第19話 彼女の想い

 どうやって自室に戻ったのか、はっきりと思い出せない。気付いたときにはすでに朝食が用意されていて、セルジュは黙々と皿に装われたスープとバケットを喉の奥に流し込んだ。

 透きとおった黄金色のスープとさくさくのバケットは、きっと薫り高く味わい深いものだったに違いない。けれど、セルジュの感覚は空虚な想いですっかり鈍っていて、味も香りも食感も、なにひとつまともに感じることができなかった。


 味気のない食事を終えると、セルジュはひとり、グランセル公爵邸の庭園へと向かった。

 昨夜、月の光に青褪めていた庭園は、眩ゆい陽の光のもとで色鮮やかな草花に彩られていた。

 穏やかな風に吹かれ、庭園の樹々がざわざわと音をたてる。庭園に続く白い石造りの階段に腰を下ろし、セルジュは茫然と空を仰いだ。


 寒空の下、蒼白い満月を見上げて綺麗だと呟いたコレットの、どこか儚い横顔を思い出す。

 あのとき、コレットはどんな想いで夜空を見上げていたのだろう。


 目頭がじわりと熱くなり、涙が視界を滲ませる。

 庭園に乾いた靴音が響いたのは、ちょうどそんなときだった。


「セルジュさん? こんなところで何をなさっているの」

 唐突に声をかけられて、セルジュは慌てて涙を拭い、階段上を振り返った。

 紅茶色の長い髪と薄紅色のドレスがふわりと揺れる。白いシフォンのストールを上品に身に纏い、リュシエンヌが段上からセルジュを見下ろしていた。

「お暇なら、散歩に付き合っていただけないかしら」

「ええ……私でよろしければ」

 セルジュは素早く立ち上がり、佇まいを改めて、階段を降りてきたリュシエンヌの傍らにつき、歩調を合わせて歩き出した。


 整然と立ち並ぶ剪定された樹々を横目に、緩やかな坂道を降っていく。真っ白な屋根と柱の東屋が見えたところで、セルジュはぴたりと足を止めた。

 庭園の一角を埋め尽くす花の絨毯に、思わず目を奪われる。王城の一角に造られた花畑を思わせる、幻想的で美しい庭だった。

 王城の庭園で初めてリュシエンヌの護衛を務めたあのとき、花畑ではリュシエンヌが花を愛で、ジゼルと戯れて、セルジュの隣にはコレットが居た。

 ナプキンを被せた編み篭を手に提げて、無愛想なセルジュににこやかに笑いかけて、そして彼女は口にするのだ。


「セールージュさんっ」


 はっとして、セルジュは隣に目を向けた。

 翠玉に似たつぶらな瞳とセルジュの視線がぶつかると、リュシエンヌは柔らかく微笑んで小さく首を傾けた。

「何を考えていらしたの?」

「……いえ、何も……」

 軽く首を振り、セルジュはふたたび花畑に目を向ける。リュシエンヌはセルジュと同じように花畑をみつめながら、澄ました調子で口を開いた。

「コレットはマイヤールに戻りましたの?」

「ええ、なにやら良い縁談が寄せられたとかで、婚約するそうです」

「まあ、本当に? あんなに渋っていたのに、昨夜のうちに心境の変化でもあったのかしら」

 驚きの声をあげたリュシエンヌが、不思議そうに首を傾げる。リュシエンヌの言葉と思わせ振りな仕草が、セルジュをわずかに動揺させた。

「……渋っていたのですか?」

「ええ、もちろん。縁談が寄せられたのはこれが初めてではないけれど、いつもは話が出るたびに断っていたの。想う人がいるからって。とても優しくて格好良くて、子供の頃からずっと憧れていたひとなんですって」

 おとぎ話でも聞かせるような口振りでそう言うと、リュシエンヌは夢見る乙女のように結んだ両手に頬を寄せ、話し続けた。

「わたしについて城に上がったのだってそう。行儀見習いなんて必要ないのに、そのひとが王太子の護衛騎士に就任したから会ってお祝いしたいんだって、頼み込まれたの」


 庭園の樹々の向こうで、鳩の群れが羽ばたいた。

 風が吹き、リュシエンヌの紅茶色の髪が、薄紅色のドレスの裾が翻る。

「ねえ、それって……貴方のことでしょう?」

 茫然と立ち尽くすセルジュの顔を覗き込み、リュシエンヌは少し寂しそうに微笑んだ。


 ——ずっと、憧れていた?

