ダンジョンと王子とカップメン
雪芝 哲
第1話
吉岡浩太は新築の一軒家を玄関先から見上げた。
普通の二階建ての家屋だが、両親が苦労して建てたマイホームである。
これまでは家族三人で、築三十年を超える3LDKの賃貸アパートに住んでいた。
耳にしたくもない両親の夜の営みが、薄い壁から聞き漏れることもしばしばあった。
十七歳の少年にとって、それはトラウマになりかねない地獄。
しかし新築の一軒家ともなれば、それなりに防音対策も講じているはずだ。
これで気兼ねなく、健全なる男子高校生の努め(オナニー)に集中することができる。
「さあ、記念写真を撮るぞ。浩太、母さんといっしょにそこに並んでくれ」
「父ちゃん、かっこよく写してくれよな」
「あなた、奇跡の一枚をお願いするわね」
玄関先で、住居をバックに家族で記念写真を撮る運びとなった。
父に言われたとおり、浩太は母とともに並び立つ。
女の『お』の字も見えない、中年太りした母の洋子だが、パートで家計を支え、マイホームローンに尽力してくれていた。
そんな洋子は今までの苦労を思ってか、笑顔を浮かべながらも目尻に指先を運んだ。
「アングルはこんなもんでいいかな?」
父の信彦は、メガネ越しから三脚にセットしたデジカメを覗き込む。
ブラック企業と噂される会社に身を置く、中間管理職のしがないサラリーマン。
上司には怒鳴られ、部下からは嫌われ、毎晩安酒をあおって愚痴をこぼしていた。
だが、いつものやつれた姿は見られない。
一国一城の主となった信彦は、大名のごとき風格をマジマジと醸し出していた。
浩太もそんな父の姿を目にし、まるで自分のことのように誇らしくなってくる。
そしてカメラのタイマーがセットされ、家族三人でコマネチを決め込んでいたとき――。
日曜の午後の快晴が急変し、瞬く間に雨雲が空一面に広がった。
そのどんよりした鉛色の雲からは、ゴロゴロと雷も轟いている。
次の瞬間――。
天上がビカっと眩く輝き、雷鳴とともに稲妻が新築の屋根に直撃。
爆弾でも落ちたかのような激しい振動が、浩太の体にも伝わった。
「父ちゃん! 母ちゃん! 大変だ! うちにドッカーン! って雷が落ちたぞ!」
浩太は動転しながらも、新居の外壁に視線を巡らせた。
だが幸いなことに、焼け焦げたような跡は見られない。
それでも懸念される問題は、落雷の影響をモロに受けてしまう屋内である。
「なんてことだ! テレビや冷蔵庫は無事なのか!」
「あなた! どれも買ったばかりなのよ! ピカピカの新品なのよ!」
両親は慌てて家の中に駆け込むが、危惧するべきはテレビや冷蔵庫だけではない。
家を建てるにあたり、エアコンや洗濯機などの家電製品はすべて新調した。
それらにコンセントから雷が伝われば、一発でおしゃかとなるのだ。
「くっそ! 俺のパソコンは大丈夫かよ!」
浩太も両親のあとに続き、マッハの勢いで家の中へ疾駆した。
そして二階の自室になだれ込み、デスクトップパソコンの電源をポチリとON。
すると悲しいかな、ディスプレイに光が灯ることはなかった。
買ったばかりのオナネタの詰まった宝箱、それは一瞬にして、ただのガラクタへと変わり果てた。
試しにパソコンメーカーへ電話してみると、落雷での故障は保証外であるらしい。
電話に出たオペレーターのお姉さんが、「プークスクス」と、笑いをこらえてそう言っていた。
浩太は涙ながらにパソコンを窓からぶん投げ、ひとまずリビングへ向かうことにした。
すると――。
「………………………………」
「………………………………」
リビングでは両親が茫然とたたずんでいた。
二人はともに壁の方を見やり、あんぐりと口を開け石膏像のように固まっている。
「え……なんだよこれ……」
両親の視線の先を目にし、浩太は思わず小声を漏らす。
なぜなら壁がない。
リビングの一面、その四隅を起点に、ぽっかりと大きな穴が空いていた。
