第14話 夜会警備の打ち合わせ
懐かしい夢をみた。
たしか、セルジュがまだ子供だった頃、婚約者として紹介されてから、何度目かにコレットを訪ねた日の夢だ。
マイヤール家の執事を務めるクレマンの案内で、コレットが待つ庭園の東屋へと向かう途中、先を行くクレマンがセルジュを振り返って言った。
「お嬢様は、セルジュ様のことを随分とお慕いなさっているようですね」
唐突に朗らかな笑顔を向けられて、おまけに予想だにしていなかったことを言われて、随分と面食らったのを覚えている。
当時のコレットはとても内気で、セルジュといても何か話をするわけではなく、セルジュが読みあげる子供向けの夢物語を隣に座っておとなしく聞いているだけだった。笑った顔を見たことすらなかったから、セルジュにはクレマンの言葉が不可解でならなかった。
東屋に到着すると、いつもどおり子供用のエプロンドレスを着たコレットが、ひとりで絵本を読んでいた。
気を利かせたつもりなのか、クレマンがさっさと屋敷に下がってしまったので、セルジュはコレットの隣に座り、持ってきた本を前回の続きのページで開いた。
特に言葉を交わすでもなく、いつもどおり本を読み聞かせて、父の用事が済んだ頃合いを見計らって屋敷に戻る。その途中で、半歩遅れて隣を歩くコレットに、セルジュは訊ねた。
「お前、俺のこと好きなの?」
どうせいつもの無表情のまま、ぷいっとそっぽを向かれるのだろうと思っていた。けれど、セルジュの予想は大きく外れた。
コレットは急に足を止めると、榛色の瞳をまるくしてセルジュを見上げ、ほんのりと頬を染めて、ちょっぴり恥ずかしそうにこくりと頷いたのだ。
「へ、へぇ……そうなんだ。まぁ、一応、婚約者だしな」
急に恥ずかしくなって、セルジュはぽりぽりと頬を指で掻きながら、明後日の方向に顔を向けた。心臓がばくばくと音をたて、そわそわと落ち着かなくて、気付いたときには口元がだらしなく緩んでしまっていた。
ちらりと横目でコレットを見ると、小柄な子供の身体には大きすぎる分厚い絵本を両手で胸に抱いたまま、コレットは黙ってうつむいていた。
「……それ、重いだろ。持ってやるよ」
そう言って、半ば強引に絵本を取り上げて。右腕で本を抱えると、セルジュは左手でコレットの小さな手を取って歩き出した。
小動物のようにちょこちょこと、コレットが後をついてくる。なんだかとても嬉しくて、胸の奥がくすぐったくて。
きっと、おそらくあのときから、コレットはセルジュの『特別』になったのだ。
***
その日、いつものように訓練を終えると、セルジュは浴場で汗を流し、真っ直ぐに宿舎に戻った。
赤褐色の瞳を大きく見開いて、慌てて窓辺に駆け寄ると、セルジュは窓から身を乗り出して外の様子を確認した。
使用人らしき女の影が細い通路の角を曲がり、宿舎裏に消える。セルジュは突き動かされるように窓枠を飛び越えて、その女の影を追った。
城壁と宿舎のあいだの細い通路を駆け抜けて、植え込みが茂る宿舎裏に飛び出して。
静まり返った空き地に響く含み笑いと色めいた吐息。人目をはばかるように隠れて濃厚な口付けを交わしていたのは、年若い騎士と王城の下働きの娘だった。
音を立てないように後退り、宿舎の影に身を潜める。緊張の糸がぷつりと切れて、セルジュは壁に背を預け、草の上に座り込んだ。
——あいつかと思った。
黒檀色の髪を搔き上げて、深々と溜め息を吐く。
黒いデイドレスに白いキャップとエプロンが良く似合う、亜麻色の髪と榛色の瞳が愛らしいコレットの姿を思い浮かべ、セルジュは膝の間に首を垂れた。
セルジュがコレットと話をしたのは、訓練の終わりを告げたあの夜が最後だった。それ以来、彼女はセルジュの部屋を訪れていない。単純に、彼女がこの城で生活するうえでセルジュの部屋を訪れる必要がないというだけで、意図的に避けられているわけではないはずだ。
王太子の従者であるロランならいざ知らず、護衛でしかないセルジュが王太子の婚約者の侍女を務めるコレットと接する機会など、特別な口実でも作らない限り有りはしない。顔を合わせる機会はあっても、言葉を交わす必要がないのだ。
深く考えずに気軽に声をかければ良いのかもしれない。それなのに、セルジュはそんな簡単なことすらできなかった。
階下での食事の際に同じテーブルを囲みはしても、執事と向かい合った席に着き、コレットとロランの和やかな会話を盗み聞きするくらいのことしかできない。
なぜならセルジュは今までずっと、自分はコレットにとって大切な存在なのだと勝手に思い込んでいたからだ。彼女の