 たった今耳にしたその言葉が、セルジュの胸を揺さぶった。

 相談もなく一方的に婚約を解消したのは、コレットの意思ではなかったのか。

 手淫でイッたセルジュを情けなく思い、その後も顔を見せない意気地のないセルジュに呆れ果てたのではなかったのか。

 今まで信じてきた苦々しい記憶が、音をたてて崩れ去っていく。


「……コレットは不甲斐ない私に幻滅して……婚約の解消を持ちかけたはずです」

「わたしが聞いた話では、婚約解消を申し出たのはそちらからだったようですけど」

 リュシエンヌがあっさりとセルジュの言葉を否定する。強張ったセルジュの頬を、一筋の汗が流れ落ちた。

 確かにあのとき、セルジュの父は「婚約は解消だ」としか言わなかった。

 セルジュは依然としてコレットを想い続けており、婚約を解消するつもりなど微塵もなかったから。だからあのとき、セルジュは勝手に思い込んだのだ。

 婚約は、解消のだと。


「ねえ、セルジュさん。コレットは一度だって貴方のことを悪く言ったりしなかったわ。貴方に何を言われても、いつも貴方を褒めていた。いつだって貴女のちからになろうと一生懸命だったの」

 リュシエンヌの唇が祈るように言葉を紡ぐ。

 王城で再会してからこれまでのコレットと過ごした日々の記憶が、次々とセルジュのなかで呼び覚まされていく。


 初めて部屋に連れ込んだとき、ベッドの縁に腰掛けて恥じらうようにうつむいていたコレットの顔が。

 汗まみれのセルジュの手を、優しく握り返してくれた小さな手のひらが。

 不器用な褒め言葉に喜んで、セルジュの胸に飛び込んできた華奢な身体が。

 セルジュの姿を映してきらきらと輝く榛色のつぶらな瞳が。

 

 素直に受け入れられずにいたあの頃とは違う。

 改めて思い返せばいつだって、コレットは真っ直ぐに一途な想いを伝えてくれていた。

 最も伝えたかったはずの一言を彼女が口にできなかったのは、セルジュがそれを認めようとしなかったからだ。


「貴方は……? コレットに、好きって伝えた?」

 白いレースに包まれたリュシエンヌの手のひらが、セルジュの腕に触れる。

 両手を硬く握り締め、唇をぐっと引き結ぶセルジュの顔を認めると、リュシエンヌはドレスのポケットから何かを取り出して、セルジュに向けて差し出した。

「これ……」

 手渡されたのは、白い革表紙の手帳だった。

「今回の行儀見習いのあいだにコレットが書いたものなの。貴方も一度、読んでみてはどうかしら」

 リュシエンヌに促され、セルジュは手帳のページをぱらぱらとめくってみた。

 白い紙に綴られた文字は、なめらかで整然として、けれどもどこか繊細で、美しかった。


 身体の奥から熱い想いが込み上げる。受け取った手帳を胸に抱いて、セルジュはリュシエンヌに向き直り、小さく頭を下げた。

「申し訳ございません。本日の護衛は別の者に任せてもよろしいでしょうか」

「ええ、わたしも今日はゆっくり本でも読みたい気分だったの。殿下をお誘いしてサロンでのんびりお茶をいただくわ」

 リュシエンヌがふわりと優しい笑みをみせる。

 もう一度、今度は深々と頭を下げて。セルジュは素早く踵を返し、颯爽と庭園をあとにした。



***



 グランセル公爵に充てがわれた自室に戻ると、セルジュはソファに腰を下ろし、白い革の表紙を開いた。

 いつだったかコレットは、王城にあがったのは、官能小説を書くためだと言っていた。


 ——コレットが書いた官能小説。

「コレットが……書いた……」

 ごくりと息を飲み、セルジュは手帳のページをめくった。

 実際に目を通してみると、なんのことはない。そこに書かれていたのは物語ではなく、城にあがってからのコレットの日記だった。


 日記には、セルジュと再会してからのコレットの想いと、それから一見すると場違いな幼少期の出来事が綴られていた。

 文字にして書き出すことで、コレットは自分の記憶を整理して、自分がセルジュにしたことを、セルジュの怒りの原因を突き止めようとしたのだろう。

 はじめに書かれていたのは、半年間送り続けた手紙のことだった。


 ——『お前は、自分が過去に何をしたか覚えていないのか?』

 再会して間もない頃、セルジュが口にした言葉だ。

 何が原因でセルジュに嫌われてしまったのか本当にわからなかったコレットは、はじめ、セルジュに宛てた手紙の内容がセルジュの気に触るものだったのではないかと考えた。若しくは、幾度となく手紙を送り続けた行為そのものが、セルジュを不快にさせたのではないかと、そう考えたらしい。

