イスの接地面のラバーを、ギュッ、と鳴らしたりする。
オナラに似た物音を立て、オナラはしていませんよ、とアピールする方法だ。
誰しも一度は経験があるだろう。
そんな偽装工作の最中――。
『おい吉岡! うるさいぞ!』
と、浩太は先生に怒鳴られてしまった。
それにビックリした浩太は、残る埋蔵量すべてのガスを一気に放出してしまったのだ。
もう偽装工作をできるようなレベルではない。
ライターで火をつければ、ガス爆発が起きてもおかしくはない、大量の屁だ。
近くに座る生徒たちは、鼻をつまみながらノートを扇いだ。
窓際に座っていた生徒たちは、すべての窓を開放した。
笑いすら起きることもなく、浩太はみんなから無言の圧力を受けたのだ。
そんなとき――。
パチパチパチパチ。
蘭子がとつじょ拍手をはじめた。
暗雲立ち込める雰囲気のな中、彼女は頑なに拍手を続けた。
すると蘭子に同調したのか、何人かの生徒も拍手をはじめた。
しだいにそれはクラス全員、先生をも巻き込んだ。
盛大な拍手がいやな空気を屁もろとも吹き飛ばしたのだ。
その結果、教室内に残るのは、レモンシトラスのごとく爽やかな空気とみんなの笑顔。
こうして浩太は、いくどとなく蘭子の英断に助けられたという過去がある。
そんな幼馴染がいれば心強い。
「よし、蘭子。リビングの片付けを手伝ってくれ。俺はゴブリンの死体をダンジョンに捨ててくるからさ」
「OK、でも気をつけなさいよね。また敵が襲ってくるかもしれないし」
「おう、任せておけ」
えっちらほっちら協力し合い、あらかた作業も終わると、浩太は蘭子とともにひと息つくことにした。
キッチンテーブルにつき、冷蔵庫にある温くなった麦茶を飲みながら休憩だ。
「なるほどね。近くに雷が落ちたと思ったら、あんたの家に落ちたんだ」
「そのせいで家電製品は全部パアだ。ダンジョンまで出現するし、とんだ災難だぜ」
「てか、この家で生活なんてできるの? 冷蔵庫も壊れちゃったんでしょ?」
「水はなんとか出るしガスコンロは無事だ。しばらくはカップメンでやり過ごすさ」
「なら買い物はあたしに任せておいて。この家を留守にするわけにはいかないでしょ」
「そうだな。俺はここで見張ってる必要があるしな」
監視の目を怠ることは許されない。
守らなければいけない最後の砦、それがこのリビングである。
「問題はいつまでこれを続けるかよね」
「それは俺も困ってるんだよな。でも解決策も思いつかないし、ひとまず様子を見てから考えることにするか」
「それもそうね。あとくれぐれも言っておくけど、ダンジョンを探索しようなんて思わないこと。おじさんとおばさんみたく、帰ってこれなくなるかもしれないんだから」
「それはわかってるって」
浩太は両親のことを思い出す。
剣も持たない、魔法も使えない二人が、生きている可能性は限りなく低い。
ならば死んだものとして現実を受け入れるほかはなかった。
この悲しみを乗り越えることこそが、世界を守る勇者がごとき使命であり、世界大戦の回避につながるのだ。
「じゃあ、そろそろあたし帰るね」
「おう、今日は助かったぜ」
「明日の朝にまたくるけど、なにかあったら携帯に連絡ちょうだい」
「ああ、わかった。それじゃあな」
蘭子が家に帰ったので、浩太は床の修復作業でもすることにした。
ゴブリンが空けた穴にせっせとゴミを詰め込んでいたところ――。
なにやらダンジョンの方から赤い光が差し込んできた。
「どうなってんだ……?」
なにかがおかしいと思い、浩太はそれを確かめに行くことにした。
ダンジョンの中へ赴くと――。
なにかが燃えている。
三十メートルほど先、ゴブリンの死体を捨てた場所だ。
そこで焚火のような炎が揺らめいていた。
しかもその近くには、黒い人影のようなものを見てとれた。
とはいえ両親のいずれでもない。
なぜなら、背中まで伸びる長い髪が、微かな空気の流れに運ばれているからだ。
信彦はバーコード頭の薄毛であり、洋子はアフロのようなおばさんパーマ。
間違いなく、あの者は別の誰かだ。
「――ッ!」
浩太はさっと身構えた。