これまでの全てが、好意によるものではなく厚意によるものだったことを知って、セルジュは怖くなったのだ。
勝手な思い込みが全否定された今、一体どんな顔をして彼女に声をかければいいのか、セルジュにはわからない。
ふたたび失恋するくらいなら、いっそのことこのまま彼女に関わることなく、一方的に胸に抱いたこの想いが消えるのを待つほうがずっと良い。
「このあとはグランセル公爵邸の夜会警備の打ち合わせだったな。さっさと着替えて殿下の執務室に向かわなければ」
ぽつりと独り言ちて、セルジュはゆらりと立ち上がった。
とぼとぼと宿舎の表に向かう道すがら、見上げた空は忌々しいほどに青く晴れ渡っていた。
***
騎士団宿舎で軽い食事を取ったあと、セルジュは定刻より少し早めに王太子の執務室に向かった。
広々とした廊下を背に豪奢な扉の前に立つと、室内には既に人がいるようで、扉の向こうから微かな話し声が聞こえてきた。
ドアノックを軽く打ち鳴らし、扉を押し開ける。部屋の中をちらりと覗くと、いつもなら入口手前に置かれている応接セットが壁際まで追いやられていた。部屋の中央には会議用の大テーブルが置かれており、その上に地図と屋敷の見取り図が広げられている。
テーブル越しにヴィルジールと向かい合うロランの陰で、白いフリルのキャップがぴょこぴょこと見え隠れしていた。
「コレット……」
思わず口にした名前を、セルジュは慌てて咳払いで誤魔化した。ロランがセルジュに気が付いて顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべる。
「お待ちしていましたよ、セルジュ。以前にも増して精悍な顔つきになりましたね」
「殿下の護衛がないと何もすることがないからな。毎日ひたすらトレーニングと剣の手合わせをしていれば、嫌でもこうなる」
セルジュが自嘲するように答えると、ふたりの会話を聞いたヴィルジールが「あっ」と小さな声をあげた。
「そうだよ、忘れてた! セルジュ、もう護衛の任務に戻ってくれて良いよ。リュシエンヌ
ちらりとコレットを気にかけているあたり、大まかな事情はロランから伝わっているらしい。
セルジュが小さく頭を下げて、「えぇ、まぁ……」とうやむやな返事をすると、ヴィルジールはくすりと笑い、
「これまでどおり、よろしく頼むよ」
そう言って和かに笑ってみせた。
深々と頭を下げて、セルジュはヴィルジールとロランのあいだに立ち、テーブルの上に広げられた地図と見取り図を見下ろした。
「それで、何をお話しでしたか」
「近頃、城下で物騒な噂が流れてるみたいでね」
ヴィルジールがテーブルに両手をついて、セルジュと同じく視線を地図の上に落とし、瞳を翳らせる。ここ最近、騎士団宿舎でちらほらと耳にしていた噂話が、セルジュの脳裏を過った。
「……革命軍、ですか?」
「ご名答。さすがですね、セルジュ」
「軍とは名ばかりの小規模な組織ではあるけれど、彼らは過激派だからね」
薄く笑ってそう言うと、ヴィルジールは視線をロランのほうへ——正確には、ロランの隣に立つコレットへと向けた。
「夜会警備の打ち合わせをするにあたって、コレットさんにグランセル公爵邸について教えていただいていたんですよ」
言いながらロランがさりげなく身を引いたので、セルジュの目には嫌でもコレットの姿が映ってしまった。
いつもと変わらない黒いドレスに白いエプロン姿のコレットは、セルジュの顔を見てにこりと笑うと、グランセル領の地図の横に広げられた公爵邸の見取り図を指で差した。
「グランセルのお屋敷って面白いんですよ。外観はかの有名なブルレック城にとても似ているんですけど、構造はこっちの……」
コレットが一度口を止め、セルジュの前に身を乗り出す。テーブルの端から分厚い本を手に取ってぺらぺらとページを捲ると、セルジュが見やすいようにテーブルの上に本を広げ、
「これ! イヴェール城に倣っていて、海側だけじゃなくて森の奥に出られる脱出口もあるんです」
得意げにそう言って、海岸沿いに建つ古城の景観が描かれた図を指差した。
ブルレック城をはじめとする海沿いの城塞には、大抵の場合、城の地下から直接海に出る地下水道が設けられている。岸壁に秘密の出入り口が隠されており、有事の際には脱出口として利用されるのだ。
それに対し、イヴェール城は森と海に挟まれた丘に建つ城塞で、海に繋がる地下水道の他に、森にも脱出口が隠されていると噂されていた。
興味深い仕掛けが記された図に、思わず「ほぉ」と感心の息が洩れる。セルジュがまじまじと古城の図面に見入っていると、コレットの指差す先を覗き込むようにしてロランが口を挟んだ。
