07/ダイバー(1)
「ネットの――中?」
香奈恵はすっかり深めの寝息を立てていたが、起こさないよう声のトーンを落として由果は言う。
「そう、仮想空間内でソイツを追うんだ」
ククルはどこか楽しそうに、モニタの中から由果を誘っていた。画面いっぱいに何かソフトを起動させる。
「おばぁのトコは回線弱いし、病院も外部との接続は限ってるから、ここに来てからなんだ、こんなに自由に、広い世界に触れられたのって。
これなら、コイツのようにネット内でだけ現れるような魂と戦うこともできそうだし、それに将が仮想空間ブラウザとか色々持ってたから、もらってきた」
「ククル――南場さんとけっこう仲良くなってる?」
ククルはにやりと笑って由果を促す。
由果はデバイスを装着して座り直した。
ヘッドフォン型のその携帯デバイスの、ステー部分にある透明のプレートを下ろすと、丁度ゴーグルをつけたような格好になる。
起動した由果の携帯デバイスはプレートのほぼ全面にククルが開いていたブラウザソフトを映し出した。由果の視界もそれに占められる。
「それでククル――追えるの?」
由果が訝しげな問いを投げると、ククルは不敵に見える笑みを見せた。
「見てなって。
――同期接続開始。由果さんのデバイスから仮想空間への可視化開始――OK。
セキュリティ確認――」
ククルが案内してゆく声に合わせてウィンドゥが開いては閉じ、由果のモニタは表示する色を変えはじめた。
「仮想空間『なみはや』――接続っ」
接続した仮想空間は真っ暗だった。
静寂の中、由果の聴覚が最初に捉えたのはククルの声だった。
「まずは由果さん、自分のシンボル作ろうか。なくてもいいけど、あった方が解りやすいからな」
由果の目の前に小さなウィンドゥが現れた。
「う――うん」
由果は戸惑い、躊躇いながらもククルの指示に従って進める。
十数分ほどで暗闇にぽつんと、ややデフォルメされた、長めの髪の少女が現れた。瞳の印象と服装も由果によく似ている。
「お疲れさま、由果さん」
空間に浮かんでいるその足下にククルが姿を見せる。
「これ――私?」
由果の声と、その少女の細かくはない口の動きが同期していた。
「なかなか可愛いじゃないか。――さて」
ククルが顔で前方を示す。つられるように少女が顔を上げた途端――世界が広がった。
「まだまだ未成熟だけど、面白いだろ?」
由果――を模した少女のシンボルの前には、いわば街が生まれていた。
すぐ近くにあるのが『マイホーム』というタグ、あとは行政サービスの案内や、ショッピングサイトへのリンクが四方八方、上下にも伸びている。
由果たちの他に動いているのは広告タグくらいで、それも各所点在、というくらいのまばらな街ではあったが、由果のパソコンに表示され、携帯デバイスにも同期されて投影された空間は限りなく広がっているように、由果の視野いっぱいに映っていた。
「面白いっていうか――すごいね。こんなのやってるんだ」
「始めたばっかり、というか正式リリース前らしいからね、まだ。
ここは仮想空間『なみはや』――関西のサーバーが管理してる空間だよ。ここから、繋がってればどこでも行ける」
そう言ってから、ククルは「ただし」と由果を見上げる。
「見物したいかも知れないけど」
「わかってるさ」
ククルがひとつ頷くと、由果の手に『杖』が現れた。
南場に作ってもらった、落ちた『魂』に干渉できる道具だ。
「あれから将が少しイジってたけど、アップデートしておく?」
「何か変わったの?」
「安定性を上げた、とか言ってた。あと攻撃モードの干渉力を強くしたのと、新モードの追加だね」
「ふぅん、じゃあ、やっとこうね」
由果が言うと、ククルは「ほいきた」と後足立ちになり、前脚を杖に向かって掲げた。
杖に『更新をダウンロード中』というタグが貼り付いて待つこと十数秒、更新が完了してタグが消える。
真っ白な杖は、心なしかねじれた先端が大きくなったようにも見える。
杖を握って、何度か振り回してみて由果は感心した声をあげた。
「感度よくなってる? ケータイ通して使うのよりしっくりくる感じするけど」
「ここの方が『持ってる』感というか追従性は高いはずだよ。ま、触感から何から完全にリアルに感じようと思ったらやっぱり脳髄に電極挿さないと、だろうけどそんな技術はまだまだSFの世界だし、ね。
――行くよ?」
両腕で杖を抱いた由果が頷く。
ククルが自らの足下にウィンドゥを開いた。
四角い窓は黒々としたその中に次々に命令構文を表示し、窓の周囲に細かなタグが現れては消えてゆく。
「――ククル?」
由果の呼びかけにしばらく応じず、ククルはそのウィンドゥが落ち着いてから顔を上げた。
「偽装完了っ。侵入するよ――」
言って、ククルが一つのタグを蹴飛ばした。
ウィンドウが広がって由果とククルをその範囲に入れる。
「っぁ――きゃああああっっっ!」
由果とククルは、その窓の中に落ちた。
幸い、香奈恵が起きてくる様子はなかった。
「そんな騒がなくても。死にゃしないし」
「って、びっくりするさ、もう……」
呆れたように見上げるククルをひと睨みしてから、由果は戸惑いの修まりきっていない瞳で周囲を見渡した。
「ここは?」
深夜の駅のような場所だった。
駅ではないのは、線路も案内もないことから明らかだが、薄暗く細長い空間が地下鉄のホームを想起させる。
よく見ると壁の一面は棚になっている。
「とある企業の内部。表からは入れない所さ」
警戒を漂わせた調子でククルは続ける。
「その『霊障』――と思ってるヤツは何度かここに来てるんだ」