人の姿をしているが、魔物に属する危険な生物という可能性がある。
仮にあれが人間であり、冒険者だとしても油断はできないところだ。
「――?」
するとその者はこちらの気配に気がついた。
ツカツカと革靴の音を響かせ、ゆっくりと浩太の元へ近づいてくる。
そして異世界からの謎の生命体は、間合十メートルほどで足を止め、
「ワワチー、ドグブル、ハスキアン、グパ?」
と、おかしな言語を発した。
何者かは知らないが、銀髪ロングヘアの、見るからにかわいらしい女の子である。
歳のころなら十五、六。
百七十近い上背の蘭子と比べると、ふた回りは小柄だろうか。
ちなみに浩太の身長は百七十五弱なので、女の子の視線はやや上向いている。
その愛くるしくもあり、それでいて射るような鋭い眼差しは、深紅の光沢を帯びていた。
肌が驚くほど白いだけに、瞳の色が一段と映えている。
さらに驚くのはおっぱいだ。
露出度の高い革鎧のせいで、ボヨヨンとそれが半分丸出しとなっていた。
なんともけしからんことだがGカップはあるだろう。
そんな女の子が、やけに物騒な剣を片手に持っていた。
刀身はおよそ一メートル、職務質問待ったなしの両刃の剣である。
とはいえ、リビング防衛線の突破だけは許さない。
浩太はなんちゃってファインティングポーズの構えを見せた。
「おい、おまえ! ここから先は通さないからな!」
「パシェド、ビグル、シアンダルメ?」
「なに言ってるかわかんねーんだよ! この異世界人!」
「レト、リバ」
すると女の子はおもむろに片手を突き出した。
そして指パッチンの要領で指を弾くと、指先がオレンジ色の光でぽっと輝いた。
それはあきらかに、なんらかの魔法を使用したことを意味している。
「おまえ……なにしたんだよ……。もしかして……俺にハゲの魔法をかけたんじゃ……」
「心配いらない。わたしの言葉がわからないようなので、言語理解魔法を発動した。ちなみに魔法をかけた対象者の近くにいれば、ほかの者でもわたしの言葉は通じる」
女の子のアクセントに違和感はみられない。
毅然な声色、流ちょうな日本語として、浩太の耳に異世界の言葉が聞き届く。
すると彼女はリビングを見やり、懐疑的な表情を浮かべて眉根を寄せた。
「これはどういうことだ? この先は行き止まりだったはずだが」
「俺んちとダンジョンがつながっちまったんだよ。たぶん雷が落ちたことの偶然だ」
「なるほど、空間変異でも生じたか。ところで――おまえはどこの国の人間だ?」
まるで値踏みするかのように、女の子は視線を上から下へと順に追う。
浩太が身に着けているのは、Tシャツとジーンズだ。
異世界人の彼女からすれば、珍しい異国のいで立ちとして映るのだろう。
「日本っていう国だけど、おまえにはわからないだろうな」
「聞いたことのない国だ。どこか辺境に位置する国ということか」
「まあそんなところだ。で、今度は俺に質問させてくれ。おまえはさっき、ゴブリンの死体がある場所でなにをしてたんだ?」
「焼いていただけだが」
「なんのためにだよ?」
「もちろん食うためだ」
「ゴ、ゴブリンを食うのか……?」
「おかしなことを言う。ここはダンジョンの中だ。食えるものならなんでも食糧にするのは当然のことではないか。まあゴブリンがうまいとは言えんがな」
たしかにダンジョンで冒険することはピクニックではない。
浩太はそういうものだと納得することにした。
それはさておき、大事なことを訪ねておく必要がある。
「ちょっと訊きたいんだけどさ、人間をやめた悪魔みたいな中年の男女を見なかったか?」
「そのような者は見てはいないが」
「そうか……見なかったか……」
やはり両親は死んでしまったのだ。
骨すら残すこともなく、なんらかの魔物に食い殺されたことが予想される。
それでも浩太は気持ちを切り替え、今やるべきことはなにかを思い出す。
「とりあえず、この先は通さないからな。悪いが引き返してくれ」
「おまえにいったい何の権利があるというのだ。それはわたしが決めることであり、とやかく言われる筋合いなどはない」
「いいや、権利ならある!」
浩太は力強く怒声を放つ。
