最終話 幼馴染みに初めてを奪われた騎士は
東に連なる山影から眩い朝陽が世界を照らす。
剥き出しの土の道はやがて砂利道に変わり、道の左右に広がる景色も寒々とした荒野から穏やかな田園風景へと変わっていた。
外套の立襟を掻き集め、ぶるりと身を震わせると、セルジュは馬の脚を止め、前方に広がる針葉樹の森をみつめた。
デュラン王国の北に位置する国境の地マイヤールは、隣国テレジアの侵攻からデュラン本土を守る国防の要となる土地だ。この領地を国王より授かったマイヤール辺境伯の名は非常に誉れ高いものではあるが、その責任の重圧は計り知れない。
デュラン王国の爵位は基本男系の世襲制ではあるが、現在のマイヤール辺境伯であるコランタン・マイヤールには息子がいない。しかしながら、これまでの功労から特例が認められ、一人娘であるコレットが次期マイヤール辺境伯を継ぐことに決められていた。
近い将来、コレットはあの細い肩にマイヤール辺境伯としての重責を担うことになる。少年の頃、セルジュはそんな彼女を側で支える存在になりたくて、右手に剣を、左手に彼女の儚い手を取ったのだ。
今更、何処の馬の骨ともわからない相手にコレットを奪われてなるものか。
マイヤール辺境伯邸へと続く道はふたつある。ひとつは邸の前庭へと続く広々とした舗装された道、もうひとつは針葉樹の森を突っ切る邸の裏手へと繋がる道だ。
不本意とはいえ一度婚約を解消したセルジュを、愛娘であるコレットを穢した男を、マイヤール辺境伯がすんなりと邸に招き入れるとは到底考えられない。
可能性があるとすれば、それは……。
針葉樹の森の向こう、マイヤール邸の方角を望み、ぐっと気を引き締めると、セルジュは馬の手綱を引き、森の小径へと馬を走らせた。
すっかり陽が高くなった頃、樹々の合間にマイヤール邸の庭が見えた。
広々とした前庭には、マイヤール家のものではない見慣れない紋章を掲げた馬車が停まっていた。おそらく縁談の相手とやらが、先に到着したのだろう。
針葉樹の小径を抜けて邸の裏手に馬を停めると、セルジュは邸の裏口へと向かい、逸る思いで扉を叩いた。
ややあって扉が開き、栗色の髪を後ろで纏めた若い女中が顔を出した。一晩中馬で荒野を駆けてくたびれた姿のセルジュを見ると、女中は露骨に顔を顰め、扉を半分閉めて言った。
「どちら様でしょうか」
「ヴァレス家のセルジュだ。執事のクレマンに取り次いでくれ」
間髪入れずにセルジュが言うと、女中は一瞬驚いて、それから少し逡巡して、「そこでお待ちください」とセルジュに告げて、邸の中に戻って行った。
女中がクレマンを連れて戻るまでの、その一秒一秒ですら惜しいほどだった。焦れたセルジュが軍靴の底で地面を叩き、コツコツと拍子を取り始めた頃、軋んだ音を立てて再び扉が開かれた。
顔を出した灰色の髪の初老の男は、深々と刻まれた皺と見分けが付かない細い目でセルジュを見上げると、髭に隠れた口の端をほんの少し釣り上げて恭しく口を開いた。
「これはこれはセルジュ様、ご立派になられて」
この初老の男——クレマンは七年以上前からマイヤール家に仕える執事だ。マイヤール辺境伯とその家族に絶対の忠誠を捧げており、コレットを孫娘のように可愛がっている。誰よりも近くでコレットを見守り続けているこの男ならば、コレットが今もセルジュを想い続けていることを知っているに違いない。
「世辞はいい。察しの良いお前のことだから、俺が何を言わんとするかは既にお見通しだろう」
「ええ、ええ、わかりますとも。ですが、旦那様はお許しにならないかと」
「わかっている。だからお前に頼むんだ。コレットのことを孫娘のように可愛がっていたお前なら、俺にちからを貸してくれるだろう?」
苦渋に顔を歪ませてセルジュが告げる。目元の皺をさらに深く刻み、僅かのあいだ黙り込むと、クレマンは訝しむようにセルジュの顔を覗き込み、念を押すように声を凄ませた。
「……本当に、お任せしても宜しいのですね?」
「ああ、今度こそ大丈夫だ」
深く、大きく頷いてみせる。
セルジュの顔をじっくりと注視して、それからゆっくりと頷くと、クレマンは傍で様子を窺っていた先ほどの女中に言い付けた。
