03/霊障(1)

 夜になってもまだまだ暑かった。

 居候暮らしをしているマンションに帰った与那覇よなはあやは、無言であてがわれた自室に入った。

 2LDKの部屋中、明かりは点けっぱなしだったが、家主はいない。

 この時間はまだ店のはずだ。

 家主こと彩の遠縁の親戚である伊波いは清信せいしんは、マンションからほど近い場所で沖縄料理の店を営んでいる男だ。昼間はそれなりに店を手伝うこともある彩だが、夜は呼び出されるか気が向かないと行くことはない。

 彩の部屋は、細いクローゼットと低い机と本棚くらいしか目立つもののない、シンプルな内装だった。

 床はソフトフローリングの上にカーペットを敷いているが、それも毛足の短い地味なものだ。

 エアコンを叩き起こし、机に向かってリュックを投げる。狙い通りにそれは机の足下に着地して、彩は小さく拳を握った。

 セーラー服のスカーフを勢いよく抜く。

 こたつのような机の上にはノートパソコン。その横に折り目のない教科書が積まれている。ルーズリーフ用紙で綴じられたノートも、あまり使われている形跡はない。

 彩は、耳に架けていたヘッドフォン型デバイスのモニタを下ろして、ゴーグルのように目に合わせた。デバイスが起動して、モニタにアイコンが現れる。

 制服の脇を開けながら、パソコンも立ち上げる。

 脱ぎかけの格好で、携帯デバイスを無言で操作し続けると空中――彩のモニタの中に、杖のような細長いものが現れた。

 一方の端が魔法遣いの杖のように曲がり、黄色い珠を噛んでいる。

 その中程を緩く掴む。

 杖は彩の手に合わせて滑らかに動き、彩はその先端をパソコンの端子のひとつに合わせた。

「転送開始」

 彩が短く言うと杖の先――珠がほんのりと光り、パソコンのモニタに『転送中』と表示される。

 数十秒間の後、『転送完了しました』というメッセージとともに杖の光がおさまった。

 彩がデバイスの左ボディを操作すると杖が彩の視界から消える。

 安堵の息を長めに吐いて、彩はデバイスを装着したまま、セーラー服を脱いだ。

 下は紺のジャンパースカートになっていた。それも脱いでハンガーに掛け、靴下とシャツも無造作に脱ぎ捨てて、クローゼットからTシャツを出して器用に被る。

 まだ起伏の少ない細い肢体はよく日焼けしていて、少女の身体をいっそう引き締めて見せている。

 ぶかぶかのTシャツに素足で、彩はようやく腰を下ろした。

 部屋の隅の、畳んで積んだ布団に身を投げ出し、しばらく天井を眺めていたあと、勢いをつけて起き上がって机に寄って、耳のデバイスとパソコンをケーブルでつないだ。

 手慣れた操作でブラウザを立ち上げ、ブックマークのひとつを選ぶ。

 最大化されたブラウザは画面いっぱいに『与論ちむぐくる院』と書かれたサイトを開いた。そのメニューの中から彩は『バーチャルお見舞い』のバナーを指定する。

 ポップアップで現れた注意をすぐに消し、ログインIDとパスワードを迷わず入力して、彩が表示された次のメニューから『ニライカナイ』に進むと、画面は公園のような芝生に切り替わった。

 彩の生まれ故郷に似た蒼穹そうきゅうと、芝生の向こうには紺碧こんぺきの海が見える。デバイス越しに見るとリアルに立体的な空間になっているその奥へ彩はどんどん進んでゆく。

 その空間では、人だったり動物だったり、様々なものが思い思いの過ごし方をしているようだった。人型のアバター同士で何か喋り合っていたり、何かを模したものが遊んでいたりと、見ているだけでも色々だ。

