第13話 好きな人とするべきだと、思うから

 窓からさす陽の光が、人気のない図書室を朱く染め上げていた。整然と書物が並ぶ本棚に背を預け、セルジュは熱い吐息を零した。

 朦朧としながら視線を落とせば、足元にはコレットが膝をついていて。すらりと伸びた指先に触れられただけで、ぞくりと背筋が震えてしまう。息を荒げながら、されるがままに床の上に腰を落とした。

 閉ざされた扉がいつ開かれて、誰が入ってくるかもわからないのに、セルジュはさらなる快感を求めていた。

 コレットの指が、セルジュの胸をシャツ越しにつとなぞる。ぷちぷちと微かな音を鳴らして、シャツの前が開かれた。

 胸元に点々と口付けながら、コレットは潤んだ榛色の瞳で悩ましげにセルジュを見上げた。セルジュの期待に応えるように、膝立ちになってセルジュの腰に跨った。スカートの裾を指先で摘まみ、ゆっくりと持ち上げていく。露わになった白い下肢から、セルジュは目が離せなかった。

 堪えきれずに手を伸ばし、スカートの裾から覗く細いリボンを紐解けば、薄布がセルジュの太腿にはらりと落ちた。

 喉の奥がごくりと大きな音をたてる。

「セルジュさん……」

 濡れた瞳でセルジュをみつめ、うっとりと瞳を伏せると、コレットはセルジュの口元に唇を寄せ、ゆっくりと腰を下ろした。



***



「……セルジュさん、セルジュさんてば」

 はっと我に返ったセルジュの瞳に、ぷくっと頬を膨らませたコレットの顔が映り込む。慌てて周囲を見回すと、既にピアノは円舞曲を奏でており、ヴィルジールとリュシエンヌがいつものように優雅に踊りを合わせていた。

「もう、リュシーが相手じゃないからって上の空なんて酷いです。ちゃんと練習に集中してください!」

「す、すまん……」

 軽く頭を下げつつ、慌てて下腹部へと視線を落とす。股間が落ち着いているのを確認すると、セルジュはほっと息をついた。


 ダンスを踊るのにもだいぶ慣れた。とはいえ、直前まで如何わしい妄想に描いていた本人が目の前にいる現状で、気不味い思いを拭えるはずもない。落ち着かない気分のまま軽く腕を広げると、セルジュは一歩前に進み出た。

 コレットがセルジュの手を握り、もう一方の手で腰に触れて身体を引き寄せる。密着した身体から、ほのかにあまい香りがした。

 気が付けば視線はコレットへと向けられていて、紅く色付いた唇に、ほっそりとした首筋に、曝け出された胸元に、図らずも眼が奪われていた。

 心臓が早鐘を打ち、頬が、身体が、かあっと熱を上げていく。

「……あれ? お腹に何か当たって……」

「すまん、急用を思い出した!」

 小首を傾げるコレットから素早く身を退け、繋いだ手を振り解くと、セルジュは一目散に舞踏室を飛び出した。

 手のひらで口を覆い、前屈みのまま廊下を走り抜ける。

 ——すべては今朝の淫夢のせいだ。

 妙に生々しくて、酷く淫らで。汗だくで目が覚めたとき、セルジュの股間は完全にそそり勃っていて、直前の夢を想いながら朝から自慰行為に勤しむ羽目になったのだ。

 情けない日常の一コマではあるけれど、いつもならそれだけで済むはずだった。しかしながら、今日のセルジュは明らかに異常だった。

 何度振り払ってもあの夢が繰り返し脳裏をよぎり、身体が熱を持つのを止められない。念のため、舞踏室に来る前にもう一度抜いてきたというのに、仄かにあまいコレットの匂いを嗅いだだけで、柔らかな身体に触れただけで、セルジュの股間は奮い立ち、欲望を訴えたのだ。


「まさか、こんな……本当に、俺はコレットあいつを……?」

 にやにやと笑うロランの顔が、セルジュの頭を掠めて消える。

 言われなくてもわかっていた。ただ、認めたくなかっただけだ。


 遠い昔に置き去りにした甘やかな感情が、軽い敗北感を押し流していく。上着の襟元を握り締め、セルジュはぐっと顔を上げた。

 ——制服の上着に感謝だ。これがなければ、昼間からおっ勃てていたことが瞬時にバレるところだった。



***



 ——今、何時だろう。

 ベッドにうつ伏せになったまま顔だけを動かして、セルジュは窓のほうへと眼を向けた。

 陽は随分前に沈んだようで、窓の外は夜の闇にすっかり染まっていた。王族の晩餐も、とうの昔に終わったことだろう。

 ヴィルジールに暇を出されてからも、セルジュは朝食と晩餐の際にだけは護衛騎士の任務に付いていた。王と王妃の手前、王太子の護衛騎士が不在であることは伏せておいたほうが良いと考えたからだ。ヴィルジールもそれには賛成のようで、今朝まで以前と同様にしてきたものの——現実には、セルジュが晩餐の際に護衛として顔を出さなくても気に掛ける者は誰もいなかったようだ。