「ジョゼ、ヴァレス様をコレット様のところへ案内しなさい」
「え? ですが、コレット様は今……」
「構いません。お叱りは私が受けます」
にこやかにそう告げて、クレマンが振り返る。
「感謝する、クレマン」
「
そう言って深々と頭を下げて、クレマンは扉を開き、セルジュを邸内へと招き入れた。
度々後方を振り返りながら先を行く栗色の髪の女中を追って、セルジュは七年ぶりにマイヤール邸の廊下を踏み締めた。
***
何もかもが昔と変わらない。マイヤール邸は今も、コレットとの幸せな記憶に残るあの日のままだった。
ひとつ、ふたつと広間を抜けて、父がいつもマイヤール辺境伯と歓談していた応接室へと向かう。
硝子窓に細工が施された豪奢な扉を開き、室内に踏み込むと、セルジュは声を張り上げた。
「失礼します」
壁に飾られた幾つもの名画、立ち並ぶ書架、マントルピースの上には花瓶と燭台が並び、暖炉の周りをソファが囲む。
いつか見慣れた部屋の真ん中で、コレットのまんまるい榛色の瞳がセルジュの姿を映していた。
おそらく縁談の相手であろう向かいのソファに座る男は微動だにしない。
一人掛けのソファに身を沈めて葉巻の煙を燻らせていたマイヤール辺境伯は、意外な人物の登場に驚きを隠せない様子だった。
「セルジュ君か。見違えたよ。随分と久しぶりだな」
「お久しぶりです、マイヤール卿」
「すまないが、今は大切な話の最中でね。日を改めて出直してくれないか」
「いえ、今でなければ間に合いませんので」
皮肉に口を歪ませるマイヤール辺境伯に軽く頭を下げると、制止しようとする女中の声に耳を貸すこともなく、セルジュは堂々とコレットの前に進み出た。
「コレット」
跪き、薄い手袋に包まれた小さな手を取って。そして告げる。
「結婚してくれ」
コレットは応えなかった。
ただ呆然とつぶらな瞳を瞬かせて、セルジュと、その後ろのソファに掛ける人物を見比べていた。
誰もが無言で、暖炉の火が薪を焦がす音だけが微かに響く中、ようやく沈黙を破ったのは、聞き慣れた男の声だった。
「遅すぎますよ、セルジュ。
振り向くと、向かいのソファに腰掛けて、やれやれと肩を竦めるロランがいた。
「ロラン……? お前……ここで何を」
「見てわかりませんか。縁談です」
「……は?」
「私がコレットさんの縁談相手だと言っているんです」
「はぁ!?」
——道理で! 夜会当日から見かけないと思ったら、一足先にここへ向かっていたのか!
納得しつつセルジュがちらりとコレットに目を向けると、コレットはセルジュを見上げてふるふると首を振っていた。
どうやらコレットも、まさか縁談の相手がロランだとは思ってもいなかったようだ。
「それにしてもセルジュ、随分と酷い格好ですね。見た目だけで言えば完全に好感度マイナスです。淑女に結婚を申し出る服装だとは思えません」
よれよれの外套に皺の入った礼服姿のセルジュを指差して、ロランが愉快そうにくすりと笑う。
「ですがまあ、その必死さはプラス要素かもしれませんね」
最後にそう付け加えると、ロランはセルジュとコレットの手元を指差した。
釣られるようにセルジュが手元へ視線を向けると、さきほど手に取ったコレットの小さな手がしっかりとセルジュの手を握り返していた。
うつむいたコレットの頬が、ほんのりと紅く染まっている。
「……まあ、いいでしょう。なんとなくこうなることは予想出来ていましたし。マイヤール卿、申し訳ありませんが、この縁談は無かったことにしていただけますか」
「……いや、こちらこそ本当に申し訳ない。すぐに帰りの馬車を用意しよう」
外套を手に颯爽と席を立ったロランに続き、マイヤール辺境伯が席を立つ。
応接室を去る間際、扉の前で脚を止めると、マイヤール辺境伯はコレットを振り返って言った。
「コレット」
「はい」
「後で説明してもらうよ」
コレットがこくりと小さくうなずいてみせる。
マイヤール辺境伯が最後に見せたのは、それは穏やかな笑顔だった。
***
マイヤール辺境伯邸の庭園は、屋敷と同様、七年前の懐かしい景観を保っていた。
