01/由果(1)

 二〇二×年、大阪――



 夜も遅いめの、日付の変わりそうな時間で、駅のホームは閑散としていた。

 安里あさと由果ゆかはショップロゴの入った大きめの買い物袋を手に提げ、ワンショルダーの楕円のバッグを肩から斜めに架けて、ホームの端に向かって歩いていた。

 この日は、友人と買い物で梅田に来ていた。

 買い物・食事・カラオケという黄金パターンののち、阪急梅田駅で一人になった由果は多少の疲れが出たか小さな欠伸をこぼす。

 改札付近はともかく、京都線のホームはじょじょに人が少なくなってゆく。

 由果は茶屋町口へ降りる階段近くのベンチで腰を下ろし、一息ついて肩を落とした。

 梅雨も明け、そろそろ本格的な夏到来を予感させる、日が暮れてもなお暑い夜だった。

 うだるような湿気高さはじゃっかん和らいだものの、じわりと汗のにじんでくる程気温はまだ高い。

 荷物を膝の上に置いた由果は、風通しの良さそうな七分袖のカーディガンを扇いで中に風を送る。長めの髪がふわりとなびき、ボーダー柄のインナーがはためく。

 膝上のスカートといい生足にミュールといい、いかにも夏らしい格好だったが、それでも熱気は容赦なくまとわりついて離れようとしない。

 大阪で暮らし始めてから一年と数ヶ月過ぎた由果だが、故郷とは質の違う暑気にはいまだに慣れられていない。

 電車や人混みはいくらか平気にはなってきているものの、季節の変化にはまだまだだった。

 由果は、ベンチでもうひとつ溜息をこぼし、買い物袋を脚の間に挟むように置き直して、バッグからヘッドフォン状のものを出した。

 コンパクトに畳まれたそれを広げる。まさにヘッドフォンのようだったが、単なるヘッドフォンにしてはボディ部分が大きく、中程がメッシュ構造になっている。

 由果はそれを耳につけ、アーム部分に付いている透明のプレートをくいっと下ろした。

 プレートは由果の目の前で固定されると同時に、その隅に数個のアイコンを表示し、駅構内の光景と重なりはじめる。

 数秒の間を置いて透明のプレート――モニタに、また別のものが現れる。

 目の前のホームに来る予定の電車の発車時刻だとか、現在の気温といった情報だった。

 うわ、と下唇の両端を下げてげんなりとした表情をつくり、由果は気温のタグを消す。

「数字で見たら余計に暑いよぉ……」

 と呟きを漏らし、ふと顔を上げた時に由果は歩いてきていた男に気が付いた。

 由果と同じようにヘッドフォンを耳に架け、両目の前にモニタプレートがある。

 由果はあまり気に留めずに、自分のモニタに視線を戻してメールボックスを起動させた。

 男のものはボディの形状からして、同機種のようだった。

 男は由果の座っているベンチの近くで立ち止まる。

 由果より背の高そうで、痩せ形のその男はモニタに集中していた。Tシャツとカーゴパンツという格好で、小型のディパックを背負っている。

 整った、綺麗な顔立ち――とは言えないが、それなりにバランスの佳い目鼻立ちだった。

 電車到着のアナウンスがホームに響く。

 同時に由果のデバイスのモニタに現れた『電車が来ます』というメッセージを見て、由果は腰を浮かせた。

 男が再び、由果の視界に入る。

 同じデバイスに気付いて、瞳に関心が混じったのち、ふと男の様子が引っかかって見直し、それから目を丸くした。

 男の体がふらついていた。

 何か音楽にのっている雰囲気ではなく、小刻みに震えていた。

 血の気がすっかり失せた顔で目は閉じ、口は呆けたように半開きになっている。

 体を揺れが大きくなってきた男は急に、力を失ったようにがくっと膝を落とし、バランスを崩して倒れ込みそうになった。

 線路側に男性の体がふらりと傾く。

 電車が警笛を鳴らして入ってくる。

「ああっ、危ないっ!」

 由果は叫んで、荷物をベンチに残したまま咄嗟に男性の腰に飛びついて引き戻し、横に体を捻った。

