26.幸せを運ぶ人(四)
茶筅を規則的に細やかに動かし、お茶を点てる音だけが空間に響く。
綺麗な手…
顔だけじゃなく、手も指先までも綺麗だなんて。
とか思いながら膝の上の自分の手を見た。
所作に見とれてそんなことを思えるだけ、まだいいのかも。
懐紙に乗せ、先にいただいているお菓子も美味しい。
茶道用語では
「おいしいっ!」って大声が出そうになったのをお菓子と一緒にのみ込んだ。
あれはきっと、上生菓子だ。
並じゃないことは分かる。
だけど。
香炉から漂う香りがどんなものか、季節のお花がどういう花器に生けられているのか。
掛け軸に書かれた文字はどんな意味なのか、とか。
そんなことは分からなくて。
考えられなくて。
静寂や風流、侘び寂びとやらを楽しむ、心の余裕はない。
むしろ静寂が緊張感に拍車をかける。
“和敬清寂、和敬清寂”
呪文のように何度も何度も繰り返す。
もちろん、心の中で。
わたし…
なぜ、今ここでお茶の席に招かれているのだろうか?!
主菓子を食べ終わる頃を見計らって、
半東とは亭主のサポートをする役割の人だ。
来た…
ついに、わたしの元へとお茶が来てしまった。
差し出されたお茶をじっと見つめていた。
緑色の泡が立っている。
お茶のいい香りが鼻に届いた。
桔梗だ!
よかった、お茶碗に絵がが描いてある。
わたしに向けられ、桔梗の絵が描かれたほう。
これがお茶碗の正面だよね。
正面が分かりやすいお茶碗で助かった。
ここからが大事、気が抜けない。
「お点前、頂戴いたします」
深々とお辞儀をしてから、目の前に置かれたお茶碗を手に取る。
左手に乗せ、右手を添えたら。
2回、手前に時計回りに回して、お茶碗の正面をずらしてお茶をいただく。
3口半で飲み、最後の一口はズズズッと吸いきりの音を立てて飲み終わったことを知らせる。
親指と人差し指で飲み口を清め、懐紙で指を拭いた。
反時計回りにお茶碗を回し、正面を元に戻してから、そっと畳の上に置いて一言。
「大変美味しゅうございました」
本当に、美味しかった。
緊張しすぎてお茶の味が分からないかも、と思ったけれど、この静けさと緊張の中にいても味覚は生きていたようだ。
だって。
何を隠そう、亭主であり、このお茶を点てた綺麗な手の持ち主は…
容保様なのだ!
事の発端は療養中の容保様よりお呼び出しがかかり、會津藩御用屋敷へ来たことだ。
そもそも、それ自体が驚きだというのに。
どうしてこんなことになったのかというと……
「お殿様、お久しゅうございます」
「呼びつけて悪かったな」
「とんでもございません。うれしゅうございます」
容保様から局長への書状を預かるお使い、という名目だった。
「あの、お体の具合が優れないとお伺いしました。お加減はいかがでございますか?」
「うん、このとおり」
「随分と顔色も良くなられましたよ」
「左様でございますか。それは安心いたしました。まだ暑さもございます。どうかご無理なさらず、ご自愛くださいませ」
ご無理なさらず、と言っても、お忍びもままならない、と容保様からの手紙に書いてあったとおり、治安を維持するために頭を悩ませてるんだろうな。
何たって孝明天皇からの期待を背負っているからね。
朝廷からも幕府からもああだこうだと言われているんだろうし。
そりゃあ、心労で元来弱い体に負担はかかるよね。
禁門の変のときには、寝込むほどの状態だった体に鞭を打って参内したと聞いたし…
聞くところによると、容保様は京都守護職辞職を願い出たものの、却下されてしまったそうだ。
禁門の変の後も、禁裏守衛総督・徳川慶喜様、京都所司代・松平定敬様と3人が交替で宿衛すること命じられたために、御所を離れることはできず。
御所
ところが、いざ黒谷へと思っていた矢先、やっぱり許可することはできない、しばらく延期してほしいとのお沙汰が下ったという。
藩士たちを御所の警護に当たらせ、何か有事のときにはすぐに駆けつけて詰めるので、黒谷へ戻らせてほしい。
もちろん、容保様の病状が思わしくないということも訴えたのだけれど…。
現状では黒谷に戻ることを諦め、今もこうして御所近くの上屋敷にいらっしゃるというわけなのだ。
頼りにされていると言えば聞こえはいいけど、何か諸々押し付けられてはいやしないだろうか…。
そもそもの話をすれば、京都守護職拝命そのものが“薪を背負って火に飛び込むようなもの”だと言うなら、貧乏くじもいいとこじゃない。
幕府は會津の
忠義心に厚い容保様が断れないのをいいことに…!
と、思ってしまうわたしは純真じゃないんです、はい。
まあ、孝明天皇が容保様にお側にいてほしいと仰るんだろうけどね。
そう仰られてしまっては、やるしかないでしょ。
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