「こちらの隠し通路を知っているのは?」
「屋敷で暮らす極一部の人だけだったと思います」
「なるほど……」
「でも確か、今は封鎖されていて使われていないって話で」
ちょうどそのとき、コレットの言葉尻に被さるように執務室のドアノックが力強く打ち鳴らされた。
定刻どおり騎士団副団長と隊長各位がやってきたのだろう。ロランがテーブルを離れて扉を開くと、セルジュが考えたとおり、部屋の外には屈強な騎士たちが並んでいた。
「では、わたしはこれで……」
澄ました顔でぺこりとお辞儀をして、ちらりとセルジュを見上げると、コレットはそそくさとテーブルを離れ、すれ違う騎士たちに無言で頭を下げながら、しずしずと部屋を出て行った。
***
ヴィルジールと騎士団員の推薦で、夜会当日の警備はマリユス・デュヴァリエ副団長が指揮を取ることになった。
打ち合わせも滞りなく終了し、皆がそれぞれの持ち場へと戻ったあと、セルジュはロランとともに執務室に残り、散らかった室内を片付けていた。
参考にした地理書を図書室に返却し、地図や見取り図を片付けて、会議用の大テーブルをふたつ隣りの空き部屋に運び、応接セットを元どおりの位置に戻して。執務室がようやくいつもの姿を取り戻した頃、窓の外は夕陽で紅く染まりかけていた。
セルジュが二人掛けの応接ソファにどさりと身を沈めると、ロランも小さく息をつき、向かい合うソファにゆっくりと腰を下ろした。
「そういえば、セルジュ。コレットさんとは最近どうなっているんですか?」
「どうもなにも、訓練が終わったんだからわざわざ会う必要もないだろう」
わざとらしい質問に、セルジュの右の眉尻がぴくりと跳ねる。
「それはそうですが……」
投げやりにも聞こえるセルジュの答えを聞くと、ロランは少しばかり考え込むように口元に手を寄せて、灰色の瞳をセルジュに向けた。
「セルジュ、貴方、コレットさんのことを好きだったのでは?」
「……俺は、な。あいつが俺を好きだったわけじゃない」
「告白する前からそれですか。情けないですね」
ロランにやれやれと溜め息を吐かれ、セルジュは苦々しく口の端を痙攣らせた。
告白すればよかったのだろうかと、セルジュもあのあと何度も考えたのだ。だが、コレットのあの言葉は——コレットがセルジュに抱く感情が恋愛のそれだったなら、あのような言葉を口にしたりはしなかったに違いないと、そう思えてならなかった。
反論も何もできないままセルジュが黙っていると、さすがにおかしいと思ったのか、ロランが神妙な顔つきでセルジュの顔を覗き込んだ。
「まさか、振られたんですか?」
「……キスしようとして拒まれた」
「それは……」
ロランが言葉を詰まらせて、数秒口籠ったあと、躊躇いがちに呟いた。
「正直、意外です。コレットさんは間違いなく貴方を慕っているものだとばかり……」
「あいつが俺を慕ってくれているのは確かだ。ただ、それは恋愛感情とは違っていて……言ってみれば、俺はあいつにとって兄のようなものだっただけで……」
ありのままの事実を口にしながら、セルジュの声は微かに震えていた。厚意を好意と履き違えていた過去の自分が情けなくて仕方がない。
「俺はあいつのことを女として見てしまうし、ふたりきりになって自制できる自信もない。あまり側にいない方が賢明だろう?」
「そうですね」
即答だった。
多少の慰めくらいはあるだろうというセルジュの期待は、いともあっさりと裏切られた。
セルジュが項垂れてがっくりと肩を落としていると、ぎしりとソファが軋む音が聞こえ、ややあって柔らかい絨毯の上に艶のある革靴が映り込んだ。見上げれば、革表紙の本を手にロランが薄く笑ってセルジュを見下ろしていた。
「セルジュ、念のため、こちらを渡しておきます」
「なんだ」
差し出された本を手に取り、ぱらぱらとページを捲る。記された文字列を目で追うセルジュの耳に、ロランの爽やかな声が響いた。
「
「はぁ!?」
思わず素っ頓狂な声が洩れる。
あんぐりと口を開けて固まるセルジュをにやにやと見下ろしながら、ロランはしたり顔で続けた。
「貴方がコレットさんに本気になったなら、いずれ必要になるときがくるでしょう?」
「くッそ、馬鹿にしやがって……!」
吐き捨てるように悪態をつくと、セルジュは本を投げ捨てたい衝動をぐっと堪え、執務室を飛び出した。
背中に感じるニヤついたロランの視線が忌々しい。
大股で宿舎へ向かうセルジュの靴音が、広い廊下にけたたましく響いていた。
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