それは学校の廊下ほどの広さがある空間で、岩肌の通路が奥へ奥へと伸びている。
本来、壁があった向こう側は両親の寝室なのだが、物理的には考えられない空間構造となっていた。
「おい、浩太……これはいったいどういうことなんだ……」
「ねえ、浩太……私たちは幻でも見てるのかしら……」
「――ッ!!」
今にも倒れそうな両親をよそに、浩太は廊下を迂回し二人の寝室へダッシュした。
そして通路の裏側を調べてみたが、普通に壁があり異常は見られない。
もう一度リビングへ戻り、空間へ一歩、足を踏み入れる。
やはり幻影などではなかった。
人工的に岩盤を削ったような通路、それが確かに存在している。
岩肌にはうっすらと光苔も生えており、淡い翠色の光が空間を包み込んでいた。
懐中電灯なしでも大丈夫ですよ、と言わんばかりのその光景。
異世界におけるダンジョンであることに疑いの余地はない。
「父ちゃん母ちゃん……これってダンジョンだよ……。雷が落ちたのが原因で空間変異が起きたんだ……。それでリビングがダンジョンにつながっちまったんだよ……」
原因は雷しか考えられない。
1.21ジゴワットうんたらが、異世界への扉をこじ開けてしまったのだ。
「浩太……ダンジョンってどういうことだ……」
「浩太……あなた、なにを言ってるの……」
状況がまるで理解できない両親に向き直り、浩太はゴクリと唾を飲む。
そしてこれがいかに大変なことであるかを、二人に諭し伝える。
「いいか、父ちゃん、母ちゃん。その飛び出た目玉を引っ込めて落ち着いてよく聞いてくれ。ダンジョンってのは、異世界なんだ。異世界ってのは、剣と魔法の世界なんだ。この先には魔物がいるだろうし、それを狩りにくる冒険者だっているかもしれない。つまり俺たち家族は、今世紀最大の窮地に立たされているってことなんだ」
「おい浩太……今世紀最大って……それはいったいどういうことだ……」
「ねえ浩太……なにが起きているの……。どうして我が家にこんなことが……」
信彦の両足は、生まれたてのアルパカのようにプルプルと震えていた。
記念写真のため、ヒョウ柄のワンピースにドレスアップしていた洋子もまた同様だ。
「考えてもみろよ。ここから魔物や異世界人が、わんさか溢れ出したらどうする? それって宇宙レベルの大事件だ。そのアルマゲドンみたいな元凶が、このリビングに開かれちまったってことなんだぞ」
浩太は大きく肩を落とし、舌打ちを鳴らして悔しさを滲ませた。
平穏な日常はもう望めない。
これからは、地獄に片足を突っ込んだような非日常が続くのだ。
むろん、生死がつきまとうダンジョンを冒険したいとは思わない。
ファンタジーに寛容がある十七歳の少年ではあっても、現実となれば話は別である。
「あ、あなた……とりあえず警察に連絡したほうがいいんじゃ……」
「そ、そうだな……母さんの言うとおり、ここは警察に連絡だ……」
「ダメだ父ちゃん! 地球がひっくり返ってもそれだけは絶対にダメだ!」
受話器を持ち上げようとした信彦を、浩太は声を荒げて制止した。
警察に連絡するなどもってのほかだ。
この事実が世間に知れ渡れば、豚の糞を食う以上の最悪のシナリオが待っている。
近隣はおろか、町単位での政府による厳重封鎖は避けられない。
なにか事が起きたときに備え、大勢の自衛隊員が二十四時間体制で監視にあたるのだ。
事が起きなくとも、政府が異世界現地調査に乗り出すことは容易に考えられた。
それには各国の思惑も交差し、瞬く間に世界情勢は疑心暗鬼のもとに一変する。
負の連鎖はさらに連鎖を重ね、異世界を巻き込んでの世界大戦が勃発。
その起点ともいえる当事者が、吉岡家の面々なのである。
彼らがマイホームなどを新築しなければ――。
彼らが高望みなどせず、身の丈に合った3LDKのボロアパートに甘んじていれば――。
ダンジョンなどが出現することはなかった。
