第12話 いきり勃つ半身
「すごいですセルジュさん! 見惚れちゃうくらい上手に踊れてましたよ!」
部屋に入るなり弾んだ声でそう言うと、コレットは榛色の瞳をきらきらと輝かせて賞賛の眼差しをセルジュに向けた。
およそ褒められている者には似つかわしくない仏頂面で、セルジュが不機嫌な溜め息を漏らす。
「そうか、そういうことにしておこう」
素っ気なく返してコレットに背を向けて、セルジュはシャツの襟元を荒々しく寛げた。
ダンスの練習を終えてから、ずっと胸のあたりがむかついていた。騎士団の訓練に参加して爽やかな汗を流しても、美味しい食事で空腹を満たしても、原因不明の苛立ちは一向におさまる気配がない。
うっかり口を滑らせてロランに弱みを握られてしまったことが未だに尾を引いているのか、それとも他に理由があるのか。
窓辺に突っ立ったままセルジュが頭を悩ませていると、いつの間にやらコレットが隣に立っていて、セルジュの顰めっ面をひょいと覗き込んだ。
「もしかして、ご機嫌斜めですか?」
「別に。ロランと話すのに夢中でダンスなんて見ていなかったくせに、良く口が回ると思っただけだ」
「そうそれ! ロランさんも随分と様になってますねって褒めてくれてましたよ!」
唇を歪ませて見せたものの、コレットはセルジュの皮肉など気にも留めていないようで、無邪気に手を合わせて満面の笑みを浮かべ、嬉しそうにはしゃいだ声をあげた。
あまりにも無邪気に笑うものだから、原因不明の苛立ちから八つ当たりした自分が恥ずかしく思えて。セルジュは少しばかり、先の自分の態度を後悔した。
「練習の甲斐がありましたね!」
「……ああ」
「女性にもだいぶ慣れたんじゃないですか?」
「そうだな。初めの頃は全身が嫌な汗をかいていたが、最近は若干緊張する程度で恐怖症というほど大袈裟なものでもなくなった気が……」
そこまで口にして、はたとコレットに眼を向ける。
きょとんとしてセルジュを見上げていたコレットと眼が合うと、セルジュは慌てて口を噤み、こほんと小さく咳払いした。
「だが、緊張で心拍数が上がるのは確かだ。まだ平静とは言い難い状態ではあるし、もうしばらく訓練に付き合って貰えると……その、ありがたいんだが……」
言葉尻を濁しながら片目でちらりと様子を伺えば、コレットはにっこりと笑い、軽い調子で「もちろんです」と頷いた。
「じゃあ、さっさと終わらせちゃいましょうか」
セルジュの前に身を乗り出して、棚の上の砂時計をひっくり返すと、コレットはセルジュと向かい合って軽く腕を広げてみせた。
コレットの小柄な身体に腕を回し、いつものように抱き寄せる。細い腕がセルジュの身体に伸ばされて、肩甲骨の下にそっと手が触れた。
シャツとドレスに隔てられていても、押し付けられた胸の感触が伝わってくる。眼を閉じるだけで、開かれたドレスの胸元でくっきりと谷間をつくっていた双丘が、まぶたの裏に映し出された。
訓練をはじめた当初は下心など微塵もなかったけれど、セルジュは今、自分に下心があることをしっかりと自覚していた。
問題は、それが単なる性欲によるものなのか、もっと別の感情によるものなのかが判らない事にあった。
——さっきは何故、あんなに慌てて、この訓練を引き延ばすような真似をしてしまったのだろう。
ぼんやりと考えるセルジュの脳裏に、ふたつの答えが思い浮かんだ。
ひとつは、この心地の良い感触を味わえなくなるのが惜しかったから。
もうひとつは、コレットとふたりで過ごすこの時間が無くなってしまうのが怖かったから。
とくん、と心臓が跳ねる音が、聞こえた気がした。
ほんのりと漂うあまい香りがセルジュの鼻腔をくすぐっていた。いつ頃からか、コレットのそばで感じるようになった、あの不思議な匂いだ。
「……コレット、お前、最近香水を使いはじめたりしたか?」
「わたしがそんなお洒落に気をつかうと思っていたんですか?」
「聞いた俺が馬鹿だった」
溜め息混じりに洩らすと、コレットは「へんなセルジュさん」と呟いて、くすくすと笑った。
この反応を見る限り、彼女は嘘をついていないように思える。けれど、それなら何故、こんなにも彼女の匂いを心地良く感じるのだろうか。
コレットの亜麻色の髪に、セルジュは鼻先を擦り寄せた。あまい香りは濃くなったけれど、匂いの元はそこではないようで、セルジュは誘われるようにその香りを辿っていった。
頭が朦朧として、思考がままならなくて、ひたすらにその香りを追い求めた。
——首筋……耳のあたりか?