 婚約が解消されたのは、あの出来事から半年も経ってのことだったから。まさかそれが原因だとは思いもしなかったようだ。


 あの日のことが原因で、セルジュの少年時代が悲惨なものとなってしまった。そして今度はそのことが原因で、セルジュがこれまでに築き上げてきたものが全て無に帰そうとしている。

 その事実を知ったコレットは、なんとかセルジュの助けになって、セルジュがトラウマを克服する手助けをすることで、過去の過ちを贖いたいと、そう考えたのだ。


 ページをめくる手が止まらない。

 コレットの思考を辿るたび、どれほど彼女がセルジュのことで思い悩んでいたか、セルジュのことを気に掛けていたか、その全てが痛いほどに理解できた。

 日記の最後には、告白文が綴られていた。

 おそらくそれは、セルジュに宛てて書かれたもので、セルジュが最も知りたいと思っていたことだった。

 セルジュとコレットの関係が崩れ去ったあの日、コレットの身に起きたことが、淡々と記されていた。


 セルジュの十四歳の誕生日。

 セルジュが喜ぶプレゼントをしたいと息巻いていたコレットは、父であるマイヤール卿に頼み込み、卿の愛馬であるオルタンスにセルジュを乗せる許可を得ていた。当時のセルジュがオルタンスをとても気に入っていたからだ。

 かたちのないプレゼントではあるけれど、きっとセルジュを喜ばせることができる。そう考えて自信満々で当日を迎えたコレットだったが、予想外の事態が起こる。マイヤール卿が急遽、知人との付き合いで狩りに出ることになり、オルタンスに乗って出掛けてしまったのだ。

 用意していたプレゼントを失い、新しいプレゼントの用意もできず、困り果てたコレットは、セルジュと共に屋敷を訪れたセルジュの兄に、セルジュが喜ぶことは何かないかと尋ねた。

 そして、日が暮れる頃、あの図書室にセルジュを呼び出して、それがどういう行為なのかもわからないまま、セルジュの兄に言われたとおり行動したのだ。


『プレゼント、おもいつかなくて……でも、男のひとがよろこぶこと、おしえてもらったから』

 その行為の意味は知らなくとも、人に見せないその場所に触れることには躊躇いがあったのだろう。

 幼いコレットは恥じらいに頬を染めながら、初めての快感に戸惑うセルジュに何度も確認していた。

『セルジュさん、きもちいい……?』


 ガタリと大きな音を立て、ソファが動く。

 勢い良く席を立ったセルジュの、握り締めた両手の拳がふるふると震えていた。


 ——兄さんアイツか! 純真で無知だったコレットにあんなことを教えたのは!

 引き篭もりになったセルジュにやたらと親身になってくれていた兄の顔が脳裏を過る。

 憐れむような悔やむような複雑な表情の理由が、今になってようやく解った。


 部屋を飛び出し、厩舎に駆け込むと、セルジュは素早く愛馬に跨り、グランセルを後にした。

 グランセルからマイヤールまでは馬車で丸二日かかる。半日遅れの今ならば、コレットが縁談相手と顔を合わすその前に、マイヤールに着けるはずだ。



 ——コレット。


 初めて異性と意識して手を繋いだ。

 あの頃のコレットはまだ幼い少女だった。けれど、人生を共にする相手だと紹介されて、彼女の夫になれることが不思議と誇らしいことに思えた。

 何度も顔を合わせるうちに、愛らしい姿と純真な想いに惹かれ、この少女に己の生涯を捧げるのだと固く誓った。

 運命のあの日、婚約が解消され、彼女を失って——それ以来、セルジュが恋をすることはなかった。


 セルジュにとって、コレットとの初恋の思い出はあまりに美しく、そして悲しすぎた。

 一生を剣に、王太子ヴィルジールに捧げると誓うことで、ようやく立ち直ることができたのだ。

 それなのに、セルジュはコレットと再び出会い、己の意思に反するように、抗いようもなく惹かれてしまった。

 初めて異性を抱き締めたのも、初めて口付けを交わしたのも、初めて肌を重ねたのも。

 記憶に残るセルジュの全ての初めてを、コレットに奪われたのだ。


 今更言い訳などする気もない。

 一刻も早くコレットの元に向かい、縁談を食い止めて、そして——。


 手綱を握る両手に、ぐっとちからが込められる。

 夕闇に染まるグランセルの空を背に、セルジュは荒野を馬で駆けた。

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