第17話 宴の夜
グランセル公爵邸が革命軍の襲撃を受けてから十日が過ぎ、グランセル領内や王都では、軍や警察が事後処理に忙しい毎日を送っていた。
グランセル領で暮らす人々の心に革命軍が残した爪痕は未だ癒えておらず、その日、グランセル公爵は領民や襲撃事件に尽力した王国軍の慰安のために盛大な宴を開いた。
村の広場では昼間から酒と料理が振舞われ、元の計画よりすこし遅れて日暮れからはじまった夜会には、
公爵邸奪還の際、革命軍の主導者を捕え、人質解放の要となったセルジュは、その功績を認められ、公爵夫妻の賓客として夜会への出席を求められたのだった。
公爵邸の二階に並ぶ客室の一室で、セルジュは姿見に映る自分の姿を眺めていた。
この王国騎士団の礼服には王城で式典がある度に腕を通しているものの、今までにセルジュが夜会会場に足を踏み入れたのは、会場の警備や王太子の護衛任務のときだけだった。
次男とはいえ貴族の子息なのだから、本来ならば社交の関係で夜会に出ていてもおかしくないものだが、セルジュの場合は女性恐怖症で屋敷に引きこもっていたからだ。
夜会に招かれた貴族の令息らしく撫で付けた黒檀色の髪を右から左から確認し、礼服の上着の襟元を正して。ぐっと表情を引き締めると、セルジュは夜会会場となる大ホールへと向かった。
細やかな彫刻細工で彩られた渡り廊下の手摺りを眺めながら、ホールを満たす穏やかな弦楽器の音色に耳を澄ます。
ふと前方に目を向けると、相変わらずの黒いドレスに白いエプロン姿のコレットが、廊下の向こうから歩いてくるのが見えた。
コレットはセルジュに気がつくと榛色の瞳をまるくして、小首を傾げてセルジュに訊ねた。
「どうしたんですか、その格好」
「今夜の夜会に出ろと言われてな。仕方なく、だ」
そう言ってぎこちなく笑い、片腕をあげ、上半身をすこし捻ってみせる。
セルジュの全身をひととおり眺めると、コレットはくすりと微笑んだ。
「髪をあげてるセルジュさん、はじめて見ました」
「ふん、どうせ似合わないとでも言うんだろう」
「そんなことないです。とっても素敵ですよ」
恥ずかしげもなく言うものだから、セルジュはちょっぴり照れくさくなって、ホールの中央に吊り下げられた硝子のシャンデリアを見下ろした。
それからこほんと咳払いをして、ちらりとコレットに目を向ける。
「……お前は?」
「はい?」
「マイヤール辺境伯令嬢ともあろう者が、夜会に出ないのか?」
「わたしは今日まで行儀見習いの身なので」
「そうか……」
ほんの少し気落ちして、セルジュはふたたびホールを見下ろした。夜会でコレットと踊ることを、心のどこかで期待していたのかもしれない。
セルジュが黙って立ち尽くしていると、コレットがゆっくりとセルジュの隣に歩み寄り、横から顔を覗き込んだ。
「……ちょっぴり残念だったりします?」
「俺が残念がるとでも?」
胸の内を見透かされてしまわぬように、慌てて虚勢を張る。
コレットはぷくっと頬を膨らませると、
「むう……相変わらず素っ気ないですね。使用人のエプロンドレス姿のわたしも今日で見納めなんですから、もっと惜しんでくれたって良いんですよ!」
そう言って得意げに胸を張った。
「勝手に言ってろ」
鼻で笑い、セルジュは改めてコレットと向かい合った。
セルジュが黙ってコレットをみつめていると、コレットはちょっぴり視線をさまよわせて、ほんの少しうつむいて。それからぱっと顔をあげ、にっこりと笑って明るく告げた。
「これまでの努力の成果が試されるところですね。夜会、楽しんできてくださいね」
結局それ以上、セルジュは何も言えなくて。
手を振るコレットに見送られて、セルジュはひとり、夜会会場へと向かったのだった。
***
煌びやかな装飾が施された両開きの扉の奥は、すでに風格ある紳士と美しく着飾った貴婦人であふれかえっていた。
頭上では硝子のシャンデリアがいくつもきらめいて、ホールを飾り立てる花や調度品を輝かせており、ご馳走がずらりと並ぶテーブルの側で、見目のいい給仕服の男女が賓客にワインやカクテルを振舞っている。
セルジュは呆然と扉の前に立ち尽くし、壮麗な夜会の光景に見入っていた。
五年以上前、寄宿学校の社交の授業で催された記憶に残る最初で最後のパーティーでの出来事が、セルジュの脳裏に蘇る。あのときのセルジュは異常に緊張していて、女性の顔をまともに見ることすらできなかった。
けれど、今は違う。セルジュは女性と向かい合っても緊張などしないし、手を触れても、ダンスを踊っても、堂々と落ち着いて振舞うことができる。
もし緊張するのだとしたら、その相手はただひとり。そしてそれはきっと、あの頃のような不快な感情による緊張ではない。未だに素直になれない大人げないセルジュのことを、優しく真摯に受け止めてくれたコレットへの愛によるものなのだから。
