第16話 囚われの偽公爵令嬢

 深い闇に呑まれた夜の森を、木の葉の隙間から降り注ぐ月明かりを頼りに進む。ときおり風が吹き抜けて、樹々がざわめくたびに心臓がどくんと大きく跳ねた。

 村を出てからどのくらいの時間が経過しただろう。地図どおりに進んでいるならば、そろそろ目的の場所に到着するはずだ。火の点いていない松明を片手に、セルジュは注意深く周囲を観察しながら森の奥へと歩みを進めた。

 数歩遅れてセルジュのあとを追うロランが、声を潜めてセルジュに訊ねる。

「リュシエンヌ様に大見栄をきっていましたが、策はあるのですか?」

「現地警察の話によれば革命軍は海沿いの地下通路から公爵邸に侵入した。だが、グランセル公爵邸はイヴェール城に倣って隠し通路がふたつあると、以前コレットが話していただろう。屋敷のものすら知らない森側の通路なら奴らに知られていない可能性が高い。そこから侵入して直接奴らの頭を叩く」

 振り返ることもせず森の奥を見据えたまま、セルジュは声を押し殺して淡々と説明した。

「なるほど。確かに侵入は可能かもしれません。ですが、本当におひとりで大丈夫ですか?」

「任せておけ。屋敷の内部構造は記憶済みだ」

 己に言い聞かせるようにセルジュが口にした、そのとき。前方の闇の奥に、樹々のあいだに見え隠れする白い石像が目に入った。

 大樹の根が絡みついたその石像は、まるで樹々の根に抱かれて眠っているようだった。セルジュがひび割れた台座の前に跪き、足元の土と木の葉を掻き分けると、土の中から正方形の白い石板が現れた。

「これですか……?」

「おそらくな」

 ロランに一言応えると、セルジュは重い石の蓋を持ち上げた。

 夜の森の澄んだ冷気に、生温かい土の匂いが混じる。薄汚れた階段が深い穴を満たす闇の奥へと続いていた。

 外套のポケットから火付けを取り出して松明に火を灯し、セルジュがロランを振り返る。

「後のことは任せたぞ」

「了解しました、セルジュ。ご武運を」

 恭しく頭を下げるロランに軽く手を振って笑って見せて、セルジュは深い穴の底へと降りた。


 穴の底の土は柔らかく湿っており、松明で足元を照らしてみると、ところどころが苔蒸していた。壁も天井も土肌が剥き出しで、大抵の貴族の屋敷に備わっている脱出用の地下通路とは大きく異なった印象を受ける。

 大柄なセルジュには狭苦しく感じられる長い通路を奥へ奥へと進んでいく。ほんのりと漂うあまい香りにセルジュは鼻をひくつかせた。

 微かだった香りは奥に進むにつれ濃厚になり、やがて松明の灯りの先に板張りの階段が現れた。

 ぎしりと軋む朽木の階段を一歩一歩踏み締めて登っていくと、頭上を塞ぐ取っ手の付いた四角い木の板が目に入った。

 おそらく屋敷の内部につながる扉だろう。

 木板の向こうに耳を澄まして人気ひとけがないことを確認し、セルジュが扉を押し上げると、噎せ返るようなあまったるい香りが地下通路に流れ込んできた。



***



 そこは、屋敷の地下にある貯蔵庫のようだった。

 明かり取りの窓から冷たい月の光がさして、壁一面に酒樽が並ぶ庫内を照らしていた。庫内を満たす眉を顰めたくなるほどのあまったるい香りの出所は、どうやら年代物のワイン樽だったようだ。

 松明の灯りを消して庫内の様子を素早く確認すると、セルジュは地下通路から床の上に這い上がった。


 セルジュの記憶によれば、地下の貯蔵庫は広大なグランセル公爵邸の森側の端にあり、王城の階下と同様、厨房や使用人の食堂、作業部屋などと共に廊下に面して配置されていた。

 予測したとおり、革命軍の上層部は森側の隠し通路を知らないらしく、彼らの見張りの殆どが、彼らの侵入口がある海側に配置されているようだった。


 慎重に迅速に無人の廊下を通り抜けて、階上への階段を駆け上がる。分厚い扉を押し開けると、だだ広いホールの隅に二階への階段が見えた。

 乾いた泥の足跡で汚れた上等な絨毯が、セルジュの靴底を柔らかく受け止めてホールに響くはずの靴音を吸収する。おかげで物音ひとつ立てることなく、セルジュは階段まで移動することができた。

