30.悲しみのあなたに愛を(一)
いつもわたしに教えてくれた。
小言を言いながらも、導いてくれた。
優しく見守ってくれた。
山南さんは幸せだった?
八木家の門前に立ち、斜め向かいの前川家の格子窓を見つめていた。
あの部屋に山南さんがいる。
山南さんとふたりで話していたのは、ほんの数十分前のことだ。
一言も漏らさずに覚えていたい。
繰り返し繰り返し、山南さんとのやり取りを思い出していた。
七つ時まであとどのくらい時があるのだろうか。
今、どんな気持ちで時を過ごすの?
ひとつだけ。
明里さんがまだ来ていないことが心配だった。
このまま来ないつもりなのかな?
もし来たとしても間に合わなかったらどうしよう…
それくらい、もう時間がないのだ。
後ろから着物の袖を引っ張られた。
「かれん姉ちゃん…」
男の子がひとり。
「為三郎…」
八木家次男、15歳。
中学生くらいの年頃だ。
事の重大さが分からないほど子供じゃない。
「俺もあっちの屯所に行こう思たんや」
「気持ちは分かるけど、止めときな…」
新選組のみんなやわたしに懐いてくれて、山南さんも為三郎をとてもかわいがっていた。
口には出さないけれど、不安に襲われ今にも泣きそうな顔。
何て言ってあげたらいいか…
かける言葉が見つからない。
わたしのほうが先に泣いてしまいそうで。
「もう時間があらへん…。早すぎる…」
「山南さんよりわたしたちのほうが狼狽えてるね…」
「うん…」
どんなに祈っても、時は止まってはくれない。
非情にも時は過ぎてゆく。
刻一刻と迫る。
為三郎と一緒に“その時”を待つ。
「壬生寺にお参りに行かへん?山南さんのこと…」
「うん、そうしようか…」
ただここで待つのがつらいんだと思う。
壬生寺へ移動しようとしたときだった。
「あ、姉ちゃん、あれ…誰か来る」
道の向こうから、こちらに向かい走り来る人。
西日が逆光になってよく見えない。
「誰やろか」
だんだんとその姿が近づき、女の人だと分かった。
あ…
明里さんだ!
「為三郎、ちょっとだけ待ってくれる?」
「あ、ええけど…」
為三郎の手を引っ張り、ふたりで門の陰に隠れて様子を伺う。
「あの人、山南さんの恋人なの」
「え…」
間に合ってよかったという思いと。
どうあがいても変えられない現実と。
明里さんの計り知れない苦悩と。
感情が交錯する。
「なぜ知らせたんだ!」
驚いて声のほうに顔を向けた。
「沖田さん…」
やるせない表情。
昨日から、必死に説得したものね。
山南さんの心を動かせなくて途方に暮れた。
今だってそう。
「あの人に知らせたのはかれんちゃんだろ?」
「うん…」
「いくら恋人だからって、もう間もなく切腹するっていうのに、逢わせるなんて苦しみが増すばかりじゃないか!」
端から見たらそうなのかな…
でも明里さんは来た。
腹をくくったのかは分からない。
一生、忘れることはない。
だけど、悩み抜いて決心して、自分でここへ来た。
その覚悟を無にしてはならない。
「私、止めてくるから!」
「待って!」
腕にしがみつき、ふたりのところへ行こうとするのを必死に止める。
「ダメ!止めちゃダメ!」
「離してよ!」
「為三郎!前抑えて!」
「えっ、あっ、はい!」
「何するんだよ!やめろ、為三郎!」
「世界中の誰よりも愛する人を失ってしまうんです!」
「だけど残酷じゃないか!」
「武士をお慕いしたら仕方ないと思うしかないの?」
「俺はそう思わへん!姉ちゃんの味方やし!」
ありがとう、と為三郎に言ったら、沖田さんを必死に制止しながらも、うんと頷いてくれた。
「知らないところで恋人が亡くなって、そんで後から報告だけされるなんて、わたしは嫌!絶対嫌!」
「そりゃ、かれんちゃんはそうかもしれないけど!」
「でも兄ちゃん、あの人もこうして逢いに来たんやで!」
「一生引きずって立ち直れないかもしれないけど、自分で決めてここへ来たんです」
「そや!あの人も、かれん姉ちゃんと同じように思ってはるんと違うか?!」
「どうあがいても、もう逢えないんですよ。でも今なら!まだチャンスが残ってる!」
「ちゃんす、って何や?!かれん姉ちゃん」
「それは今どうでもいい!」
「こんな小競り合いしてる場合じゃないんだって!」
「女にだって、覚悟しなきゃいけないときがあるの!!」
沖田さんをまっすぐ見つめて言った。
思いの外、大声が出たことで、自分の声が響き渡っていた。
「あっ!」
それに気を取られた一瞬で、バッ!とようやくわたしたちを振り払う!
息切れするほどの小競り合い。
「真剣勝負ならやられてたよ、今一撃で…」
「沖田さん、意外と力強いんですね」
「失敬な…物心ついた時から剣術の稽古してるんだ」
ふうっと、息を吐いた。
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