世界大戦が起きることもなかった。
すべての原因は、吉岡信彦、吉岡洋子、吉岡浩太、その家族三名の愚かな俗欲にある。
後世までそう断罪され、戦犯として教科書に顔写真が載り、イタズラ描きの恰好の標的となるのだ。
つまり警察に連絡するということは、以上のシナリオが不可避に約束されている。
浩太がそれらのことを説明すると、両親はムンクの叫びの表情で怯えはじめた。
「じゃあ浩太! 父さんと母さんはどうしたらいいというんだ!」
「2500万円で建てた新築なのよ! マイホームローンがたんまり残っているのよ!」
信彦は涙を流して膝をつき、ピカピカのフローリングを拳で叩く。
そんな父に寄りかかるようにして、洋子もおいおいと泣き崩れた。
二人の気持ちは痛いほどわかるし、浩太も泣きたい気分だった。
人生での一番高い買い物が、やっと夢叶った新築が、超がつくほどの爆弾を抱えた不良物件へと様変わりしたのだ。
しかし自分まで泣いている場合ではない。
この事実をいち早く隠匿し、世間の目をあざむく必要がある。
「向かいの家のクソムカツクジジイに、家の中を覗かれるわけにはいかねーぞ!」
浩太はリビングに面した掃き出し窓をきっちりと閉め、厳重に鍵をかけた。
そしてカーテンで窓を覆い隠し、家の中の情報をシャットアウトする。
夏休みもはじまったばかりで気温も高いが、エアコンがあるのでそれほど心配はない。
リモコンでエアコンのスイッチを入れると――。
「これもダメかよ!」
浩太は手にしたリモコンをそこらにぶん投げた。
エアコンも落雷により壊れていた。
テレビや冷蔵庫も調べるが、すべての家電製品は完全におしゃかとなっている。
「そのブルーレイ内蔵の六十インチのテレビは、二十万もしたんだぞおおお!」
「そのどちらからも開けられる冷蔵庫は、十八万もしたのよおおおおおおお!」
両親は床に這いつくばり、漫画のように瞳を歪ませ号泣しはじめた。
しかし、まだ慌てるような時間ではない。
この新築の住居がある限り、寝床の確保だけはされているのだ。
そんなとき――。
「ギエエエエエエエエエエエ!」
不気味な咆哮を発し、なにかがダンジョンより駆けてきた。
それは一メートルにも満たない二足歩行の化け物だ。
尖った耳と鉤鼻、ギョロっとした目玉を持ち、体表は浅黒い緑色。
浩太はこの化け物をアニメやゲームで見たことがある。
代表的な魔物の種族、ゴブリンで間違いがない。
そのような魔物が口元から牙を覗かせ、イボイボこん棒を振り上げ駆けてきた。
あきらかに標的にされている。
「あわわわわわわわわわわわ!」
「ひいいいいいいいいいいい!」
未知との遭遇に、信彦と洋子はへたり込んで動けない。
パワーストーンやペンダントなど、怪しい開運グッズを販売するサラリーマン。
スーパーの鮮魚コーナーで、刺身にタンポポを載せるただの主婦。
そんな戦闘スキルが皆無の二人に、敵うような相手ではなかった。
「こうなったら俺がやるしかねー!」
キッチンから包丁を取り出し、浩太はゴブリンを迎え撃つ。
この家の中に入れてはいけない。
家の外に異世界の魔物を解き放ってはいけないのだ。
「しゃっらああああああああああ!」
気合を一発、浩太はゴブリンのボテっとした腹へ包丁を突きつけた。
しかし――。
ゴブリンは身軽な動きを見せ、浩太の頭を飛び越えリビングの中へ。
死守せねばならない防衛線を、いともたやすく超えられてしまった。
次の瞬間――。
「ギエエエエエ!」
へたれ込む信彦に向け、ゴブリンはこん棒を振り下ろす。
父の頭部にそれが直撃し、ピンク色の脳髄がぶちまかれ、ようとされたそのとき――。
「ひえええええ!」
信彦は転がるようにして、敵の攻撃をかろうじてかわした。
だがゴブリンによる一撃で、リビングの床が打ち破られた。
父がその攻撃をかわすたび、
ドスン! ドスン! ドスン!
