30.悲しみのあなたに愛を(二)
「何やってんだ、私たち。馬鹿らしくなってきた」
「ほんとですね…」
“兄妹げんかは止めなさい。”
って、山南さんの呆れて仲裁する声が今にも聞こえてきそうだ。
「明里さんの覚悟と勇気を尊重してください」
「覚悟を決めるのは男だけじゃない、ってことか…」
「お願い…少しだけでいいから。ふたりにしてあげて?」
「ごめん…そうだね。気が立ってたんだ」
「ううん…わたしこそごめんなさい。精神を集中させないといけないのに」
「ちょっとだけ、気が紛れた…」
無理もない。
どれだけ苦悶したんだろう。
今もまだ、おそらく…
「もう行くよ。無になりたいから」
「ちょっと待って」
沖田さんの着物の着崩れをぴしっと直す。
「礼を尽くす格好で…行ってらっしゃい」
「ありがと…私には仕事が待ってる」
沖田さんはこれから山南さんの切腹の介錯を務める。
それは、山南さんの希望。
大津の宿でも本人にはっきりと伝えていた。
兄同然に慕っていた人を自分の手で…
何という酷なことだろう。
迷いも涙も断ち切らなければならない。
ずっと前、あまりに左之助兄ちゃんがお腹の傷を自慢するものだから、聞いてみたことがある。
“想像力豊かな君には耐え難い”と言って、切腹の作法や細かな決まりについては教えてくれなかったけど、介錯人は剣術に長けた人でなければいけないらしい。
割腹だけで人は死ねないから、切腹人に苦痛を与えないために首を一振で…とだけ。
わたしのことを本当の妹だと思っている、と言ってくれた。
ならば当然、沖田さんのことも血の繋がった弟のように思っている。
だから介錯に指名したのだ。
剣術に長けている云々かんぬんよりも。
可愛がってきた弟に最期を託したい。
そう思ったんじゃないかな。
「山南せんせ…山南せんせぇ…!」
ハッと、明里さんの声に気づいた。
「見届けよう。わたしたち、ふたりの愛の証人になるの」
「うん」
為三郎とともに一部始終を見守る。
わたしたちが見届けて、覚えていれば、ふたりの愛は消えたりしない。
息を切らしていて、上手く声を出せないのだろう。
弱々しいその声では山南さんに届かない。
トントンと格子窓を叩く。
「せんせぇ…」
顔が真っ青だ。
涙声に吐息が混じる。
「山南先生っ…!」
最初は遠慮がちに叩いていたのが、次第にドンドンと強く格子を叩いて、恋人の名前を何度も何度も繰り返し呼び続けていた。
このくらい音がしていれば気づくだろう。
早く開けてあげて…。
「山南せんせ…開けとくれやす…」
声と格子を叩く音に反応して、窓の障子戸がほんの少し開いた。
「明里…!」
ようやく顔を見せた山南さんは、驚きを隠せずにいた。
「君がなぜここに…」
驚きの後。
複雑な表情で見つめているようだった。
「かれん君だね…」
しょうがないな、と言わんばかりに、明里さんにほほえみかけた。
結局、全部お見通しなんだ。
「走ってきたのかい?」
「へぇ…」
「君らしくない、髪が乱れているよ」
山南さん、今それどころじゃない。
と、心の中で軽いツッコミを入れてしまったけど、明里さんと普段どおりの会話をしたかったのかな、とも思った。
「えらいすんまへん…」
山南さんの指摘に、明里さんは髪に触れて整える。
こんなときだけど、その仕草が女性らしくて色っぽくて、見とれてしまった。
「呼吸は大丈夫か?落ち着いた?」
「へぇ、平気どす」
言いたいことはたくさんあるはずなの。
声が詰まり、言葉を飲み込む。
「山南先生…」
顔を見てもなお、名前を呼んだ。
何を言いたいかは分かる。
聞きたいことも、伝えたいこともありすぎて、何から話せばいいのか戸惑う気持ちも分かる。
なぜここへ来たのかなんて、そんなこと山南さんも知ってる。
充分、伝わってる。
伝わっていないわけがないの。
「…みうけ」
ぽろりと大粒の涙がこぼれて、うつむく明里さん。
「身請け、してくれはったんどすなぁ…」
それなのに、なぜ死に繋がるような行動を選んだのか。
「うれしおす…おおきに」
「ずっと夢、見てましたよって…」
「夢?」
「先生と一緒になることどす」
「すまない…」
「なんですの、それ…」
誰ひとりとして巻き込まない人生などありえない。
自分の人生に後悔はなくとも、心残りは少しくらいはあるのだろうと思う。
愛する人をひとり残していくこととか。
たとえ自分は一緒に生きられなくとも、自由に生きてほしい。
せめてもの願いなんだね、それが。
山南さん自身が“何にも囚われず、自由に生きてみたくなった”と言っていた。
「一緒に生きてほしかったな…」
ふたりのやり取りを静かに見ていた為三郎が、涙を呑んでそう言った。
「そうだね…」
15歳なら、為三郎にも好きな子、心通わす子がいるのかもしれないな。
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