11.恋の最初のまなざし(八)
手を引かれて縁側まで来た。
見上げれば、濃紺の夜空にぼんやりと光る春の月。
静か。
夜風がサワサワと木々を揺らす。
春の匂い。
トクン、トクンと。
胸が高鳴る。
なぜこんなにドキドキするの?
何でもないこと。
ドキドキするなんておかしい。
きっと静かすぎる春の夜のせいね。
まだ繋いだままの手。
わたしの心細さを感じて、離さないで握りしめてくれてるような気がして。
ぶっきらぼうな土方さんなりの優しさなのだと思った。
「ありがとう…ございます」
勘違いかもしれないけど、そう思ったら自然に感謝の気持ちが出た。
少しだけこちらに振り返る。
月影に染まる横顔。
息を吸って、何か話そうとしたけど、言いかけた言葉を飲み込んだ。
ためらっているみたい。
いつもはハッキリ言うのにね。
まるで正反対で様子が違うから、余計に気になってしまって。
「俺も人を斬る。だから…何も言ってやれねぇんだ」
悲しいけど、知ってる。
悲しいのに、不思議と涙は出なかった。
ふわりと鼻をかすめるいい香り。
「薔薇の匂い?」
大好きな香り。
「おい、どこに…?」
裸足のまま庭に出て、香りを発する花を探す。
今は春。
どうして気づかなかったんだろう。
存在を示すように、こんなにも香りを放っていたのに。
見つけた。
庭のいちばん奥。
現代の薔薇とは違って牡丹のような、芍薬のような。
西洋的なイメージの花が、江戸時代の日本にもあったとは驚きだ。
現代と同じように民家の庭にあるなんて。
「
薔薇の花に顔を近づけ、匂いをかいだ。
心が安らぐ。
自分の意思に反する緊張が和らいだ。
「花が好きか?」
「大好きです。薔薇の花がいちばん」
背の高い、白い木香薔薇に触れようと手を伸ばす。
「いたっ…」
まだズキズキと痛む傷口を右手で押えた。
「大丈夫か?」
こちらに駆け寄り、わたしの体を支える。
「あ…」
「無理するな。腕、ちょっと見せてみろ」
あ、笑った。
こんなに優しく笑うなんて意外。
「俺は医者じゃねぇが、薬屋だ」
前に沖田さんが言ってた。
土方さんは、実家で作る薬の行商をしていたことがあったって。
どうしていつも助けてくれるの?
何度この人の手に助けられたんだろう。
今日は優しい土方さんを目で追いながら、そんなことを思った。
「どうした?」
視線に気づかれて熱くなる。
わたしったら、やっぱりおかしい。
何で震えちゃうんだろう。
手が、体が震える。
心までもが震えてしまうの。
心地よい風に乗って、薔薇の香りが間を通る。
空気が薔薇色に染まった。
「俺に惚れたか?」
「えっ?な、何言って…るんですか…変なこと言わないで…」
涙のあとは。
胸の鼓動がとまらないの。
さっきよりも、どんどん速く。
息苦しいくらいよ。
どうしよう…
今日は月が明るい。
今にも炎を上げそうな赤い顔。
雲が流れて月を隠してくれればいい。
「さすがに今日は大人しいな」
今の土方さんにはいつもの近寄りがたさがない。
この人は“鬼”なんだろうか?
隊士たちに“鬼の副長”と呼ばれる人。
こんなに優しく笑うのに。
こんなに優しい空気を持っているのに。
少なくとも今は違う。
鬼じゃない。
そう思うのはこの雰囲気のせい?
それとも、わたしが弱ってるせい?
わたしの心が勝手にそう感じるだけ?
やわらかい月明かり。
薔薇の甘い香り。
穏かな春の夜風がそよぐ。
わたしの心が、勝手に…?
「…土方さんの好きな花は何ですか?」
「俺は梅が好きだ」
「ぴったりですね」
「ぴったり?」
なぜかって?
「花言葉って知ってます?」
「花言葉?」
「花の姿や色や香りから、ひとつひとつの花にあてはめられた言葉です」
「初めて聞いたな」
「直接言葉を交わさなくても、贈る相手に心を伝えられるんですよ」
風に揺れる薔薇の花。
「梅の花言葉は高潔、忠実、忍耐、それから、厳しい美しさ。厳しい冬の寒さの中で咲く花ですもんね」
にこっと笑って目を合わせる。
「薔薇は?」
「…愛」
「愛?」
「あなたを愛しています」
あつく心が燃えるような。
一途な感じが好き。
薔薇の花びらって1枚1枚がハートに見えるでしょ。
ハートが重なり合うように想いを重ねて。
この感覚。
この気持ち。
自分の意思とは裏腹に、ふるふるって心が揺れてしまうの。
どうしてここへ来たの?
どうしてわたしなの?
そんなの、もうどうだっていい。
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