 二階には公爵夫妻の寝室と令嬢の部屋、そして多くの客間がある。グランセル公爵邸の構造上、公爵夫妻とその令嬢が囚われている部屋は夫妻の寝室しかあり得ない。これまでとは違い、見張りも充分な人数が配置されているはずだ。

 ぐっと息を呑み、階段を上がる。途中、踊り場の手すりの花台に飾られた花を見て、セルジュはふとリュシエンヌの言葉を思い出した。

 夜会当日に向けて屋敷のあちこちに花を飾るコレットとリュシエンヌの姿が脳裏に浮かび、強張った頬が緩む。

 ちょうどそのとき、二階廊下に明かりが現れ、人影が壁に映し出された。

 手すりの陰に素早く身を隠し、息を潜める。見張りが通り過ぎたのを確認して、セルジュはほっと息を吐いた。

 

 公爵夫妻の寝室は二階の南側にあった。

 途中、セルジュは避けて通れなかった見張りを三人ほど、気を失わせて客室に縛り上げてきた。

 ——奴らの意識が戻る前に、早急に公爵夫妻とコレットの身の安全を確保しなければ。

 逸る気持ちを抑えながら、セルジュは鍵穴から寝室の中を覗き込んだ。


 室内には革命軍の兵士が二人。奥に置かれたソファの手前で、グランセル公爵とその妻が後ろ手に腕を縛られて膝をついており、その傍にワイン色のデイドレスを着たコレットが跪いていた。

 僅かに乱れた亜麻色の髪に目が止まり、胸が大きく揺さぶられる。顔は確認できなかったが、どうやらコレットの視線は窓辺に立つ革命軍の主導者へ向けられているようだった。


 いつのまにか、夜明け前の薄明かりが窓から廊下を照らしていた。セルジュは扉に背を預け、大きく深呼吸を繰り返した。

 祈るように目を閉じて、ぐっと顎を引き、気を引き締める。ふたたび褐色の目を見開くと、セルジュは目の前の大扉を勢いよく蹴破った。

 夜通しの見張りで気が散漫になりがちだったのだろう。突然の侵入者に驚いて革命軍の兵士達が身構える。

 セルジュは一切の躊躇もなく一人目の首筋を剣の鞘で薙ぎ、二人目が剣を抜く前に己の切っ先で鍔を絡め取った。弾かれた剣がくるくると回転し、天井に突き刺さる。腕を押さえて跪く兵士に見向きもせずに、窓辺の男の喉元に剣先を突き付けた。


 瞬く間の出来事だった。

 王国騎士の中でも精鋭中の精鋭から選び抜かれる護衛騎士を務めるセルジュだ。一介の騎士程度の者ならば、束になって掛かられても捩じ伏せる自信がある。

 今この瞬間、主導者の首はセルジュの手中にあった。

 だが、人質三人に対し、戦える者はセルジュひとりのこの状況は、邸内に潜む革命軍の数に対し限りなく分が悪かった。

 大勢のけたたましい靴音が、階下から、廊下から近付いて。公爵夫妻の寝室前は、すぐさま革命軍の兵士達に埋め尽くされた。

 主導者の首は手中にあれど、この数の兵士を相手に公爵夫妻とその令嬢を——コレットを無事に連れ出すことは困難に思えた。

 喉元に剣先を突き付けられたまま、革命軍の主導者が口の端を釣り上げる。

 部屋を取り囲む武装した革命軍に怯えるように、コレットが榛色の揺れる瞳でセルジュを見上げた。


「セルジュさん……」

 震える声が耳に届く。

 怯えるコレットを振り返り、セルジュはにやりと笑ってみせた。

「安心しろ。俺が道を切り拓いておいた」

 含み笑う声と同時に樹々の向こうに朝陽が昇る。

 デュラン王国正規軍の出撃を示す角笛の音が、グランセルの森に鳴り響いた。



***



 王太子ヴィルジール率いる王国正規軍は、警備主任であるデュヴァリエ副団長の指揮の元、夜明けとともにグランセル公爵邸内の革命軍を鎮圧した。

 犠牲のない迅速な対応を可能にした大きな要因は、革命軍がグランセル公爵邸の内部構造を把握しきれておらず、森に隠された地下通路からの王国軍の侵入を許したことだった。

 セルジュが公爵夫妻の寝室に乗り込み、革命軍の主導者を確保する裏側で、ロランとともに邸内に潜入した村の自警団が、人質として囚われていた階下の者たちの解放のために動いていたのだ。