愛などという言葉をごく自然に考えてしまったことが、ほんの少し気恥ずかしい。公爵邸の廊下でセルジュを見送ってくれたコレットの笑顔が思い浮かべ、セルジュは微かに頬を緩ませた。
女性恐怖症を治すために、コレットには今まで散々世話を掛けてきた。ふたりきりで過ごしたあの時間にも、きちんと意味があったのだと。彼女にそう証明するために、セルジュは今夜、このフロアに立った。
爵位ある家の名に恥じぬよう、貴族の子息らしく振舞って夜会を愉しむこと。それがなによりも、コレットへの恩に報いることになるはずだ。
背筋を伸ばし、堂々と胸を張って、セルジュは煌びやかな社交界へ一歩踏み出した。
グランセル公爵夫妻への挨拶を速やかに終えると、セルジュは壁際に置かれたカウチのそばに立ち、ホール内をぐるりと見渡した。
当然のことながら、壇上のヴィルジールとリュシエンヌの他に見知った顔などどこにもない。
さてどうしたものかと考え込もうとした矢先、背後から唐突に声を掛けられた。
「セルジュ様? ヴァレス子爵家のセルジュ様ではございませんの?」
艶やかで華のある女性の声だった。
振り返ると、数歩先でビジューをあしらった藍色のドレスの黒髪の女性——歳の頃はセルジュと同じくらいか——がセルジュを見ていた。
どこかで面識があっただろうか。
わずかに眉根を寄せて記憶を辿り、セルジュはハッと目を見開いた。
すっかり顔を忘れてしまっていたが、おそらくこの女性はあのときの——寄宿学校のパーティーでセルジュに手汗がすごいと言い放った、あの令嬢だ。
名前は確か、フランセット・アズナヴール。父親はセルジュの父と同じく子爵だった。
一瞬動揺しかけたものの、セルジュはすぐに気を持ち直し、フランセットのほうに向き直った。
彼女はまったく悪びれもせず、しなりしなりとセルジュに歩み寄り、扇で口元を隠して悩ましげな視線をセルジュに向けた。
「お噂は予々ですわ。護衛騎士就任おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
「今回、革命軍を制圧する際にも活躍されたんですってね。勲章授与もあり得るのではなくて?」
「事後処理が先だが、検討中だと殿下が仰っていた」
「まあ、素晴らしいわ」
瞳を細めて扇を揺らして、フランセットはくすくすと笑った。
——なるほど、そういうことか。
セルジュは気が付いた。
この媚びを売るような露骨な態度は、セルジュが就いている護衛騎士という名誉ある立場に魅力を感じてのものだろう。
あまり好ましくない相手ではあるけれど、コレットとの関係を修復することで女性恐怖症もここまで克服できたのだから、もうひとりの原因であるこの令嬢とのわだかまりも消し去ってしまうべきなのかもしれない。
口元がふと綻ぶ。堂々と胸を張り、紳士の礼を取ると、セルジュは恭しくフランセットの手を取った。
「一曲、いかがですか」
「ええ、喜んで」
煌びやかなホールにピアノと弦楽器の美しい音色が響く。
王城の舞踏室でリュシエンヌにそうしたように、ヴィルジールに倣った完璧なリードでセルジュはダンスを踊り終えた。
フランセットはセルジュのことをお気に召したようで、一曲踊り終えたあともセルジュのそばを離れなかった。彼女はセルジュから他の女性を遠ざけて、終始楽しそうに社交界で囁かれる噂話や流行の話をしていた。
セルジュにとって、フランセットの話はどれも退屈で興味のないものばかりだった。けれど、あの日受けた屈辱がまるでなかったことように自然に振舞えた事実は、この夜会での一番の収穫のように思えた。
すっかり夜も更けたころ、セルジュは公爵邸の玄関ホールでフランセットの見送りに立った。
彼女は最後までご機嫌で、迎えの馬車に乗り込む前に、セルジュを振り返ってこう言った。
「近々うちで正餐会を開きますの。よろしければ貴方もいらして」
***
セルジュがふたたび大ホールへ戻った頃には、近隣からの賓客はそれぞれ迎えの馬車で街に戻っており、公爵邸に部屋を用意された男性客は公爵と別室でカードゲームに、女性客はサロンで世間話に興じていた。
親しい者もいない中で遅れてゲームに参加する気にもなれず、忙しなく料理や酒を片付ける給仕から残ったワインを一本分けて貰うと、セルジュは彼等の邪魔にならないよう、庭園に面したテラスに出た。
広大な庭園のあちこちには美しく剪定された樹々が点々と固まっており、中央では大きな噴水が月の光を浴びてきらきらと輝いていた。
冷たい夜風に吹かれながら青褪めた夜の庭園を見渡して、それからふと庭園へ続くテラスの階段を見下ろして。セルジュは目を丸くした。
「コレット……?」
白い吐息とともに微かな呟きが洩れる。
真っ白な石造りの階段に、相変わらずの使用人服姿のコレットが座っていた。