 勢いで二人そろってホーム側に倒れ込む。

 まだかなりのスピードで入ってきた電車が二人のすぐ隣を、轟音と共に通ってゆく。

「だ、大丈夫ですか!?」

 由果が男に声をかけるが、反応がない。

 入ってきた電車からちらほらと人が出てくるが、由果と男の様子に足を止める者はいない。

 何かの動画が再生されていた様子の、男の装けているデバイスのモニタを頭上に戻し、由果は男を降り口の壁に寄せようと引っ張る。

 先刻引き戻せたのが不思議なくらいに男の体重が由果に乗って、そんなに幅のない距離を動かすのに数分かかってしまった。

 その間も男はぐったりしたまま、動かない。

「大丈夫ですかっ!」

 もう一度由果が男のヘッドフォンを首元にずらして声を上げるとようやく、男は目を開けた。

「ん……あ?」

 焦点の定まらない瞳で由果を見つめ、虚ろな声を漏らす。

 その時、由果の脳裏に閃いたものがあった。

『声』が聞こえたような面持ちで周囲を見回し、ひと気がないのを見、口に手をやってある単語をこぼした。

だ……」


◆◇◆◇◆◇


 その日は昼間から、湿気の残った蒸し暑さだった。

 午後一番の講義を終えたばかりの由果は教室へ戻ろうとして後ろを振り返り、照明も空調もオフにされているのを見て取って、小さく肩をすくめた。

 由果は教室のすぐ傍のベンチに腰を下ろし、バッグからヘッドフォン状のデバイスを取り出して、それを広げてしっかりと装着して、アームの上につながっている透明のモニタプレートをくっ、と眼前に下ろした。

 横長のモニタはそれなりの解像度がある。

 デバイスが起動して、モニタの向こう――由果には見慣れた大学の構内の景色にアイコンが重なって表示されはじめた。

 左ボディのボタンをひとつ押すと、座った由果の腰辺り――空中にキーボードが投影される。

 由果はモニタに現れた構内の案内や大学からのお知らせなどを脇にやって、届いていた新着メールを開いた。

 メールは、友人からのものだった。

『講義終わったらサ店ー』

 小さく苦笑をこぼしてから由果はメールアプリを立ち上げ、空中に投影されたキーボードで『これから行くー』と短い返事を書いて送り、キーボードを消して立ち上がった。

 バッグを肘から下げ、由果はやや早足で目的地に向かう。

 相変わらずのぎらぎらした日差しが照りつけ、由果の眼前のモニタには『現在の気温 30℃』というタグが浮かび、由果は即行でそのタグを消した。



 ――二〇一〇年前半に国際規格で始まった第四世代移動体通信システムは順調に進化を遂げ、二〇二〇年代には第五世代へ移行していった。

 通信速度も容量も二十一世紀初頭からは桁違いの数値になり、それに合わせるように携帯デバイスの発展も著しく、情報量はますます大きくなっていた。

 そんな中登場した、ヘッドフォンに小型モニタを取り付けた形状の装着型コンピュータがその機能やスペックの向上、対応アプリケーションの充実などで人気を伸ばし、初期モデルの名を取って『Ph―D』規格と呼ばれるそれは数種の亜種も生み、じわじわと利用者を増やしていった。

 今や通行人で『Ph―D』系デバイスを装着した者を見ることも少なくない。

 由果の装けているものも、そのひとつだ。

 透明のモニタは現実に情報を付加して表示したり、アプリケーションでそのモニタ内やネットの中でのみ表示されるものを映し出す。

 勿論、移動体通信だけでなくコンピュータネットワークそのものも日進月歩の拡がりを続け、電脳空間内に仮想都市が生まれ、その機能を強めてゆき、買い物や行政サービスのほとんどをネットだけで済ますことも容易になっている。

 個人用のコンピュータも格段に性能は伸び、二〇一〇年代半ばに出た3Dモニタがハイスペック化と低価格化で一気に普及をはじめ、仮想空間とその中のものはより一層、現実との境界を曖昧にしていった。