青々とした針葉樹が周りを囲む広大な庭に、剪定された植木で造られた迷路のような散歩道がある。幼い頃のセルジュとコレットが歓談に耽る父親たちを待つあいだ、多くの時間を過ごした思い出の場所だ。
あの頃と変わらない木漏れ日の溢れる散歩道を、セルジュはコレットと並んで歩いていた。
お互いに話すきっかけが掴めずに、奥へ奥へと迷路を進む。痺れを切らして先に口を開いたのはセルジュだった。
「……縁談の相手がロランだと、知っていたのか?」
ちらりと隣に目を向けて訊ねると、コレットはふるふると首を振って、セルジュの顔を見上げて言った。
「わたしもさっき知りました。セルジュさんとの婚約が解消されたなら、他の誰が相手でも変わらないと思っていたから、先方については全く調べていなくて……」
くりくりと愛らしい榛色の瞳が困惑に揺れている。
セルジュは改めて王城でのロランとコレットのやり取りを思い浮かべてみた。
言われてみれば、やたらとコレットに話し掛けたり、雑用で呼び出してふたりの時間を作ったり、ロランの言動には確かにそれらしいものが幾つもあった。
けれど、当のコレットはセルジュのことで頭がいっぱいで、ロランの行動の意味するところに全く気付いていなかったようだ。
「あいつも苦労したんだな……」
口元にふと笑みが浮かぶ。
セルジュは続けてもうひとつ、今度は少し緊張してコレットに訊ねた。
「どうして何も言わずに去ろうとしたんだ」
セルジュの問いを耳にして、コレットがぴたりと足を止める。
心地良い風が樹々の木の葉を揺らし、さわさわと涼やかな音を響かせた。
しばらくの沈黙のあと、コレットは顔をうつむかせて、ぽつりぽつりと呟いた。
「……あのとき、泣いてしまったから……です」
セルジュの眉間に皺が刻まれる。
一体それの何が問題なのか、セルジュにはまったく理解出来なかったからだ。
セルジュが黙り込んでいると、コレットは小首を傾げてセルジュを見上げ、両手を後ろ手に組んで微笑んだ。
「セルジュさんの優しさに付け入るような真似をして関係を持ってしまったから、もうそばにはいられないと思いました。一度関係を持ってしまえば、セルジュさんは責任を感じてしまうから。もう二度と、純粋に好きになってはもらえないって、そう思って……」
コレットが紡ぐ言葉は後悔を感じさせる切ないものだった。けれど、その言葉を耳にしながら、セルジュはまたしても困惑していた。
何か、決定的な何かが伝わっていない。そう思えてならないのだ。
「お前は、何か勘違いしてないか」
「え……?」
ようやく捻り出したセルジュの言葉に、コレットが目を瞬かせる。
セルジュは少し躊躇って、それから確かめるように、コレットに言い聞かせた。
「そもそも俺は、好きでもない相手と寝たりしない。好きでもない相手を部屋にあげることもしないし、手を握ったり抱き締めたりなんてしたくもない」
セルジュがはっきり言い切ると、コレットは呆然と言葉を失って、しばらくのあと、理解に苦しむと言うように眉尻を下げて呟いた。
「……してたじゃないですか」
「だからそれは、相手がお前だったからだ」
「意味がわかりません。セルジュさんはずっとわたしのことを嫌っていたじゃないですか」
「
切々と連ねられたセルジュの言葉に、コレットはいつのまにか黙って耳を傾けていた。
この言葉がどういった意味を持つのかを、何度も繰り返し噛み締めるように。
「お前が結婚を決めたなら——お前がもう、俺を必要としないなら、大人しく諦めるつもりでいた。だが……本当は、違うんだろう?」
外套の内ポケットに手を突っ込んで、白い手帳を取り出してみせる。
コレットが表情を強張らせて、掠れた声を絞り出した。
「それ……読んだんですか……?」
セルジュがこくりとうなずくと、コレットは耳まで紅く染め上げて、両手で顔を覆い隠し、「うわぁ……わぁぁ……」と悶えるような声を洩らした。
恥ずかしくて死にたくなる気持ちはよくわかる、と内容を読み終えた今、セルジュは思う。
「まさか兄さんに唆されていたとは思いもしなかった。散々責めるようなことを言って、すまなかった」
セルジュが頭を下げると、コレットは頬を紅く染めたまま、ふるふると首を振った。