 ベッドの上にぐったりと倒れ伏したまま、セルジュは大きく息を吐いた。

 舞踏室を飛び出したあのあと、部屋に戻って一発抜いて、それからずっとセルジュは自室に閉じこもっていた。

 晩餐の護衛に出なかったのは、単純にコレットと鉢合わせるのが怖かったからで、完全に勃起した股間を王や王妃の面前に晒すわけにはいかなかったからだ。


 どうしてこんなことになってしまったのか。

 ベッドと身体に挟まれた己の逸物がぐったりとしていることに安堵しながら、セルジュはふたたび大きく息を吐いた。

 閉じたまぶたの裏側に、最後に見たコレットの顔がふとぎる。榛色の瞳を大きく見開いて、驚いたと言うよりも心配していたようだった。

 ロランの言うとおりだった。こうなった以上、コレットにも言わなければならないだろう。「訓練は、もうやめだ」と。

 セルジュが決意した、ちょうどそのとき、小気味の良いノック音が室内に響き渡った。

 のそのそと起き上がり、重い身体を引きずって、扉の隙間から顔を覗かせる。部屋の前に、いつになく落ち着かない様子のコレットが立っていた。

「大丈夫ですか? セルジュさん」

「ああ。このとおり、問題ない」

 セルジュが軽く頷いてみせると、コレットはほっと息をついて弱々しく微笑んだ。

 ほんの少し躊躇って、セルジュは結局、いつものようにコレットを部屋に招き入れた。これが最後だと、己に言い聞かせながら。


「晩餐の警護はどうなった?」

「殿下にはロランさんが付いてましたよ。セルジュさんは元々暇を出されている身だから、体調が良くないなら気にせず休ませるようにって言ってました」

「気にせず、か……」

 皮肉な溜め息が漏れる。自虐的な気分で口の端を引攣らせていると、コレットが側にやってきてセルジュの顔を覗き込んだ。ほんのりと甘いあの香りが、ふわりと鼻を掠める。

「今日はどうしちゃったんですか? 昼間の練習のときもなんだかそわそわしてたし、すぐに帰っちゃうし……昨日はリュシーとあんなに上手に踊ってたのに……」

 言葉尻を濁らせて、コレットが視線を落とす。的確な言葉が思いつかずにセルジュが黙り込んでいると、コレットは「てへっ」と笑って顔を上げ、

「やっぱり、わたしなんかじゃセルジュさんの役には立てなかったみたいですね」

そう言って、小さく肩を竦めてみせた。

 いつものお調子者の笑顔ではない。傷付いた子供のような、弱々しい微笑みだった。


「そんなことはない!」

 考えるよりも先に口が出て、セルジュは弾かれるようにコレットの手首をひっ掴んだ。気付いたときにはすでに、コレットの身体を強引に腕の中に抱き寄せていた。

 冷静な判断などできなかった。ただ、放っておけばコレットが泣いてしまいそうな気がして。

「セルジュさん、あの……」

「おとなしくしていろ。いつもの訓練だ」

「でも、砂時計……」

 言い掛けて、コレットが口を噤む。躊躇いがちに委ねられた身体を、セルジュはぎゅっと抱き締めた。


 子供の頃——まだセルジュがコレットと出会ったばかりだった頃、コレットは内気で人見知りで、感情を表に出さない子だった。

 親の勝手で決められたとはいえ、婚約者だと言われてしまえば邪険にするわけにもいかなくて、当時のセルジュは幼いなりに気を遣い、親の用事が終わるまで忍耐強くコレットの相手をしていた。

 そうして一年近くを過ごすうちに、コレットは徐々にセルジュのことを慕ってくれるようになり、セルジュもコレットのことを大切に想うようになった。ずっと側にいると約束もしたし、騎士を目指したのだって、元を辿れば彼女のことを護りたいと思ったからだ。

 彼女はよく笑うようになった。拗ねたり膨れたりもしてみせたけれど、不思議と涙を見せることはなかったから。

 だから彼女が泣くときは、きっとどうしようもなく傷付いたときなのだろうと、そう思っていた。


 華奢な身体を抱き締める腕に、自然とちからが込められる。柔らかな亜麻色の髪が淡く香り、セルジュの鼻腔をくすぐった。

 ただ純粋に、泣かせたくないと思っただけだったはずなのに、どうしようもなく劣情が煽られる。

 ——昼間おかしくなったのは、変な夢を見たせいだ。大丈夫、慣れてしまえば問題ない。

 そう己に言い聞かせようとするものの、セルジュの意に反するように股間はむくむくと鎌首をもたげ、コレットの下腹に擦り寄っていた。

「セルジュさん……ちょっと、痛いです……」

 身動いだコレットを逃すまいと抱き寄せて、薄い肩から背中へと手のひらで撫でていく。腰から下へと向かおうとしたところで、コレットがびくりと身体を震わせて、恐る恐る顔を上げた。

