第18話 夢から醒めて
——身体が重い。
柔らかな毛布の中で、セルジュはのそりと寝返りをうった。
騎士を目指しはじめた頃、初めて父に厳しいトレーニングを受けた日の翌朝のように両腕両脚が重い。無理に身を屈めでもしたのか、背骨や腰が酷く軋んでいた。
ほのかに残るこのあまい香りは、年代物のワインのものだっただろうか。とても心地よい、いつまでも包まれていたいような優しい香りだ。
開ききらない目蓋を一度硬く瞑ると、セルジュはぐっと全身にちからを込めて仰向けに寝転がり、赤褐色の眼を見開いた。
天蓋に覆われた見慣れない天井。
背中を受け止める感触も、騎士団宿舎の自室にあるベッドのものとは似ても似つかない。
ぼんやりと眼を瞬いて、はっと息を飲んだ。
触れ合った肌の柔らかな感触を、優しいぬくもりを、手のひらが、唇が、全身がまだ覚えていた。
「コレット……」
愛おしむように名前を呼ぶ。
ゆっくりと左右を確認したが、ベッドの上にコレットはいない。
のそのそと身を起こして天蓋を開け放ち、ぐるりと室内を見回してみても、広い客間のどこにもコレットの姿は見当たらなかった。
また性懲りもなく淫夢をみたのだろうか。
そう考えてはみたものの、セルジュは全裸で寝たりしない。脱ぎ捨てたはずの礼服の上着がソファの背に掛けてあり、サイドテーブルにシャツやズボンが畳んで置かれていることから、昨夜のあの出来事が現実だったことをはっきりと確信できた。
シーツに広がる波を打つ亜麻色の髪と、ベッドの上で激しくしなる白い肢体を思い出し、慌てて首を振る。両手で顔を覆い隠し、セルジュは大きく息を吐いた。
夢にまでみていたコレットとの一夜だ。
興奮が抑えきれず、やや乱暴に抱いてしまった気がする。
毛布を剥ぎ、汚れたシーツを確認すると、セルジュはベッドの縁に腰掛けた。
コレットが心配だ。日常的に厳しいトレーニングをこなしているセルジュでも身体が軋むくらいなのだから、あの華奢な身体ではかなりの負担だったはずだ。ベッドの惨状を省みるに、傷だって相当ひどい。
女性だから見目を気にして、無理をして身を清めたり着替えたりしているのだろうか。
気掛かりではあったけれど、セルジュは結局、コレットが部屋に戻るのを待つことにした。
礼服のズボンを穿き、シャツに腕を通して。時計の長針が半周するほど待っても、コレットは戻らなかった。
夜明け前の薄闇に染まっていた東の空が澄んだ青に色を変えたころ、ようやく部屋の扉がノックされた。
顔をあげ、逸る気持ちで扉を開く。
部屋の前でセルジュを見上げていたのは、真っ白なシーツを抱えた見覚えのある涅色の髪の使用人だった。
コレットに頼まれてきたのだろうか。
彼女はぺこりと頭を下げると、セルジュの横をすり抜けるようにして部屋に入り、てきぱきと汚れたシーツを取り変えて、乱れたベッドを整えた。
「ジゼル……だったな。コレットがどこにいるか、教えてくれないか?」
扉の前に立ったままセルジュが問うと、ジゼルは黙ってセルジュを振り返り、困ったように小首を傾げた。彼女はテレジア人だから、セルジュの言葉がわからないのだろう。
腕を組んで困り果てるセルジュをよそに部屋の隅々まで綺麗に片付けると、ジゼルは窓辺に向かい、大きく窓を開け放った。
セルジュははじめ、ジゼルは換気のために窓を開いたのだと思っていた。
しかし、彼女はそれ以上部屋の片付けをするでもなく、かといって退室するでもなく、窓辺に立ったままちらちらとセルジュと窓の外の様子を窺っていた。
その不自然な行動の意味に気がついたとき、セルジュは弾かれるように窓辺に駆け寄った。
グランセル公爵邸の前庭に、黒塗りの馬車が停まっていた。
荷台に次々と荷物を積み上げていく身なりの良い男に、落ち着いた深緑のドレスで着飾った女性が手荷物を渡している。
つばの広い帽子を被っていて、顔も髪の色さえも確認できないというのに、セルジュにはそれが誰だか一目でわかってしまった。
礼服の上着を羽織り、放たれた矢の如く部屋を飛び出すと、セルジュは全力で廊下を駆け出した。
***
人影ひとつない静まり返ったホールを駆け抜けて、勢いよく玄関扉を開け放つ。
眩しい朝陽に眼を細め、肩で息をしながら前庭へ飛び出すと、黒塗りの馬車に乗り込もうとする深緑のドレスの女性に向けて、セルジュは声を張り上げた。
「コレット!」