そして彼女に向けてビシっと人差し指を突きつける。
「俺は日本王国の王子、吉岡浩太だ! 吉岡信彦国王、その妻である洋子王妃が不在の今、王子であるこの俺に全権限がある! だから日本王国への立ち入りは許さない!」
これを信じるのは動物園の猿ぐらいだが、浩太は己の服装を武器とした。
彼女がはじめて目にする異国のいで立ち。
つまりTシャツとジーンズ。
これが庶民のものなのか、貴族や王族のものなのか、彼女にその判断材料はない。
我々がアフリカ原住民を見て、誰が偉い人なのか、それがわからないのと同じである。
浩太はそのような策略の元、小学生レベル以下のブラフを吐いたのだ。
すると――。
「お、お、お、王子だと……そ、そ、そ、それは本当なのか……?」
声色にあきらかなリアクションを示し、女の子は緊張した面持ちで腰に剣を収めた。
それもそのはずだ。
一国の王子に向かって抜刀しているなど、無礼どころか万死に値する。
その不行儀ひとつで、国同士の戦争に発展することも考えられるのだ。
「いいか? もう一度言うぞ? 耳の穴かっぽじってよく聞けよ? 俺は日本王国の王子、吉岡浩太だ。それも国王と王妃の一人息子だ。俺がオンリーワンにしてナンバーワンだ」
浩太は前髪をさっとかき上げ、己の胸に親指をドンと押しつけた。
そして縦軸にくるりと一回転し、人差し指を向けて問う。
「ところでおまえの名前は? フルネームで教えてもらおうか」
「わたしの名はチャム・ペデゴリー……。チャムと呼んでくれてかまわない……」
「いいかチャム。俺が王子である証拠を見せてやる。ちょっとそこで待ってろ」
浩太はさっと背を向け、リビングの中へ赴いた。
そして二階の自室で学校の制服に着替え、王子らしく身だしなみを整える。
ついでにキッチンの食器棚から皿を手に取り、チャムの元へと踵を返した。
「この服装こそが日本王国、王子である俺の正装だ」
「ま、まさに気品漂うその服……平民が着るようなものではない……」
「あたりまえだ。俺を誰だと思ってる。よかったら、この服をさわってみろ」
「そのような無礼なことをして、本当にいいのか……?」
「うむ」
「では……失礼する……」
うむ、なんて威厳を匂わすと、チャムは遠慮がちにブレザーを指先で撫でた。
すると――。
「な、なんだこの肌ざわりは……。普通の布とはまったくちがう……」
チャムはさも驚愕した様相を浮かべ、深紅の瞳をいっぱいに見開いた。
制服のブレザーはポリエステル百パーセント。
異世人にとって、はじめてふれる未知の領域。
オリハルコンにも匹敵するだろう、高貴な特殊素材だ。
彼女が尿漏れしそうな勢いで驚くのも無理はない。
「あと、記念にこれをやる」
浩太は食器皿をチャムに手渡した。
ハンバーグでも載せるかのような、ごく普通の丸い皿だ。
だがこれは、現代科学の技巧によって大量生産された至高の一品。
本来、異世界人には決して手の届かぬ――。
百円均一の皿である。
「こ、このような高価な皿をわたしにくれるというのか……」
「ああ、くれてやる。これで俺が王子ってのを信じたか?」
「も、もちろんだ……。これまでの無礼を許してほしい……」
チャムは体を震わせ、ぎこちなく頭を下げた。
もしここで失礼を働けば、戦争の発端となりかねない。
それが彼女にはわかっているのだろう。
だからプルプルとアル中のように震えているのだ。
そんなとき――。
「あっ――」
震える手によるせいか、チャムは皿を地面に落してしまった。
岩盤に叩きつけられた陶器の皿は、もろくもバラバラに砕け散る。
「も、申し訳ない! わたしはなんということをしてしまったのだ!」
取り乱したように破片をかき集めるチャムだが、事態はかなり深刻である。
一国の王子からの直々のプレゼント。
それを王子の目の前で割ってしまったのだ。
これを戦国時代で例えるとわかりやすい。
豊臣秀吉から授かった大切な茶器を、秀吉の目の前で割ってしまったようなもの。
金タマが縮み上がるどころか、その場で首チョンパされてもおかしくはない。
「すまない! すまない! 本当にすまない!」
