29.夢の香、千里のかなたへ(五)

「かれんちゃん!どないしたん?そないに慌てて」


「明里さん…」


「フラフラやないの」


「すみません…」


「とにかく座って、息整え」



左手でわたしの手を握り、肩で息をする背中を右手でさすってくれた。



「あ…なのはな…」


「菜の花?」



忘れてきた。


食べられる黄色い花束…



「落ち着いた?」


「はい、ありがとうございます」


「ちょうどええ。うちも話があるんよ。ええ話よ」


「何…ですか?」


「ふふっ」



上目使いで照れてはにかむ。


心の底からうれしい話なのだと思った。



「山南先生がうちのこと身請けしてくれはったんよ」


「え?」



身請け…



「なんやぁ、反応が薄いわぁ」


「あっ、ごめんなさい!あまりに突然でびっくりして…」


「せやろ?かれんちゃんにもなーんも言うてへんかったかぁ」


「自分の恋の話、なかなかしてくれないんで…。わたしがしつこく聞くんですけど、秘密ばっかで…」


「照れ屋やなぁ」


「山南さん…いつの間に…?」


「仕事で屯所を空ける前やって聞いたわ。うちにも身請けの話なんか、ちーっとも言うてへんかったのになぁ」



いつも以上に明るく、うれしそうにな明里さん。


キラキラと瞳は未来を見ている。



明里さんの口から身請けの話を聞くときは、一緒にはしゃいで大喜びするはずだったのに。


よかったねって心から祝福するはずだったのに。



「しばらく逢われへん言うてはったけど、いつ戻らはるの?」



なんで…


何で今なの…?


せめてもっと早く…



「かれんちゃん?」


「明里さん、お話があります」



明里さんの腕を引っ張り外に出る。



「どないしたん?」



山南さん…


ひどいよ、ひどすぎる。



「なんで…」



明里さんを身請けしたのに、なんで脱走したの?


どうして屯所に戻ったの?


どうして生きようとしてくれないの?


どうして…!



「何?」



どう伝えればいいのか、黙り込んでしまった。



「その…」



わたしの顔を心配そうに覗き込んだ。



目をとじて深呼吸をして目の前の黒い瞳を見つめる。


この瞳から目をそらしてしまえれば、どんなに楽だろう。


でも、それはできない。



「明里さん。山南さんが…」



その後が続かない。



「山南先生が?」


「山南さんが……」


「何よ、もったいぶって」



意を決して、震える声で伝えた。



「山南さんが…今日、切腹します…」


「え…?」



一瞬にして凍りつく。



「何、言うてんの…?」



動揺のあまり、目が泳いでいる。



「悪い冗談やめて…」



涙を堪え、黙って首を横に振る。



「今日の七つ時にと、決まりました…」


「嘘や…」


「嘘じゃ、ありません…」


「そんなこと、あるわけ…」


「ほんとは山南さん、屯所にいるんです」


「何でほんなこと言うん?!それ言いに来たんか?」


「…はい」


「だいたい、山南先生が何したっていうんや!」


「自分の信念を貫くために…脱走しました…」



明里さんの心から一瞬にして光を奪ってしまうような、こんな報告をすることになるなんて…



「ええかげんにしいや…。怒んで…」


「明里さん、時間がありません。早くしないと…」


「いっこもおもしろあらへん!冗談もたいがいにしいや!」


「こんなこと、命に関わることを冗談で言いません!」


「先生はうちを身請けしてくれはったんや!何かの間違いと違うんか?」



間違いだって言えればよかった…


今だって、みんなの必死の説得が山南さんの気持ちを変えてくれるかもと、まだ淡い期待をしてる。



「これから穏やかに過ごせる思うて…」


「明里さん、行きましょう?山南さんのところに…」


「嫌や…行かれへん。何で?何でや…信じへん!」



わたしの手を振り切り、キッと強く睨んだ。



「帰って!」


「待って、明里さん!前川家の格子窓がある部屋です!」



取り乱し、泣きながら店の中に戻ってしまった。


その背中を追うことはできなかった。



ごめんなさい、明里さん。


知らせたのは間違いだった?


わたしの独り善がりだった?


自分のした行動に自信がなくなってしまった。



明里さん、本当にこのままでいいの?


逢えないままでいいの?



ただの日常の別れじゃない。


明日にはもういない。


永遠に逢えない。


声を聞くことも、手を握ることもできない。


深い深い絶望しか残らないのに。


後悔しないの?



逢うか、逢わないか。


山南さんをどう見送るのか、それを決めるのは明里さん自身だ。


これ以上、どうにもできない。



愛する人が死んだら、その先の人生はどうして生きていけばいいんだろう。


わたしには分からない。



人は恋だけでは生きていけない。


だけど、恋は人生の糧にはなる。



抱きしめてほしいなんて言わない。


愛の言葉もいらない。


二度と名前を呼んでくれなくとも。


ただ生きてさえいてくれればそれでいいの…



泣きながら、トボトボと来た道を戻る。



山南さん。


なぜ自分の未来を自ら摘み取ってしまうの?


新しい未来はすぐそこにある。


どうして?


分からなくて胸が苦しいよ。


いつも答えを教えてくれるじゃない。



「誰に教えてもらえばいいの…?」


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