「あ――ニュースに出てたトコ?」
「そう。また来る可能性は極めて高いし、痕跡を探して追っかけることもできるからね」
由果はなるほど、と頷いて杖を握り直す。
「何度も来てるって、ここに何があるの?」
「そこまでは判ってないけど……」
と、ククルが由果を見上げて――もともと丸い目をさらに拡げた。
「由果さん、来たっ!」
ククルは緊張した調子で用意していたらしいプログラムを起動させると、二人の姿はすうっと闇に溶ける。
「えっ、なに何なにっ?」
由果がククルの視線の先を見て、息をのんだ。
青白い塊が現れていた。
ゆらゆらと動くそれは流線型の長身に、厚いヒレのある、海生生物を模している。
「い――イルカ?」
「シャチかも。どっちにしても、なかなか理に適った体だよな」
ククルは片足で、次のプログラムを呼び出していた。
「まさにネットの『海』を泳ぐ、とでも言うんだろ」
イルカかシャチを象ったようなそれは確かに、今まで由果が相対したり回収した『魂』とよく似た色合いをしていた。
「確かに『霊障』ぽいね。なんだか話し合えそうだけど……」
イルカは何かを探すようにウロウロと泳ぎ回っては棚を開けて嗅ぎ込み、閉じてまた別の場所を開ける、そんなことを繰り返している。
「逃げられないようにしてから、な――昨日逃げられたんだ、実は。
オレが足止めするから、由果さんが拘束して」
と、ククルは由果の持つ杖を示した。
「新モード『縛』で対処できる」
由果は無言で頷いた。
「行くよっ。せえの、っ!」
ククルがふたりを隠していたプログラムを終了させ、呼び出した次の一手を実行した。
大きく口を開けたククルから音にならない咆吼のような震動が発せられる。
イルカの体がぴくっと跳ねた。
イルカが、由果たちの方へ向きを変え、二人の姿を確認して威嚇するように口を動かす。ヒレが小刻みに動き始めた。
「解除されそうだ――由果さん、早くっ」
「! モード――『縛』っ!」
由果は宣言と同時に杖をイルカに向かって突き出した。
杖の先端がもこっ、と膨らんだかと思うとそれはすぐ、数十本はありそうな細い筋になって広がりはじめる。
『由果さん、狙いをきちっと指示するんだ』
由果の眼下にタグが現れた。
ククルが見上げて、目で頷いていた。
それに応えて、由果は踏み込んで先が網状になった杖を更に押し出す。
ククルのプログラムが効いているのか、イルカは何度か身じろぎするものの大きな動きを取る様子はない。
「あのコをっ!」
杖の真っ直ぐ先にいたイルカを示す。
途端に網は広がってその手を伸ばし、全方位からイルカに襲いかかった。
『わああっ!?』
イルカから発せられたのは、男の声だった。
◆◇◆◇◆◇
すっかり神妙になった様子で、イルカはふたりの前で大人しくしていた。
「それで、あなたはどんな事情というか、未練があってここに来てるの?」
拘束は完全に解いておらず、由果の持つ杖から伸びた網がイルカの尾を絡め取っている。
イルカは無言で、由果を見上げている。
「――言いたくない? 私たちはここのセキュリティじゃないし、あなたの力になれば、と思ってるんだけど」
『――何者?』
イルカの言葉はテキストタグではなく、音声として由果の耳に届いた。
「魂――って言っても解らないよね」
苦笑混じりで由果は言う。が、
『――ユタの関係?』
質問で返された言葉に、ふたりとも驚きを隠せない。
「知ってるの? あなた一体……なに?」
またしばらく考え込むように沈黙したあと、イルカは少し俯いた。
『以前……勤めてたのが沖縄にある工場だったんだ。今はもう、会社自体が潰れてしまってるけど』
「つぶれた工場って――まさか?」
イルカが由果を見上げる。
『株式会社グルース。ヘッドフォンデバイス関係の仕事をしてた』
由果が息をのむ。
「あの事故があったトコだよね……。そうだ、ねぇ、与那覇って人がいたのは知ってる?」
『いたと思うけど、直接関わったことは……ないな』
「そっか、そう……よね。そこまでできすぎなことなんてないよね」
由果は少しだけ伏し目になる。
「えっと、それで、あなたは?」
尋ねる由果に答えず、イルカも問いを投げる。
『その前に教えて欲しい。『落ちた』魂ってのはどうなるんだ?』
「さまよい続けるだろうね。放っておくと消滅するか、『悪いもの』の影響を受けて『霊障』となることもある。
肉体は肉体で衰弱する危険性も――って、アンタはその類じゃないのか? 見た感じ、おおもとの魂ぽいけど」
ククルが答えて、イルカは少し体を震わせた。
『そうかも知れない――自覚はないけど』
「あなたは、何の目的でここに来てるの?」
由果が再度訊く。
『俺は倒産した会社から売却された、デバイスに使ってるチップのデータを探してるんだ。この前ようやく、ここから一部が見つかった。全部そろえてチップの不具合を見つけ出さないと死んでも死に切れない』
「死――!? あなた、死んでしまってるの?」
『わからない。現実にはそうなのか――ずっと、戻れないでいる。自分の肉体がどこにあるのか、判らないんだ』
「「ええっ!?」」
由果とククルの声が重なった。
「詳しく聞かせて欲しい。今のアンタの状況――至った経緯とか、さっき言ってた『チップの不具合』とか」
ククルが詰め寄る。
『いいよ。ただ、その前に――』
イルカは頭を上下させた。
『いい加減この拘束、解いてくれないか? 逃げたりしないから』
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