チャムは瞳に涙を湛え、皿の破片をカチャカチャとつなぎ合わせている。
ちょっとかわいい。
「気にするなチャム。そこで待ってろ」
浩太はまたキッチンへ向かうと、食器棚からとある皿を取り出した。
その皿には、従兄夫婦と赤ちゃんの顔写真がプリントされている。
できちゃった結婚で産後に式をあげたとき、従兄夫婦が来賓に配った記念皿。
もらってもたいへん困るという、自己満足にまみれた結婚式の引き出物。
その犬の餌皿にもならないアイテムを手に、浩太はチャムの元へと舞い戻る。
「チャム、これをやる」
「こ、この皿には人の絵が描かれている! それも絵とは思えないほどの鮮明さだ!」
差し向けた皿を見て、たぶん彼女は人生で一番驚いている。
「それは俺の従兄の兄ちゃん夫婦、そしてその赤ん坊だ」
「ということは、このお方も王族ということになるのでは……」
「そのとおりだ。俺の従兄だから、王族ということになる」
車の整備工場で働く、従兄のよっちゃんは、彼の知らぬところで王族と化した。
「そのようなお方が描かれた皿を頂戴するとは、なんと光栄なことか……」
丁重に皿を受け取ったチャムだが、その両手がプルプルと激しく震えていた。
王族と聞いてか、緊張のパラメーターがより高まっていると思われる。
そんなとき――。
「あっ――」
あろうことか、またしてもチャムは皿を落としてしまった。
記念皿ははかなくも、家族が分裂したかのごとくバラバラに砕け散る。
これはこの上なく由々しき事態が発生した。
王族の写真がプリントされた、とても貴重な記念皿を割ってしまったのだ。
これをローマ帝国時代で例えるとわかりやすい。
ローマ皇帝から授かった国宝級の皿を、皇帝の前で割ってしまったようなもの。
ギロチンどころか、逆さ吊りにされて股間からノコギリで真っ二つだ。
「すまない! 本当にすまない! わたしはまたしてもなんということを!」
チャムは四つん這いとなり、玉の涙を浮かべ必死に皿をつなぎ合わせている。
むろん、引き裂かれた家族が元に戻ることはない。
よっちゃん夫婦が年内には離婚するのではないか、という噂は現実味を帯びてきた。
だがこれで、浩太が完全にイニシアチブを握ることとなる。
「なんたる無礼か! それは従兄が結婚の儀で来賓に配った、たいへん貴重な皿! それを割るとは日本王国を愚弄したにも等しい行為! どう責任を取るつもりか!」
力強い眼光を解き放ち、左手を腰にあて右手を内から外にさっと振る。
王子たる威厳と風格を見せつける。
「わ、わざとではないのだ! 緊張のあまり手元が震えて――」
「ええい! 見苦しいぞ! そのような言い訳で許されると思っているのか!」
「ならばわたしの命でこの罪を償う! どうかそれで許してほしい!」
「ふざけるでない! 貴様のそのちっぽけな命が、国宝級の皿と同等の価値があると思っているのか!」
「ならばわたしはどうすれば……」
チャムは弱々しく浩太の顔を見上げた。
ここが落としどころだ。
「余に仕えよ。余のしもべとなれ。余に忠義を尽くすのだ。ならばその大罪不問といたす」
浩太は表情を穏やかなものとし、しゃがみ込みチャムの肩にそっと手を置いた。
彼女はすでに落ちた。
その表情からは、権力者に対する服従の色が見てとれる。
「なんというありがたきご慈悲。なんというありがたきお言葉。わたしことチャム・ペデゴリー、殿下にこの命を捧げ、この身果てるまで忠義を尽くすことをここに誓います」
チャムはひざまずいて胸に手をあて、感慨深く下僕の誓いを立てた。
一人称を『余』になんて格上げしてしまった以上、浩太ももう引き下がれない。
こうなっては是が非でも日本王国の王子として役を演じきる。
それと彼女を配下に置けば、魔物の襲撃に対処しやすくなるという利点もあった。
異世界人と干渉してしまうことにはなるが、護衛の一人はほしいところだ。
というか、彼女が少しおバカさんで助かった。
こうして浩太は世界を守るため、偽りの王子となりチャムという冒険者を従えた。
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