日常編Ⅱ

彼方さん、魔王の配下と対決す

 とうとうこの時が来てしまった。

 できることなら避けたい。いや、でも、分かっている。絶対に逃れることなどできはしないのだ。

 そして、あの悲劇は起きた。



「ずいぶんとご機嫌じゃねーか」

 彼方かなたにそう言われ、知らず鼻歌が出ていたことに気づく。こっぱずかしい。慌ててやめたが、彼方かなたの見上げてくる顔はにやにや笑っている。

「なんかいいことでもあったのか?」

 まぁ、鼻歌出ちゃう程度には。

 生姜をすり終わり、冷蔵庫へそれを取りに行く。

 最近ちょっとわびしい飯が続いてたけど。やっと給料を下ろしたので。今日は贅沢を。

「ふへへ。生しらす買ってきた」

 好きだ、生しらす。春の終わりから初夏にかけて生しらす漁は最盛期。これを食べずに夏は迎えられない。

 それにしても運がよかった。いくら漁港に行ったからって、天候によっては船が出てなくて買えないことも多い。特に今年は不漁だともいわれてたし。ふへへ。

「あ、そっか。お前、生の魚はダメなんだっけ? 悪いな」

「え、いや、生肉はダメだが。別に魚は……」

 透き通った艶やかなしらすを皿に山盛りにする。生姜と醤油をぶっかけてひたひたにすれば、完璧だ。これ以上の食べ物はない。ふへへ。

「ん、冷しゃぶも作ったから、そっち食べてくれよ。生姜醤油合うぞ」

「……おう。や、でも、俺もどっちかっつーと、魚を生で食べるのは好きなんだが」

 今日は酒も紙パックではない。地酒を買ってきた。花の舞。華やかな香りとすっきりした飲み口の飲みやすいお酒だ。やっぱ生まれ育った土地の水で作られた酒はうまい。

「……いや、いいんだが。お前が一人で食いたいってんなら。居候の身だしな……」

 調子に乗ってたら予想以上に彼方かなたがしょげていた。どうせ生しらすは取っておけないし、もちろん最初から分けるつもりだった。

「ごめん、冗談だって。ちゃんと分けるから」

 小皿に山盛りにしてやると、彼方かなたは即座に立ち直った。らんらんと生しらすを見つめる。

「醤油は?」

「おう」

 自分で醤油差しを持ち上げ、だばーっとかけた。さすが勇者。小さい割りに怪力なのだ。自分より大きなものも軽々持ち上げたりしている。

 さっそく生姜醤油のきいた生しらすで酒を酌み交わす。うまい。幸せ。

 幸せという名の生しらすを噛みしめているときだった。ちらりと視界の端を不吉な黒い影が走った気がした。

「…………!?」

 一瞬だったけれど、すごく嫌な予感がする。こう、本能に響いてくる感じの。

 体を硬くする気配が伝わったのだろう。彼方かなたも顔を上げた。

「どうかしたか?」

 警戒の色を強め聞いてくる。

「なんか、ちょっと……」

 気配だけではなんとも言えない。放っておくのも精神衛生上よろしくなく、息を殺してそっと近づいてみる。影が走ったのは、ちょっと片付け切れてないものが乱雑に置いてあるあたりだ。のぞいても、影はない。でも安心はできない。仕方なく手をのばす。

 やっぱりGゴキが一匹飛び出してきた。

「うわわわわわ」

 ちょ、大きい。最悪だな。もうそんな季節か。いやでも生しらすの季節だもんな。出るよな。ああ、もうっ。

 慌ててのけぞるが、ああ、どうしよう、退治する武器がない。あわあわとしているうちに、あろうことかパニクッたゴキがこっちに向かって飛んできた。

「だあああああああ!」

 もう無理ぶつかると覚悟したとき、彼方かなたが「敵襲かッ!?」と叫ぶ声が聞こえた。

「そう! 敵っ!」

 シュッと空を切り裂くように飛び出すもう一つの小さな影。キラリと一瞬光ったのはきっと勇者の剣。

 彼方かなたが飛んでいた。

「はッ、龍剣疾風斬ドラグン・ストーム!」

 まぶしいほどの閃光と空気を揺るがす重低音。一拍を置いて、Gゴキが爆散した。

「うわぁ……」

 木っ端微塵で跡形もなかった。

 すちゃっと着地した彼方かなたが依然剣を構えたまま鋭い視線をあたりに向ける。

「敵なんだな! どんな敵だ? 大丈夫か!?」

「うん、まぁ、大丈夫。……後で掃除機かけよ……。なんて言うか、言うなれば人類の敵みたいなやつで。いっそ魔王の優秀な部下だよね、あれ」

 はははと苦笑すると、彼方かなたがますます目つきを鋭くした。……あれ?

「なにっ、魔王配下かッ!? やべぇじゃねーか。てか俺、あいつらがたくさん巣くってるとこ、知ってるぞ。ちょっと行ってくる!」

 言うなり走り出した。

「え、あ、ちょっ、ちが」

「大丈夫だッ、心配すんな!」

 カッコいい二指礼飛ばして家具の影へ消えていった。

「……あー、しまった。てゆーか、ゴキ巣くってるとことか、あるのかー」

 やだなー。

 どこか奥の方から雷のような轟音が響いてきた。


「ただの虫だったじゃねーか!」

「ん、ごめん。ほんと嫌いだったもんで」

「それにしたって! 紛らわしいな、ったく」

 その後、15センチのかっぱに膝詰めで説教された。


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