 そんな時代。

 それでも、人の営みは変わらず、『仮想』が『現実』に取って代わることはなく、世界は機能している――



 由果が通っている大学には、学食が三つある。

 通称『A食』『B食』『サ店』と学生達に呼ばれている三つの食堂は並んで建てられていて、昼食時以外でも学生で賑わっている。

 その『サ店』こと学生食堂C・喫茶室の入り口で由果は、中を見回そうとしてすぐに声をかけられた。

「由果ぁ~」

 テーブルの一つに陣取っている娘が手を振る。

「佳子っ」

 由果は笑顔を浮かべ、モニタを頭上に戻してそのテーブルに駆け寄った。

 テーブルには、由果が大学に入ってから知り合った二人がそろってアイスカフェラテを囲んでいた。

「お疲れ、由果」

 声をかけた娘は片野かたの佳子けいこという。

 一六〇センチの由果より更に小柄な佳子が元気溢れる仕草で立ち上がって、由果と手を合わせた。佳子のくせ毛がぴょんと跳ねる。

「新製品?」

 由果が二人のカップを見て言うと、もう一人――有間ありま香奈恵かなえが軽く頷いた。

 こちらは由果よりやや高いくらいの背丈で、ふっくらとした体つきをしている。

「今日から、やて。由果も飲む?」

 香奈恵の誘いに乗って、由果はバッグから財布だけを出して「取ってくる」と食堂のカウンターに向かった。

 数分でテーブルに戻り、耳につけたままだったデバイスを首元に下ろして、由果はようやく腰を落ち着けた。

 喫茶室の中は昼を過ぎても冷房が効き、快適だった。

 昼下がりのお喋りを三人でしている中、香奈恵がふと話題を変えた。

「夏休み、どこか行かん?」

 大学のカリキュラムはそろそろ前期日程の終了を迎え、試験を経て夏休みに入ろうとしている。

「三人で? ウチは家の手伝いどうにかしたら行けると思うよ」

 と佳子。佳子の家はお好み焼きの店をっていて、佳子も時々手伝いをしている。

 看板娘である。

「私もバイト調整したら……でも、どこに?」

「避暑地、涼しいトコ――南アルプスとかどう?」

 数秒の間の後、由果の眉が寄る。

「あ……山はやめたほうがいい、かも」

「ん?『』あった?」

 由果の言をいぶかしむ様子は薄く、香奈恵がそう言って首を傾げた。

 小さく頷く由果の眼は、どこか遠くに意識を向けている様子だった。

「そっかぁ、そやったらちょっと、考え直しかなぁ」

 苦笑する香奈恵に、佳子も同意する。

「由果のんは当たるもんなぁ。

 ユタ、やったっけ?」

「まだ全然、修行中だよ」

 由果はどこか困ったように、首に回したデバイスを弄る。

 高校まで沖縄で暮らしていた由果が大阪の大学を受験し、入学と同時期に大阪での一人暮らしを始めたのは一年と少し前のことだ。

 言葉にも周囲にもまだ馴染めない頃の由果に親身になったのが佳子だった。

 学部学科が同じだったこともあり、由果は佳子に頼ることも多く、そんな由果が佳子に打ち明けたのが『ユタ』のことだった。



『ユタ』は沖縄に古くからいる霊媒師で、内地で云う『巫女』に近い。

 琉球王朝が定めた祝女ノロと違い、民間・市井で様々な相談事を受ける。

 ただし、誰でもなれるものではない。

 いわゆる『霊感』とも云える能力の高い者、さらにその中でも神から役割を司らされた者に力が宿り、ユタとなる。

 由果も幼い頃からそんな、他人には聞こえない声を聞いたり、何かの姿を見たりすることがあった。

 その感覚はやがて由果に、ひとつの兆候をもたらした。


 それを『神垂れカンダーリィ』という。


 巫病ふびょうである。

 これにかかり、熱病のように浮かされ、生死の境を彷徨って神の声に触れる、ユタの通過儀礼だ。

 その声や他の(先達の)ユタのアドバイスをもとに、巫病に罹った者は『御嶽うたき』や自分の祖先や関わりのある地を巡り、『祈りウグヮン』を修めてゆくことで『神垂れ』は治まってゆき、最初はただのノイズのようだった神の声は次第にはっきりと聴けるようになる。

 これを『カミグトゥ』と云い、『カミグトゥ』を経てユタとなる。


 由果はまだこの『カミグトゥ』の途上にある。

 つまりは、ユタとしての修行中だ。

 時折、強い巫病に襲われることも、常人の聞くことのできない『声』を聞くこともある。

 この声のことを『シラシ』という。

 報せ、あるいは予感、そういう声だ。


 また、由果の祖母は現役のユタだ。

 今も、沖縄本島でユタ稼業を営んでいる。

 その祖母の助言もあり、由果はこうして大阪でキャンパスライフを送っている。

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