第10話 おっぱいと円舞曲

 翌日、いつもどおりに午前の任務を終えたセルジュは、騎士団の制服に着替え、麗らかな午後の陽があふれる渡り廊下を抜けて、王城の一階にある舞踏室へと向かった。

 パーティー会場に使われる大広間をそのまま小さくしたような室内は、床も柱も真白な石材で造られており、天井には咲き乱れる花模様の緻密な彫刻が施されていた。日中であることから豪奢なシャンデリアは明かりを灯しておらず、その代わりに背の高い窓からさす陽の光が磨き上げられた床石を輝かせている。花台やマントルピースに置かれた花瓶には色鮮やかな花々が飾られており、柱に巻き付いた蔦植物が可憐な小花を咲かせていた。広々としたホールの一角には純白のグランドピアノが置かれていて、すでに楽師らしい女性が席に着き、腕慣らしに軽やかな旋律を奏でている。


 美しく響きわたる透明な音色に耳を澄ませていたところで、ぽんと背中を叩かれて。慌てて振り返ったセルジュの眼に映ったのは、ロランを従え、略式の礼服を身に纏ったヴィルジールだった。

「おはよう、セルジュ」

 上機嫌でそう言うと、ヴィルジールは壁際に置かれたカウチソファにゆったりと腰を下ろした。

「おはようございます、殿下。本日は訓練に同席させていただき、誠に恐縮です」

「そんなにかしこまらなくていいよ。ダンスの練習なんておまけのようなものだもの。ああ、はやくリュシエンヌの夜会服姿をこの眼に焼き付けたい……!」

 セルジュの挨拶をさらりと受け流し、ヴィルジールは宙をみつめて期待に瞳を輝かせた。

 才知に長け容姿も美しいヴィルジールは国中の女性の憧れの的だというのに、セルジュやロランの前ではその麗しい姿は見る影もない。今日もまた目の前で惚気られるのかと思いながら、セルジュは苦々しく口の端を上げた。

「それでは、何かご用命がございましたら使いのものを寄越してください」

 軽く一礼してそう告げて、ロランがつかつかと靴音を響かせて扉へ向かう。同時に両開きの扉が廊下側から開かれて、ロランと入れ替わるようにして、夜会服を身に纏ったリュシエンヌが部屋に入ってきた。


 艶やかな夜会用のドレスで着飾ったリュシエンヌは、いつもの露出の少ないドレス姿と比べ、いっそう輝いているように見えた。煌びやかな宝石やレースの装飾が施された胸元は大きく開かれており、豊満な胸によってつくられた谷間が大胆に晒されている。けれど、恥じ入ることなく優美に振る舞うその姿からは微塵もいやらしさを感じられず、それどころか、凜とした表情も相まって、王侯貴族の令嬢らしい気高さを放っていた。

 薔薇の刺繍が施された光沢のある真紅のドレープドレスを揺らし、ヴィルジールの前に進み出ると、リュシエンヌは優雅にお辞儀をしてふわりと微笑んだ。

「お待たせして申し訳ございません、殿下」

「いや、全く構わないよ」

 ヴィルジールがリュシエンヌの手を取り、ほっそりとした指先に唇を寄せる。その光景は、まるで美男美女の恋人たちを描いた一枚の絵画のようにセルジュの目に映った。

 セルジュがふたりの様子をぼんやりと眺めていると、不意に上着の裾をつんと引っ張られた。

「なーに鼻の下伸ばしてるんですか」

「はなっ……伸ばしてなんか……!」

 咄嗟に手のひらで鼻と口を覆い隠し、セルジュが振り返ると、そこにはリュシエンヌと同様に夜会用のドレスで着飾ったコレットが立っていた。セルジュと目が合うと、コレットは少しはにかむようにして、にっこりと微笑んだ。


 リュシエンヌの人目をひく鮮やかな真紅のドレスと違い、コレットは落ち着きのある深緑のドレスを着ていた。複雑に編み込んだ亜麻色の髪を襟足でシニョンにまとめており、肩や胸元が夜会服のそれらしく大胆に露出しているせいか、普段の彼女とは大きく印象が違って見える。浮き出た鎖骨とほっそりとした首筋が大人の女性のような色香を仄めかせて、くっきりと谷間をつくる柔らかな双丘に思わず視線が奪われた。

 今までセルジュは全く意識していなかったが、コレットは細身なわりに胸があるようだ。


「いいじゃないですか。リュシーは同性のわたしから見ても魅力的ですし、セルジュさんは健全な男性なんですから、女の子のからだに興味を持ったって何もおかしくありませんよ」

 にこにこと笑いながらそう言うと、コレットは不思議そうに小首を傾げ、一点を注視したまま動かないセルジュの視線の先を目で追った。

 ハッと我に返り、セルジュは慌ててリュシエンヌのほうへと目を向ける。

「しかし驚いたな。今日のリュシエンヌ様はいつにも増してお美しい」

 素知らぬふりでそう呟くと、コレットは恨めしげに目を据わらせて、拗ねるように呟いた。

「セルジュさんて、おっぱいが大きい女性が好きなんですか?」

「おっ……お前はまた、そういうはしたない言葉を……!」

「図星ですか」

「違っ……何を根拠にそんなこと……」

「だって今、わたしのおっぱいとリュシーのおっぱいを見比べてたじゃないですか。そりゃあ、リュシーと比べられたらわたしに勝ち目なんてありませんけど、わたしも一応女の子なので傷付きますよ」

「馬鹿を言うな」

 厄介払いをするように言い捨てて、セルジュはぷいと顔を背けた。見比べてはいなかったとはいえ、本人に直接「お前の胸を見ていた」などと言えるはずもない。頬を膨らませるコレットを横目に、どう弁解するべきか、セルジュは思考を巡らせた。