「こんなところで何をしているんだ」
一歩一歩階段を降りてセルジュが隣に立つと、コレットはぼんやり夜空を見上げたまま、ぽそりと囁いた。
「月が、綺麗だなって……」
釣られるように、セルジュは空を仰いだ。
雲ひとつない星の海の真ん中に、青褪めたまんまるい月がぽっかりと浮かんでいた。
「確かに綺麗な満月だ。……それで? 侍女の仕事は終わったのか?」
ふたたびコレットを見下ろしてセルジュが上機嫌で尋ねると、コレットはちらりとセルジュに目を向けて、少し寂しそうに呟いた。
「リュシーが疲れちゃったみたいで、部屋に送ってきたところです」
「そうか、それなら今夜は空いていそうだな」
「空いてますけど……」
「良い報告がある。少し付き合ってくれ」
部屋でひとりで飲み直すつもりでいたけれど、せっかくコレットと会えたのだから、今夜のうちに夜会での成功を報告しておくのもいいだろう。
手にしたワインを掲げ、セルジュがにっかりと笑ってみせると、コレットはちょっぴり目をまるくして、それから訝しげに目を細めた。
「……セルジュさん、酔ってます?」
「少しばかり飲んだだけだ。お前は? 飲んでないのか?」
「お茶をいただきました。一応、今日まで行儀見習いの身なので」
つんと澄ましてそっぽを向いて、コレットがくすりと笑う。
「そうか、まあ良い。そんなことより来るのか、来ないのか? 来るよな?」
酒が入っているせいか、今夜のセルジュはいつもよりよく口が回った。半ば強引に話しを運ぶと、コレットは困ったように微笑んで、
「もう、仕方のない人ですね」
そう言って、こくりとうなずいた。
***
コレットを連れて部屋に戻ると、セルジュは燭台の蝋燭に明かりを灯し、向かい合うように置かれたソファのひとつにコレットを座らせて、もうひとつのソファにどさりと腰を落ち着けた。
強引にワインを勧めながら、夜会での出来事を意気揚々とコレットに報告する。セルジュが問題なくフランセットとダンスを踊り、晩餐に招かれたこと知ると、コレットは自分のことのように喜びはしゃいだ声をあげた。
「すごいじゃないですか! わたしとの訓練の賜物ですね!」
「馬鹿を言え。俺の実力だろう」
「ええー、そこは素直に感謝するところでしょう?」
ぷうっと頬を膨らませるコレットを見て、声をあげて笑ってしまう。
女性恐怖症が治ったことも、これで証明できたと言えるだろう。あとはこのままコレットと——友人のままでいられるならば、それでいい。
そう遠くない別れのときが、刻々と近付いていた。
じくじくと抉られるような胸の痛みをひた隠すように、セルジュはその後もコレットに夜会で見聞きしたことを事細かに話して聞かせた。
コレットはセルジュの話に耳を傾けて、終始楽しそうに笑っていた。セルジュが粗方話を終えた頃には、すこしワインに酔ってしまったようで。コレットはほんのりと頬を赤く染めて、手にしたワイングラスを覗き込んで、ぽつりぽつりと呟いた。
「そっかぁ……セルジュさんがそのご令嬢と上手くいったら、わたしも……」
さみしそうにそう零すと、そのまま黙りこくってしまった。
置き時計の秒針が、カチ、カチと一定のリズムで時を刻む。
長く続いた沈黙に耐えきれず、何か気の利いた話題をと口を開きかけて、セルジュはぎょっとした。
コレットの膝に置かれた小さな手の甲に、白いエプロンに、透明な雫がぽろぽろと溢れ落ちては滲みをつくる。
セルジュは慌てて席を立ち、コレットの前に跪いた。
「どうした。どこか痛むのか?」
「え……あれ? わたし、どうして……」
濡れた手のひらを見下ろして、呆然と呟いて。未だ溢れ続ける涙を袖で拭うと、コレットはソファを離れ、素早く身を翻して、扉に向かって駆け出した。
「ごめんなさい。わたし、部屋に戻りますね」
振り返ることなくそう言って、ドアノブに手を掛ける。すぐさま追い付いたセルジュの手が、コレットの細い手首を握り締めた。
「コレット、待て! どうして泣く?」
「なんでもないです、大丈夫ですから……」
「そうは見えない。本当に大丈夫なら顔をあげて見せてみろ」
セルジュは身を屈め、掴んだ手首を引き寄せて、強引にコレットの顔を覗き込んだ。
いつもはくりくりと愛らしいコレットのつぶらな瞳が、涙でくしゃくしゃに歪んでいた。ふるふると首を振り、顔を伏せて、コレットは必死にセルジュから逃れようと踠いていた。
胸の奥が、ずきりと痛みを訴えた。
「泣くな、コレット。泣くな……」
涙に濡れたコレットの頬に手のひらでそっと触れて。セルジュは懇願するように「泣くな、泣くな」と繰り返した。
コレットの揺れる瞳がセルジュを映す。
鼻先が触れ合う距離でみつめあって。
唇が、重なった。
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