「セルジュ、さん……?」

 腕の中でセルジュを見上げるコレットと視線が交わる。榛色の揺れる瞳がどこか不安を滲ませていた。

 薄紅く色づいた柔らかな唇が、夢にみた濡れた唇を想起させる。薄っすらとまぶたを伏せて、吐息を零す潤った果実のようなコレットの唇に、唇を寄せた——はずだった。


「むぐっ……」

 突然鼻と口を塞がれて、セルジュは咄嗟に目を開けた。大きく見開かれた榛色の瞳が眼に映り、次いでセルジュの顔の下半分を手のひらで覆い、後方に倒れそうなほどに上体を仰け反らせるコレットの姿が眼に入った。

 慌ててコレットの手を引き剥がし、抱き寄せた身体を解放する。

「わ、悪かった。そろそろ次の段階に進んでもいい頃だと思って……もうしないから、そんなに嫌がらないでくれ」

 おろおろとしながらセルジュが弁解すると、コレットはセルジュから目を逸らし、少し顔をうつむかせて言った。

「い、嫌じゃないです。でも、こういうことは好きな人とするべきだと、思うから……」

「——正論だ」

 ごくりと息を飲み、セルジュは一歩退いた。

 コレットはおそらく正しい。少なくとも、セルジュにはそう思えたからだ。


 コレットの価値観がセルジュのものと近しいことは、とても幸いなことだった。けれど、それは同時にセルジュの心を深い闇のどん底まで突き落とす事実でもあった。

 愕然とするセルジュに気付いてか否か、コレットはうつむいたままセルジュに訊ねた。

「あ、の……訓練って、やっぱりもするんですか?」

……?」

「その……えっちな……性的な行為というか……」

 困ったように呟いて、それからちらりとセルジュを見上げる。

 コレットの態度が最初の夜とあまりにも違いすぎたので、セルジュには解ってしまった。

 セルジュが大切に想っていたあの頃と、今のコレットは全く変わっていない。口先では調子に乗って強がっていても、相変わらず根は真面目で純情なままなのだ。


 頬を紅く染めあげたコレットがたどたどしく口にしたその言葉に、セルジュは耳を傾けた。

「せ……せっくす、とか……」

 ふっと笑いが漏れる。

「それはしない、と初めに言っただろう」

「でも……」

 セルジュは否定したけれど、コレットは下唇をきゅっと噛み締めて、そのまま視線を彷徨わせた。

 コレットが戸惑うのも当然だ。セルジュの股間が堂々と存在を主張して、ズボンの前をはち切れんばかりに突きあげているのだから。

「言いたいことはわかる。このとおり、俺の身体も女性に対して正常な反応を示すようになったしな。お前のおかげだ……などと言われても、気持ち悪いだけだろうが」

 苦笑して、セルジュは棚の上に目をやった。砂時計は昨夜時を刻み終えたそのままで、棚の上に静かに佇んでいた。

 潮時か、と溜め息をつき、セルジュはコレットに告げた。

「女性に触れても然程緊張もしなくなったし、訓練はもう必要ないだろう。今まで付き合ってくれて助かった。感謝する」

 はっと顔を上げたコレットを、有無を言わさず廊下へと送り出す。閉ざした扉に寄り掛かり、セルジュは宙を見上げた。

「好きな人と、か……」


 落ち込んでいる自分がおかしかった。

 コレットが言い返さないのをいい事に散々ひどい言葉を浴びせておきながら、キスを拒まれるとは考えもしていなかった。

 久しぶりの再会のあとも昔と変わらず懐いてくれていたから、勝手に好かれていると思っていたのだ。

 コレットは立派に良識ある女性へと成長していた。内気な少女だったあの頃とは違い、苦手だった人付き合いも見事に克服して。元婚約者というだけの赤の他人の胡散臭い訓練に、嫌な顔ひとつせずに付き合うことができるほどに。


「馬鹿か……俺は……」

 盛大な溜め息が漏れる。前髪を掻き毟り、セルジュは床に座り込んだ。

 キスを迫って、そのあとどうするつもりだったのだろう。コレットはセルジュの女性恐怖症に責任を感じて訓練に付き合ってくれていただけなのに。厚意に甘えて、勝手に欲望に駆られて、押し倒すつもりだったのか。

 いきり勃った欲望の塊を、あの華奢な身体に突き立てて、手篭めにでもするつもりだったのか。


 棚の上の砂時計をちらりと見上げる。頬を染めて困ったように俯いていたコレットの顔が、まぶたの裏に焼き付いていた。

 訓練が終わった以上、コレットがこの部屋を訪れることはなくなるはずだ。もう二度と、この腕で彼女を抱き締めることもないだろう。

 あのときセルジュが無理にでも迫っていれば、コレットはセルジュに抱かれたのかもしれない。

 けれど、それでは何の意味もない。


 コレットの言うとおり、セルジュもその行為を、愛し合うふたりだけに許される神聖なものだと思っているのだから。

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