「お前の手紙を読もうともせずに、兄に騙されていた自分が情けない。今度顔を合わせたら一発殴ってやりたいくらいだ」
「そんな……そんなこと、言わないでください。セルジュさんが王太子殿下の護衛騎士に就任したことを教えてくれたのは、お兄様なんです。おかげでこうして……そばに、いられるじゃないですか」
そう言って、コレットは恥じらうようにうつむいた。嬉しい溜め息が溢れ、唇が弧を描いてしまう。
「……終わり良ければすべて良し、か」
軽く肩を竦めてみせると、コレットはちらりとセルジュの顔を見て、申し訳なさそうに呟いた。
「ごめんなさい。わたしが無知で馬鹿だったせいで、セルジュさんに嫌な思いをさせてしまって」
「その話だが、嫌だったわけじゃないんだ。あのとき俺は、お前を初めて異性として意識してしまって、それまでのような、物語の姫に騎士が抱く忠誠心のような崇高なものではない、もっと生々しい欲にまみれた感情を抱いてしまったんだ。お前はまだ十歳になったばかりの女の子だったのに」
唇をぎりと噛み締める。驚いたようにセルジュを見上げるコレットに、セルジュは改めて真正面から向き合った。
「会いに行けなかったのは、手紙を返せなかったのは、お前を嫌いになったからじゃない。むしろその逆で、お前を意識しすぎてしまって、それまでのように振る舞える自信がなかったからだ。俺が騎士を目指したのは、お前を守るためだ。婚約を解消するつもりなんてなかった。お前のことが誰よりも好きだった。何よりも大切に思っていた」
素直になれなかったこれまでとは違い、今のセルジュならはっきりと口にすることができた。
仄かに香るあまい匂いも、亜麻色の柔らかな髪も、くりくりと愛らしい榛色のつぶらな瞳も、甘えるような声も。弾けるような眩しい笑顔も、ちょっぴり拗ねて膨れた顔も。自分のことよりも他人のことばかり優先する自己犠牲が過ぎる性格も、他人に弱みを決して見せない頑ななところも、何もかも——コレットの全てが好きなのだと。
セルジュが全てを言い切ると、コレットは涙に瞳を潤ませて、積もりに積もった想いの全てを訴えるように口にした。
「わたしも……ずっとあなたが好きでした。婚約を解消されたあとも、ずっとあなたを想っていました」
「ああ、解ってる」
セルジュが大きくうなずいてコレットの身体に腕を伸ばすと、コレットは自らセルジュの胸に飛び込んで、広い背中に腕を回した。
縋り付く華奢な身体を、折れそうなほどに細い腰を、強く強く抱き締める。亜麻色の髪がふわりとあまく香り、セルジュの胸を満たしていく。
長い長い抱擁のあと、セルジュは最後の疑問を口にした。
「……どうにも腑に落ちないんだが、お前も俺のことを好きだったなら、俺が初めてキスしようとしたときどうして拒んだんだ」
セルジュが身を屈ませて顔を覗き込むようにして訊ねると、コレットはセルジュの胸元をきゅっと握り締めて。
「あのときは……セルジュさんがわたしのことを好きだなんて思いもしなかったから……セルジュさんの初めての相手がわたしだなんて、良くないと思って……」
そう言って、恥じらうように顔をうつむかせた。
「……そういうことか」
黒檀色の後ろ髪をぽりぽりと指で掻く。
どうやら随分と行き違いがあったようだ。
なかなか言葉にできなかった「好き」という一言を胸の奥で噛み締めて。セルジュはふたたび、樹々に囲まれた細い散歩道を歩き出した。
遠いあの日、少年だったセルジュはこの庭で初めて騎士の誓いを立てた。
そして今度はこの場所で、何よりも大切な
穏やかな風が吹き抜けて、庭園の樹々がさわさわとそよぐ。ちらりと屋敷に目を向ければ、二階の一室の窓辺に立ち、ふたりをみつめる辺境伯夫妻の姿が見えた。
セルジュの唇が、ふと弧を描く。
屋敷の窓から死角になる植木の陰に身を隠し、コレットの腕をぐいと引き寄せて。驚いてセルジュを見上げるコレットの耳元に唇を寄せて。
何よりも伝えたいその言葉を、セルジュはそっと囁いた。
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