ステップに掛けようとしていた足を止めて、振り返ったつばの広い帽子の影から榛色の瞳が覗く。
「セルジュさん……?」
セルジュの登場が予想外だったのか、コレットは眼を丸くしてぼんやりとセルジュの名を呟いた。
前庭への大階段を足早に駆け降りる。
コレットの元へと急ぐセルジュの足は、荷積みを終えた黒服の男に阻まれた。
男の顔には見覚えがあった。七年以上前、セルジュがまだ頻繁にコレットの元を訪れていた頃からマイヤール家に仕えていた下僕のひとりだ。
セルジュの顔を見て微かに眉を顰めると、男は黙ってセルジュを睨み付けた。コレットが男の腕に触れて小さく首を振って見せたところで、ようやく渋々頭を下げて、男はふたりから距離を取った。
貴族令嬢らしく品のある佇まいで、コレットはまっすぐにセルジュの顔を見上げていた。
言いたいことも聞きたいことも山ほどあるはずなのに、肝心の言葉に上手く出来ない。やっとの思いでセルジュが捻り出した言葉は、自分でも驚くほど意味のないものだった。
「マイヤールに、帰るのか……?」
ぱちくりと目を瞬かせて、コレットはこくりとうなずいた。
夢ではない。確かに昨夜、コレットはこの腕に抱かれたはずなのに、何も言わずにセルジュの元を去ろうとしているのは一体どういうことなのか。
その理由を確かめなければならないのに、肝心の言葉が出てこない。
セルジュが何も言えずにいると、コレットは困ったように微笑んで、いつもと変わらない弾んだ声を響かせた。
「良かったですね、最後までちゃんとできて」
「……は?」
「セックスです。ちゃんと最後までできたじゃないですか。これで訓練も無事終了……ですよね?」
コレットは満面の笑みで、こてっと小首を傾げて言い切った。
心臓が、どくんと大きく胸を打つ。
頭の中が真っ白で、コレットの言葉の意味が理解できない。
昨夜のアレは……あの行為は……。
「ちょっ……と待て、お前、何を言って……」
「セルジュさんの女性恐怖症も完治したことだし、わたしも心置きなくマイヤールに帰れます」
安堵するように言い切られては、それ以上食い下がることもできなかった。
頭ではまだ納得が出来ていない。けれど、想いが通じたつもりでいたのはセルジュだけで、コレットはあの約束を——セルジュの女性恐怖症を治すという責任を——果たしただけだった。
要するに、そういうことなのだろう。
からからに乾いた喉にごくりと唾を流し込み、セルジュはなんとか声を絞り出した。
「今度はいつ……」
「会えません」
「は……?」
顔面が引き攣ったのが自分でもよくわかった。
セルジュの言葉をきっぱりと切り捨てると、コレットは淡々とセルジュに告げた。
「結婚するんです。お城にあがってから父が連絡を寄越して、縁談を勧められて。マイヤールに戻ったら先方とお会いして婚約します。だから、セルジュさんとこうして個人的にお会いするのは、これが最後になります」
そう言って、ぺこりと頭を下げた。
セルジュの胸の奥で、何かが粉々に砕け散った音がした。
割れた硝子の破片に胸の内側からずたずたに切り裂かれていくようなこの感覚は、以前にも一度経験していた。薄暗い部屋からようやく這い出して、コレットに連絡を取りたいと父に願い出たあの日。いつのまにか婚約が解消されていたことを知った、あのとき感じたものと同じ痛みだ。
「婚約する……って……それなら俺は、とんでもないことを……」
「気にしないでください。わたしと結婚したがる
「だが……」
「本当に大丈夫ですってば! おかげさまでリアルなベッドシーン書けそうですし」
なんでもないことだと言うように、コレットはくすりと笑う。それから少しうつむいて、瞼を伏せて。セルジュの手にそっと触れて、コレットは囁くように告げた。
「セルジュさんは昨日のご令嬢に晩餐にお呼ばれしたんでしょう? せっかくの機会なんですから、自分のことだけ考えてください。ねっ」
顔を上げ、眩しい笑顔をセルジュに向ける。
踵を返し、ドレスの裾をふわりと翻して、コレットは素早く馬車に乗り込んだ。
主人の乗車を待ち構えていた御者が、間髪入れず手綱を引く。
みるみるうちに小さくなるマイヤール家の黒塗りの馬車を、セルジュは煮え切らない思いで見送った。
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