29.夢の香、千里のかなたへ(六)
足が自然と屯所の庭に向かっていた。
沈丁花の前にぼーっと立ち尽くす。
そよ風に乗って、夢の中へ
あの日、この場所で山南さんと話したことが遠い過去のように思える。
誰か夢だと言って…
どうしても受け入れられないの。
受け入れたくない。
「今年はこれで最後かな…」
こんな悪夢のような日でも、沈丁花の香りはいつもと変わらないのだ。
「かれん」
重苦しい土方さんの声にふり向く。
「体、いいのか?左之から聞いた」
「はい」
「すまん…負担かけちまって」
大きく首を振って、土方さんを抱きしめた。
絶対に泣いちゃだめだ。
土方さんも苦しみを閉じこめて、気丈に振る舞っているのだ。
「山南さんが呼んでる。行ってくれるか…」
「山南さんがわたしを?」
「どうしても話がしたいんだと…」
死を待つ大切な人のために何ができるのか。
わたしにできることなんかあるの?
とっくに無力さを思い知った。
情けないほど何もできない…
神様、どうか力をお貸しください。
山南さんから受け取ったものがたくさんあります。
少しでも恩返しがしたいのです。
枝にパチンとはさみを入れた。
沈丁花、これを山南さんのために飾ろう。
せめて、あの部屋がこの香りで満ちるように。
「あ…そうだ!」
わたしは約束を果たさなければならない。
夢ではないのだから…
「かれんです。失礼いたします」
「どうぞ」
ひとり正座をした山南さんが、普段どおり優しく迎え入れてくれた。
「呼び出してすまなかったね、って、その荷物は何事だい?」
「これは…」
大きなざるを抱えて部屋に入る。
それから、一輪挿しの花瓶と裁縫箱も。
「野菜でも干しているのかと思ったら、沈丁花の香りだ」
スウーッと鼻から息を吸い込んだ。
「この切り花、ここに飾ろうと思って」
「ありがとう、私のために」
「それと…」
「こっちは乾燥させた沈丁花?」
今度はざるの上の花を少し手のひらに乗せて、クンクンと香りをかいだ。
「匂い袋作りましょう!」
「えっ?今、ここでかい?」
「子供たちと一緒に、咲き始めから花を摘んで乾燥させておいたんです。2週間以上過ぎてるので、ちょうどよく乾いてます」
「子供たちが楽しみにしているのではないかい?」
「たくさんありますから」
「はははっ!こんな時までおもしろいね、君は」
「匂い袋作るのは、約束です」
「そうだったね」
ウルッときて、また泣きそう。
「じゃあ、匂い袋を作りながら話をしようか」
優しい顔を見るたび、声を聞くたびに、涙が勝手にこぼれてくる。
「生地はどれにしますか?」
ささっと涙を拭って、明るく言った。
「うーん、そうだな…」
まずは着物のはぎれで小さな巾着を縫う。
「意外と迷うものだね。
「これにしよう!」
草花文様が描かれた淡いオレンジの生地。
明里さんに似合うと思った。
「いつも君が花を生けてくれるお蔭で、心が癒された」
裁縫箱から取り出した針に糸を通して、山南さんに手渡す。
「知ってるかい?沈丁花は強い香りが千里先まで届くという意味で、“
「すてきな名前ですね」
「“春されば まづ
「和歌ですか?」
「万葉集だよ。柿本人麻呂が詠んた歌だ」
「万葉集か、おまさちゃんに借りて読んでみます」
「そうしなさい。三枝とはミツマタのことだが、いくつか説があって、沈丁花ではないかとも言われているんだ」
「その歌の解釈は?」
「“春が来るとまず咲きだす三枝の花のように、幸せであったならばまたいつか逢える。だから、そんなに泣き暮さないでくれ、愛しい人よ”」
花瓶の沈丁花を瞳に映し。
その目は愛おしそうで、でも寂しげで。
明里さんを想っているのだとすぐに分かった。
世界でいちばん愛しい人。
「何か、切ない…」
「そうか、君には切ない歌に聞こえるか」
と、笑った。
部屋いっぱいに漂う香りみたいにふわりと。
これから死ぬというのに、なぜこんなに穏やかでいられるの?
「よし、できた!」
「山南さん、裁縫上手ですね」
「ははっ、君よりはね」
「機械仕掛けの道具、自力で作りますもんね」
乾燥させた沈丁花の花を薄い和紙に包み、巾着の中に詰める。
仕上げに飾り紐をキュッと蝶結びして。
「完成だ!」
心地のいい声が紡ぎ出す一言一言を、心に刻みたい。
「君には驚かされてばかりだよ。馬に乗ったり、時世の有り様に興味を持ったり。こんな
「女が学問をしたら、社会情勢に詳しかったら可愛くないなんて、そんなのおかしいと思いませんか?」
「確かに、
「ただ学ぶ場所がないだけで…」
「女だからって生き方を決められたくない?」
「はい、女にも何かを志す権利はあります」
「天真爛漫で型にはまることがない。と思えば、スッと一本、筋が通っている。それが君らしくて良い」
普通なんだよ。
2世紀先の世界では。
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