と、ピカピカのフローリングが穴ボコだらけに破壊されていく。
「ギエエエエエ!」
ゴブリンは標的を変え、テーブルを背に尻もちをつく洋子に狙いをつけた。
容赦のない無慈悲な攻撃が、腰を抜かした母に襲いくる。
「ひゃああああ!」
洋子はとっさに首をひねり、その攻撃を紙一重で切り抜けた。
それでもゴブリンによる一撃で、背後のガラステーブルがバラバラに砕け散る。
小柄ながらも敵は怪力の持ち主、このままでは両親が危ない。
浩太は一か八かの賭けに出る。
「うおりゃっ!」
浩太はゴブリンに向け、手裏剣のように包丁をぶん投げた。
しかしその狙いは外れてしまい、包丁はソファの背もたれにブスリと突き刺さる。
テーブルやソファは高価な家具メーカーのものだ。
両親が新築に合わせて購入した。
一生ものであるから良い品をと、化粧の濃い店員に進められた最高級品。
「許さねえぞ! このクソゴブリン! 父ちゃんと母ちゃんの大事なソファを!」
包丁を投げたのは自分だが、浩太は責任のいっさいをゴブリンに押しつけた。
こうなっては確実に息の根を止めるほかはない。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
荒ぶるように雄叫びをあげ、浩太はテレビを両手で持ち上げた。
そして六十インチブルーレイ内臓の殺戮鈍器を、ゴブリン目がけて放り投げた。
火事場のバカ力で放たれたそれは見事命中し、ゴブリンはテレビの下敷きとなる。
今がチャンス――。
「死ねッ! 死ねッ! 死ねッ! 死ねッ! 死ねッ! 死ねッ! 死ねッ!」
テレビの上に飛び乗り、己のサイコボイスに合わせ、ジャンプによる自重攻撃。
バキバキに壊れていくテレビだが、敵にダメージを与えている手ごたえはあった。
踏みつけるたび、
ギエッ! ギエッ! ギエッ!
と、ゴブリンは密林の怪鳥のような鳴き声をあげていく。
それにともない、床には気味の悪い緑色の体液も広がっていく。
しばらく圧殺攻撃を繰り返しているうちに、その反応のいっさいが消え失せた。
試しにテレビを足でどかすと、仰向けとなるゴブリンがボロ雑巾のようになっていた。
口から緑色の血反吐を垂れ流し、誰がどう見ても完全にご臨終されている。
「父ちゃん、母ちゃん、もう大丈夫だ。二人とも怪我はなかった――」
安堵の息とともに両親の身を案じるが、さらなる異変が待ち受けていた。
二人は不動明王がごとき形相を浮かべ、ダンジョンの奥を睨みつけていた。
「ダンジョン? 魔物ぉ? ふざけるなよぉ? 俺さまの家をこんなにしやがってぇ……。族の頭、『血みどろの信彦』とは俺さまのことよ。やってやんぜ。この俺さまを怒らせたことを、死をもって後悔させてやんよ」
「スケ番、『紅桜の洋子』とは、あたいのことさ。あたいのこの拳で、血しぶきという名の紅の桜が舞うよ」
狂気にかられたように、両親はダンジョンの中へと踏み入った。
まさか二人にそんな過去があるなんて思いもしなかった。
怒りで我を忘れ、忘却の彼方に封印した青春時代の実像が、今ここに蘇ったのだろう。
浩太はイカれた昭和のヤンキー像を、ふと頭に思い描いた。
というか、それどころではない。
「ダメだ、父ちゃん、母ちゃん! そっちの世界に行ったらダメなんだ! もう二度と帰ってこれなくなるかもしれないんだぞ!」
そんな浩太の叫びも届かない。
闇落ちした両親は、さらなる闇に身を染めながら、ダンジョンの奥へ姿を消した。
一時間――。
二時間――。
三時間――。
と時は過ぎ、夕方となっても二人は戻らなかった。
ミノタウルス、はたまたオークに殺されてしまったかもわからない。
浩太はソファに腰を落とし、ガックリとうなだれていた。
両親がいないということで、こんなにも自分が無力であることを痛感せざるを得ない。
心の支え、生活の支え、生きる目標の支え、その全てを失ったような絶望感が滲み出る。
そんなとき――。
ピンポンパンポン。
と、吉岡家独特の玄関のチャイムが鳴った。
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