ようやくそこへ辿り着き、セルジュはそのあまい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。一瞬、びくりと震えた華奢な身体を両腕でぎゅっと抱き寄せて——己の異変に気がついた。
背筋にぞくりと悪寒が走る。セルジュは咄嗟に腕の中にあったものを思い切り突き飛ばした。
投げ出されたコレットの身体が軽く弾んでベッドに沈む。大きく見開かれたコレットの瞳が、動揺して息を切らせるセルジュの顔を写していた。
コレットの視線が他のものを捉えようとする前に、セルジュは急いでコレットに背を向けて、慌てて声を絞り出した。
「す、すまん。突き飛ばすつもりは……」
「大丈夫です、わかってますから。リュシー相手にこういうことが起こらないようにするための訓練ですし」
ベッドが軋む音がしてコレットが立ち上がったのがわかったけれど、セルジュはもう、振り返ることができなかった。頭だけを動かして、セルジュはちらりとコレットを盗み見た。
訓練のはじめにいつもそうしているように、コレットは軽く腕を広げてセルジュのそばに立っていた。いきなり突き飛ばされてさすがに驚いたのか、その表情はどこか動揺しているようにも見える。
「もう少し、頑張りましょう?」
「い、いや……今夜はもういい。明日、また頼む」
セルジュが答えると、コレットはほんの少し沈黙して。それからまたいつものように、にっこりと笑って言った。
「わかりました。おやすみなさい」
ぱたん、と扉が閉められた。
コレットが部屋を出たのを確認すると、セルジュは大きく息を吐き、胸をなでおろした。
心臓がばくばくと音をたて、熱をあげた全身が汗をかいていた。馬鹿みたいに顔が熱くて、恐る恐る視線を落とすと、服を着ていてもわかるくらいに股間の部分が膨らんでいた。
ズボンの前を寛げて——セルジュは絶句した。
熱を帯びた逸物が、獰猛な獣のようにぶるりと身を震わせる。解き放たれたセルジュのそれは、まるで淫夢をみた翌朝のように、はちきれんばかりにいきり勃っていた。
***
蝋燭の明かりが灯る廊下にけたたましいノック音が響く。王城の居館の一角、整然と並ぶ部屋の扉のひとつに、セルジュは今、必死の形相で齧り付いていた。
形振り構わず助けを求めてここまで走ってきたというのに、部屋の主は一向に反応を示さない。痺れを切らしたセルジュが扉を蹴破ろうと脚をあげたところで、かちゃりと澄ました音をたて、部屋の扉がようやく開かれた。
不快に歪んだ顔を扉の隙間から覗かせたのは、寝間着に着替え、すっかり寝ぼけ眼のロランだった。
「誰ですかこんな夜中に」
「俺だ、話がある。部屋に入れてくれ」
野太い声でそう告げると、セルジュは返事も待たずにロランの部屋に押し入った。
ロランは露骨に嫌な顔をしてみせたが、いきり勃ったセルジュの股間に気がつくと、嫌悪感を露わに部屋の奥まで後退った。
「うわっ、なんですかそれ。気持ち悪い」
「う、うるさい! 萎えるのを待っている余裕がなかったんだ」
怒鳴るようにそう言って、セルジュはこれまでの経緯——いつもの訓練で気付いたら勃起していたこと——を掻い摘んでロランに説明した。
ロランは話を聞き終えると、やれやれと肩を竦め、ベッドの柱に寄り掛かるようにして腕を組んだ。
「まあ、その様子なら女性恐怖症は治ったと思って良いのではありませんか?」
「治った途端にこれは異常だろう。リュシエンヌ様の前でこんなことになったらどうすれば良いか……」
天に向かって聳り立つ逸物を忌々しく一瞥し、セルジュは頭を抱えてうずくまった。ロランはしばらくのあいだ、いつになく弱腰のセルジュを憐れむように見下ろしていたものの、やがて溜め息混じりにセルジュに告げた。
「とりあえず、コレットさんとの訓練は終わりにしたほうが良いでしょうね」
尤もらしく告げられて、セルジュの身体がぴくりと動く。怯えるようにロランを見上げたセルジュの顔には、明らかな動揺が浮かんでいた。
「まさか、続ける気だったのですか?」
ロランが呆れた声を出す。
ロランの指摘は納得のいくものに違いなかったが、セルジュはすぐにうなずくことができなかった。狼狽えながらもなんとか頭を整理して、ようやく事態を飲み込んだ。
「……いや、そうだな。女性の前では勃たないから安心して部屋に呼べたんだ。こうなってしまっては今までのようにはいかないな」
セルジュがちからなく呟いて、床の上に腰を下ろす。
大切な何かを取り上げられてしまったようで、張り詰めていた気が抜けて、全身が脱力していた。意気揚々と己の存在を主張していた股間も、いつの間にかなりを潜めていた。
「しかし、恐怖症が治ったと思ったら、今度は女性を抱き締めるだけで勃つなんて、貴方も見境のない男ですね」
「好きでこうなったわけじゃない!」
ロランに見下すように告げられて、セルジュは勢い良く噛み付いた。
見境がないと言われてしまえばそうかもしれないが、セルジュだって誰彼構わずおっ勃てているわけではない、と思いたい。
昼間にはあのリュシエンヌと身体を密着させて踊ったけれど、何事もなく済んだのだ。香りたつような色香にも、押し付けられた豊満な胸の感触にも、セルジュの股間は全く反応しなかった。それなのに。
「もしかして……」
顔をあげ、セルジュは眼を見開いた。
ほんのりと頬を染めてセルジュを見上げるコレットの顔が、鮮明に脳裏に浮かぶ。誘うようなあまい香りも、セルジュの身体にまだ微かに染み付いているような気がした。なによりも、抱き寄せた柔らかなあの感触を、両腕がまだ覚えている。
「なんですか?」
「……その、特定の相手にだけ勃つ、なんてことは、あり得るのだろうか」
躊躇いがちにセルジュが問うと、ロランは目を丸くして、手のひらで口元を覆い隠した。
「さあ……どうでしょうね。男なんて触られれば勃つ生き物ですが、貴方の場合はそうではないようですし」
含みのある物言いでそう呟いて、整った唇の端を吊り上げる。訳知り顔でにやにやと笑うロランを、セルジュがジロリと睨み付けた。
「……何が言いたい」
「言わないとわからないんですか?」
揶揄うように告げられて、セルジュはくっと歯を食いしばった。膝に手をつき、勢い良く立ち上がる。
これ以上居座ったところで揶揄われるだけな気がして。
セルジュは「邪魔したな」と吐き捨てると、元来た廊下を寄宿舎に向かって歩き出した。
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