 それらを無視して、彩は奥へ奥へと更に行く。

 周囲の風景が変わり、ゆるやかな勾配を登っていった先に、小さな扉の付いた小屋があった。

 扉に『この先は関係者以外アクセスできません』というタグが現れる。

 それを横目に、彩は小屋の脇へ回る。

 小屋の横へ行くと、慣れた様子で手を伸ばし、壁を叩く。

 その間にもう片方の手は素早くパソコンとヘッドフォンデバイスを操作している。

 彩がもう一度壁を叩いた時――壁がすっと、細く開いた。

 人一人が通れそうなくらいの隙間が空く。

 ためらわずに彩がそこに入ると、隙間はすぐに閉じてしまった。

『面会時間はあと10分です』

 とメッセージが浮かぶがしかし、彩は焦ることなく小屋の中を探って次の入り口を出して進み、深部へ入ってゆく。


 そうやっていくつかの壁や扉を破った先に、その空間はあった。

 数メートル四方ほどの真四角な部屋で、彩が侵入した場所の他に出入り口らしいものはなく、彩がくぐった所もすぐに閉じられ、密室となる。

 部屋は落ち着いた基調の壁紙に囲まれ、現実の個室のように置かれた調度品も可愛らしいものだった。

「姉さんっ」

 彩が呼ぶと、無人に見えた部屋にぼっ、と人影が浮かんだ。

 彩の顔に喜色が浮かぶ。

 人影は次第に鮮明になり、女性らしい姿を象ってゆく。

「彩」

 人影が、ややエコーがかった声を発した。

 滑らかな髪を肩でそろえた、細身の娘だった。

 眼の雰囲気が彩とよく似ているが、あまり健康的には見えない痩せかたと目の下に薄い隈がある。

「姉さん、ひとつ――取ってきたよ」

 彩がそう言ってパソコンを操作すると、部屋に杖が現れた。

 そこからぼうっ、と青白い靄の塊が抜け出し、二人の間に浮かび上がった。

「あぁ――ありがとう。

 彩はいい子ね、偉いわ」

 と、娘が手を伸ばす。もう片方の手で現れた靄珠を取るとそれは娘の中にすうっ、と消えていった。

 彩のモニタの中では画面から出た娘――彩の姉の手が、彩の頭上に届いていた。

 姉の肘が左右に小さく動く。

 彩に触感はないが、頭を撫でられていた。

 にへ、と彩の頬が緩む。

 年相応の笑顔になった彩と姉の間にメッセージタグが浮かんだ。

『面会時間終了です。ログオフしてください』

「ああもうっ!」

 彩がそのタグを叩き消すと、姉も笑う。

「――来てくれて嬉しいさぁ、彩。

 でも、まだ足りない……もっともっと、必要だわ」

 姉の声には、切実な願いが詰まっていた。

「うん。わかってる。

 まだまだ集めるから」

 彩に、耳障りな警告が届く。

『面会時間終了です。またご利用下さい』

 再度表示され、彩は姉に呼びかけた。

「また、また来るから……っ」

 姉は優しげに微笑んでいた。

「いい子ね、彩は」

 それがこの日、彩が最後に聞いた姉の声だった。

『ログオフします』

 接続は半ば強引に切断され、パソコンの画面は病院のトップページに戻される。

姉さんねーねー……」

 溜息をこぼして、しばらく彩はパソコンを寂しそうに見つめていたが、のろのろと操作を再開する。

 ブラウザは動画サイトに移動した。

 しかし、彩がネットサーフィンを続けようとしたところで、ヘッドフォンが細かく震える。

 デバイスのモニタの中央に『着信 おじさんの店』と出る。

 彩は数コール置いてから、通話ボタンを押した。

『おぅ、メシ食ってないだろ、作ってやるからこっちまで来い』

 電話に出るなり、清信の低い声が響いた。

「ん……いらない」

『つれないなあ。いいから来いよ。

 会心ののタコライス、食わせてやるさぁ』