 主導者を拘束され、階下の人質も解放された革命軍は、王太子ヴィルジールとの交渉の末に降伏。同時刻、王都地下に潜んでいた革命軍の本拠地を王国第四騎士団が制圧した。


 こうして、革命軍によるグランセル公爵邸襲撃事件は、無血のまま幕を下ろしたのだった。



***



 騒がしい騎士団の野営地の片隅で、村の婦人会が配給用のスープを配っていた。ふたり分のスープを受け取ると、セルジュは野営地の中心に建つ天幕へと向かった。

 デュラン王家の紋章が掲げられた大天幕。その中には今、王太子ヴィルジールと解放されたグランセル公爵夫妻、そしてリュシエンヌがいる。

 セルジュは先ほど、今回の事件に関する報告を終えてこの天幕を出てきたばかりだった。

 忙しなく動き回る人々で溢れかえった野営地をぐるりと見回すと、人混みからすこし離れた場所に、丘の上に建つグランセル公爵邸をぼんやりと見上げるコレットの姿があった。

 セルジュが足早に近付くと、砂利を踏みしめる足音に気がついて、コレットがセルジュを振り返った。

「スープを貰ってきた」

 手にしたカップを軽く掲げて見せる。コレットは小さく頭を下げて、両手で包み込むようにカップを受け取った。

 白い湯気にふうふうと息を吹きかけて、熱いスープを一口すすって。コレットはぽつりと呟いた。

「階下にいた使用人のみんなは……」

「心配ない。隠密行動はロランの本業だからな。見張りの処理なら俺よりもよほど上手くやっただろうさ」

「そうですか……」

 セルジュの答えを聞いたコレットが、ほっと安堵の息を吐く。さりげなく寄り添うようにコレットの傍に立つと、セルジュは少し躊躇いがちにコレットに尋ねた。

「どうしてリュシエンヌ様の身代わりになろうなどと無謀なことを考えたんだ」


 ——俺がどれだけ心配したと思っているんだ。

 答えはわかりきっていたから、本当に伝えたい言葉を口にすることは出来なかった。

 コレットは目を丸くしてセルジュの顔を見上げると、

「リュシーはヴィルジール殿下の婚約者だから、何かあったら大事おおごとになっちゃいますし……それに、人質になるのもある意味貴重な体験だから、小説を書くのに活かせるかなって」

へらへらと笑ってそう言ったので、セルジュはいつものように溜め息をついて、素っ気なく言い捨てた。

「お前は馬鹿か。それでお前の身に何かあれば、リュシエンヌ様は一生このことを悔いることになるんだぞ」

「そうですね、リュシーは優しいから。ごめんなさい、気を付けます」

 うなずいてそう言うと、コレットはセルジュにぺこりと頭を下げて、ちょうど天幕から出てきたリュシエンヌとジゼルの元にぱたぱたと駆けていった。


「素直じゃないですね」

 唐突に、ロランの声が響く。

 セルジュは遠ざかるコレットの後ろ姿を眺めたまま、振り返りもせずに応えた。

「何の話だ」

「リュシエンヌ様の代わりに人質になったのがコレットさんだと知ったときの貴方の顔、コレットさんにお見せできなかったのが残念だと思いまして」

「うるさい」

 セルジュが少し声を荒げてみせると、ロランはやれやれと肩を竦めて口を噤んだ。


 公爵夫妻の寝室で怯えるように震えていたコレットの声が、今になっても忘れられない。

 幼い頃のコレットをよく知るセルジュだからこそ、今もなお気丈に振る舞うコレットの性分は痛いほどにわかっていた。

 例えどんなに辛い目にあったとしても、コレットは絶対に弱音を吐いたりしない。コレットがセルジュを頼ることはない。

 改めて思い知らされたその事実に、セルジュは胸を引き裂かれるような痛みを覚えていた。


 コレットが身を呈して大切なものを守ろうとしていたときに、側にいることもできず、ちからを貸すことすらできなかった。

 そんな不甲斐ない自分が嫌で嫌で堪らない。


 青く晴れ渡った真昼の空を仰いで、セルジュは制服の胸元を硬く握り締めた。

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