「胸の奥にひっかかる違和感はなんですか?」
時間を忘れて愛し合っているうちに、すっかり日は暮れてしまい、気がつくとベッドサイドテーブルの時計は8時近くを示していた。
「ヤバい。そろそろ準備しないと、レストランの予約の時間になっちまう」
「そうですね。おなかすきましたね」
ベッドから起き上がったわたしたちは、急いで服を着て支度を整え、部屋を出た。
緩やかに弧を描いた廊下を歩き、天井の高いエントランスを横切ると、片側一面に大きな窓の連なるホテルレストランに着く。
黒いスーツを着たコンシェルジュに、眺めのいい窓際の席に案内される。
もう、夕食のピークは過ぎているはずなのに、ホールはまだまだ食事中の人が多く、混雑していて、食器とカトラリーのふれあう音や話し声で賑わっていた。
「もう秋も終わりとはいえ、休日はやっぱり人が多いな」
テーブルに置かれたキャンドルの灯りが、頬杖をついてホールの人混みを見つめるヨシキさんを、仄かに照らす。
「そうですね」
わたしは、窓の外に目をやった。
日のあるうちだったら見えるはずの富士山も芦ノ湖も、すっかり闇に包まれている。
代わりに窓に映っているのは、キャンドルの灯りにぼんやりと浮かんだヨシキさんの姿。
ヨシキさんとふたりだけのディナーは、もちろん楽しかった。
フレンチのフルコースは、どの料理も綺麗に盛りつけされて美味しいし、ヨシキさんは次から次へと話題を引っ張りだしてきては、わたしを楽しませてくれる。
『今夜は誕生日だから』と、ヨシキさんがとってくれたフルボトルの赤ワインは、ボディがしっかりしていて香りも芳醇で、飲み応えがある。
フワフワとたのしい気持ち。
わたしたちは何度もグラスを合わせ、夏に山口のリゾートホテルへ行ったときのように、お酒と料理と会話を楽しんだ。
だけど、、、
なんだろう?
小さなささくれのように、胸の奥にひっかかっている、この違和感。。。
「う… ん」
今、何時?
夜中にふと目が醒めたわたしは、ベッドサイドテーブルの時計に目をやった。
暗闇のなかで、青く冷たいデジタルの文字が、『2:39』と浮かび上がってるだけで、あたりはすっかり静まり返っている。
わたしは隣を見た。
静かな寝息をたて、はだかのヨシキさんが眠ってる。
カーテン越しに入ってくるかすかな月の光が、瞳を閉じた端正な横顔に、淡い陰影を投げかけてる。
そんなヨシキさんの寝顔を、わたしはしばらく見つめていた。
、、、なんだか眠れない。
何度も寝返りをうっていたわたしは、ベッドから這い出し、素肌にガウンを纏うと窓辺に歩み寄った。
毛足の長い
雑音のない世界。
そういえば今日一日、携帯も鳴ることはなかった。
それもそのはず。
忘れたフリをして、わたしは敢えて、携帯を家に置いてきたんだから。
誕生日記念のこの旅行だけは、つまらない雑音を入れたくなかった。
ヨシキさんとふたりだけの時間を、だれからも邪魔されたくなかった。
だけど、母にはなんと言って出かければいいだろう。
口実が見つからない。
以前、優花さんにはつっけんどんな態度をとってしまったから、アリバイをお願いするのも
かと言って、他に頼める人もいないし、、、
『これからは、わたしには嘘をつかないでちょうだい』
前の山口旅行が、ヨシキさんと行ったものだとバレたとき、母はそう釘を刺した。
だけど、『ヨシキさんと箱根に泊まりがけで行ってくる』だなんて、正直には言えない。
『あなたはもう、充分に自分で判断できる歳なんだから、好きにすればいいわ』
と、あのときは宣告されたものの、いざとなれば、ダメだと言われるに決まってる。
ギリギリまで、わたしは箱根旅行のことは、母に切り出せなかった。
「あ。今日は泊まってきます。明日の夜、門限までには帰ります」
今朝、家を出るとき、見送ってくれた母に、まるでなにかのついでのように、わたしは玄関先で早口で告げた。
一瞬、ぎくりとしたように、母は目を見開いてわたしを見つめた。
『どこに行くの?』
『だれと泊まるの?』
と、根掘り葉掘り訊かれるのを覚悟して、わたしは言い訳やアリバイの台詞を心のなかで繰り返しつつ、その場から逃げるように、そそくさと玄関の引き戸に手をかけた。
「…そう。気をつけてね。いってらっしゃい」
意外にも、母は詮索してこなかった。
すぐに、いつもの澄ました表情に戻って、部活にでも送り出すようにひとことだけ答え、わたしの背中を見送ってくれた。
なんだかすかされたようで、逆に不安になる。
勘のいい母のことだから、今回のお泊まりも彼氏といっしょだって、もう気づいてるかもしれない。
じゃあどうして、なにも訊かないの?
わたしのこと、怒らないの?
どうしてそうやって、スルーできるの?
あのセリフは、ただの脅しじゃなくて、本気だったの?
カーテンを少しだけ開き、わたしは外の景色をうかがった。
漆黒の闇と、静寂。
じっと見つめてると、心がざわつく。
なんだろう、、、
この、焦燥感。
こうしてひとりでいると、不安で押し潰されそうになる。
気持ちを切り替えようと思い、わたしはチェストに置いてあった部屋のキーをポケットに入れ、そのままの格好で靴を履き、ドアノブに手をかけた。
つづく
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