 強引な物言いが彩を押す。

「そう言って、店手伝わす気でしょ」

 同居をはじめて数ヶ月程度だが、こうやって呼ばれることは今まででもちょくちょくある。この男の言い様も毎日ではないが毎度のことだ。

 しかし、清信の誘いを後押しするように、彩のお腹がきゅぅっ、と縮こまった。

「――わかった。行くさ」

 短く言うと、電話の向こうで清信が笑った。

『そうそう、素直なのが一番さぁ。

 で、彩は今どこだ?』

「家」

『おっ、それなら一つ頼まれてくれ。

 俺の部屋にさ、去年のエイサー録ったビデオがあるんさぁ。そいつを持ってきてくれたら、デザートもつけてやる。なっ』

 彩の返事を待たずに通話は切れた。

 彩は『通話終了しました』のメッセージを閉じずにしばらく眺めていたが、タグが自動で消えると肩を少し落として、ケーブルを抜いた。

 パソコンの電源を落として立ち上がる。デバイスもモニタを上げて一旦閉じて、耳から首に下ろす。

「あー……何

 気怠げに後頭部を掻きながら、クローゼットに向かった。

 大阪の高校に入学してからも友人は皆無に等しく、制服以外に私服はほとんど持っていない。さきほど着替えたTシャツも、清信のお下がりだ。


 ――十数分後、彩はタンクトップにサマージャケットを羽織り、下はスパッツとショートパンツを重ねて穿いて、サンダルをつっかけてマンションを出た。

 手には、年号と『エイサー』とだけが荒めの字で書かれたディスクがあった。


◆◇◆◇◆◇


 由果が元の場所に戻ると、『魂落ちマブイオチ』になっていた女性の姿はなかった。

 しばらく探し回って見つからず、何人かに聞いて、どうやらふらつきながらも歩いて去っていったらしいと判るまで結構な時間を要してしまい、探すのを諦めた頃にはもうすっかり遅くなっていた。

 行こうとしていた家電量販店も閉まっており、結局由果はそのまま地下鉄に乗って帰路についた。

「まあ――さっきの子が戻したのかも知れないし、自然に戻ったのかも知れないさ。歩いて帰れた、ってなら――ぼけっとすることが増えるだろうけど、大丈夫かも」

 シートに深く座った由果に、ククルがフォローのように言う。

「由果さんがそこまで、責任を感じることじゃないとも思うよ」

「うん……ありがとう、ククル」

 小声で言う。

 由果のデバイスからは見えて、動いて、会話できるククルも他人からは見えないはずだ。一人でブツブツ言っているように見えなくもない。

 難波からひと駅で乗り換え、また違う地下鉄に乗る。

 堺筋線は阪急へ乗り入れしているから、これで自宅最寄りの相川まで座ったままだ。

「それにしてもあの子……」

 ククルは、シートではなく由果の正面に座った。首を傾げて由果を覗き込む。

 乗客は少ない。

「由果さん、名前言ってたけど、知ってる子だった?」

「そんな気がしたけど――まさか。

 あの子は沖縄よ」

「こっちに来た、とか? 確かに言葉はあっちのだったよな」

 短い台詞を――怒気はらみの声が再生される。

 デバイスのモニタには画像まで表示された。ククルが保存していたらしい。

「やっぱり、彩ちゃんに見える」

 由果は記憶の糸をたぐるように窓の向こう、まだ地下なので闇を見つめて言う。

「与那覇、彩。その子の姉にみおって子がいて、同級生だったの」

「与那覇――澪、っ!?」

 ククルが目をいっぱいに開いて飛び上がった。

「知ってるの?」

 ククルの反応に由果も目を丸くする。

睦美むつみさんの、つまり俺たちの患者だったんだ」

 今度は由果が驚く番だった。

「澪が!?

 そっか、のあと――そんな所に行ってたんだ」

 声を大きくしてしまい、慌てて由果は周囲を見回して電話のフリでごまかした。

「知らなかった……お母さん、病院に籠もりっきりでほとんど連絡くれなかったし、私は私でこんな――カミグトゥはじめるし……」

 ククルは腰を下ろして由果を見上げた。

「それで、澪はどうなったの?」

「睦美さんがあんな事になった時点ではまだ、入院中だ」

 夜の街の灯りが流れて見えだし、電車が地上に出たことを静かに表した。

「そう言われると確かに、似てるかな……」

 ククルは写真を引っ張り寄せてまじまじと見る。

「入院中、なんだ……」

 由果の瞳が沈む。

「澪の妹だったとはな……」

 ククルも考え事のように視線を漂わせる。

 由果は画面に残っていた写真を見直した。

「四つぐらい下だったはず。

 そうだ、ククル――」

 電車は降りる駅に近付いていた。

 ククルが由果を見る。

「あの子――たぶん彩ちゃんと思うけど、あの子が持ってた杖みたいなのって、何?

 それにマブイ見れてたみたいだし……」

「ああ。見て持ってたし、あの杖ものもののようだった」

 相川駅で電車を降りる。

 自宅へ向かう途中も、繁華街ほどではないがモニタには情報タグが時々現れる。ククルがそれを弄ぶのを見て、由果に少し笑みがこぼれた。

「こっち側で、視覚化されたデータに触れられるもの、か……」

 こんな風に、とタグを蹴飛ばす。

 由果は吹き出して、

「ククルみたいなアプリがあるのかな」

 モニタの視界内に手を入れて、ククルを指差す。

 マンションに着いた。

 ククルが走って行き、何事か自動ドアの根本をごそごそとやっていると、自動ドアが開いた。

「――そんなことできるの?」

「言ったろ? 電気的に自由だって。

 あれは霊障を起こす魂だけのことじゃなくて、俺もアプリケーションも含めて、電脳内でどれだけ他者に干渉できるか、ということだよ。

 もっとも、セキュリティもあるから、由果さんが今すぐそこから操作してもこんなことはできないだろうし、何かのエラーで操作できてしまう、なんてこともまずないとは思うけどね」

「う~ん――なんとなく解った気がするけど……。

 魂にしてもククルにしても、人が操作するより遙かに自由にコンピューター制御のものに干渉できる、ってこと?」

「おおむね正解」

 ククルはぐわっ、と笑って由果を促した。

 由果はエントランスに入り、一応のように郵便物を確認してからオートロックの扉をくぐる。

「じゃあ、彩ちゃんが持ってた杖もそんなのなのかな。

 それか、対マブイ用の道具とか……」

「そんなのを持つ理由が判らないよ」

 それに、この『魂視』ってお母さんが作ったんじゃないの? そんな、出回るようなものだワケ?」

「それはない。

 けど――そうか、あの子が澪の妹なら、澪からもらったのかも」

 部屋に入る。

 明かりを点け、バッグを下ろして、小さな溜息をこぼした。

「澪が?」

「頭のいい子だよ、彼女。

 そう考えるのが一番、手っ取り早いんじゃないかな」

「何のために?」

「さあ」

 ククルは肩をすくめた。

「あの子、なんだか怒ってたけど、由果さんは心当たりある?」

「ううん……わかんない」

 由果はデバイスをそのままパソコンに繋ぐ。

 十秒ほどで移動したククルがパソコンのモニタに現れた。

「ちゃんと話、したいね」

 画面に伸ばした由果の指先がククルに触れる。

「ククル、あんな――あの杖みたいなアプリなんて、まさかネットにあったりしない、よね?」

「う~ん……探してみてもいいけど、ないだろうね。

 まず『魂視』がないと落ちた魂を見られないはず。

 見られないことには、あんな風に拾ったり取ったりなんてこともできないし、データのやりとりに使うにしては大仰だし――ね。

 自作かも知れないね。澪が作ったとしても――アリだと思う。アレにどれだけの能力があるのか判らないから何とも言えないけど」

 ククルはブラウザを開けて覗き込み、「一応、あとで探してみるさ」と由果に向き直って続ける。

「それもそうだけどさ、由果さん。コイツに3D投影を――」

「そう思って、電気屋行ってみようと思ったんだけどね」

 由果は飲みかけだったペットボトルのジャスミンティーを一気に空けた。

「明日、講義もないしバイトもないし、日本橋に行こう、うん」

 日付が変わろうとしていた。

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