 確かにリュシエンヌの胸は豊満で見るからに柔らかで、手のひらに収まりきらない膨らみは多くの男を虜にすることだろう。けれどもセルジュの個人的な趣味で言えば、手のひらにちょうど収まるくらいのコレットの胸のほうが、現実味があるせいか余程興味が引かれるし、なんなら触れてみたいとさえ思う。

 と、そこまで考えて、セルジュはぶんぶんと首を振った。このような卑猥な考えを抱くこと事体、本来のセルジュにはあり得ないことだ。


「……人の身体的特徴を比較するような無粋な真似はしない」

 取り繕うように呟いたところで、その言葉尻に被せるようにゆったりとした円舞曲の演奏がはじまった。

 ヴィルジールとリュシエンヌが美しいピアノの旋律に合わせてホールの中央へと躍り出る。ふたりが緩やかにステップを踏み始めたところで、コレットが振り返り、セルジュを見上げた。

「さあ、わたしたちも踊りましょう」

 そう言って軽く礼をとり、両腕を広げると、コレットはそのまま動きを止めて、セルジュのホールドを待っているようだった。

 ヴィルジールとリュシエンヌをちらりと見やり、セルジュが小さく息を呑む。コレットとのやり取りに気を取られて、セルジュはふたりが踊り出す瞬間を見ていなかった。ヴィルジールの動きをしっかりと目に焼き付けておかなければならなかったのに、肝心なところを見逃してしまったのだ。

 ダンスなんて、手汗を馬鹿にされたあのときが最初で最後、一度もまともに踊ったことがないというのに。

 一向に動こうとしないセルジュを不思議に思ったのか、コレットがきょとんと小首を傾げる。

「……踊れない」

 セルジュが苦々しく呟くと、コレットは目を丸くしてセルジュの顔を覗き込んだ。

「どういうことですか?」

「踊り方がわからない。ダンスをまともに踊ったことがないんだ。言っただろう、手汗が気持ち悪いと言われて以来、屋敷に引き篭もっていたと」

「初耳ですけど」

 正直に打ち明けたセルジュに対し、コレットが真面目くさった表情で即答した。

「……くそっ!」

 手汗が気持ち悪いと笑われたことも、それが原因で引き篭もっていたことも、コレットにはまだ話していなかったことに、セルジュは今更ながらに気が付いた。恥ずかしい過去を自ら曝露してしまい、これ以上ない屈辱に身悶えする。


 握り締めた拳をわなわなと震わせていると、セルジュの耳の奥でくすくすと嘲け笑う女の声が響いた。

 それがコレットのものなのか、あのときの幻聴なのか、セルジュにはもう判別がつかなかった。

 胸の奥がじくじくと痛み、目を見開いているはずなのに視界が真っ黒に塗り潰される。動悸があがり、嫌な汗が首筋を、背筋をつたう。

 セルジュが一歩後退った、そのときだった。


 震える拳が柔らかな温もりに包まれて、瞬く間に視界が晴れた。次の瞬間セルジュの目に映ったのは、困ったように微笑んだコレットの顔だった。

「さっきの険しい視線はおっぱいを見てたわけじゃなくて、踊れないことを言い出せなくて困ってたんですね」

 そう言って、コレットがくすりと笑う。

 不快な思いが一瞬で霧散して、その代わりに頬がかっと熱くなっていくのを、セルジュはまざまざと感じていた。

 コレットの導き出した答えがあらゆる意味でこれ以上ない都合の良いものだったので、セルジュは取り敢えずうなずいて、そういうことにしておいた。

 セルジュがほっと胸を撫で下ろしていると、コレットが一歩前に踏み出して、セルジュの右手を自分の背中に回し、左手を握ってセルジュの顔を見上げた。思わず一歩退きそうになり、セルジュは慌てて踏み止まった。

「な、なにを……」

「なにって、練習ですよ。わたしが教えますから、ちゃんと覚えてくださいね」

 そう告げるとすぐに、コレットはセルジュの身体の右側にぴたりと身体をくっつけた。


 昨日、夜の訓練で抱き締めたときは、あれほど心地よく感じたというのに、今、セルジュの喉は緊張でからからに渇いていた。初めて手を握ったときのように心臓がどくどくと胸を打つ。ふと目線を下げると、無意識にコレットの胸の谷間に目が奪われて、セルジュは慌てて亜麻色の髪の旋毛つむじを注視した。

「左足を一歩前に出して右足に体重を移動して、それから左足を揃えて、今度は右足を一歩下げて……」

 丁寧に説明しながら、コレットがゆっくりとステップを踏んでみせる。たどたどしく足を動かして、セルジュは必死にコレットに動きを合わせた。周囲の音はなにも聞こえず、拍子を取るコレットの声だけが耳の奥まで響いていた。

「ピアノの音を聴いて。セルジュさんは運動神経が良いから、殿下の真似をしていればすぐに上手に踊れるようになりますよ」

 ぎこちない動きで足を引きずるように踊るセルジュに根気よく付き合いながら、コレットがちらりと目を逸らす。視線の先を追いかけると、相変わらず優雅に踊り続けるヴィルジールとリュシエンヌの姿があった。

 大きく足を踏み出しながらも軸のぶれないヴィルジールの正確な動きを、セルジュは食い入るように目で追った。一定のリズムで動かし続けていた足を見様見真似で動かして、ぐっと足を踏み出したところで、コレットが小さく悲鳴をあげた。

「わっ……」

 セルジュの脚がドレスに巻き込まれ、バランスを崩したコレットがつんのめる。倒れかけたその身体を、セルジュは慌てて抱き止めた。

「す、すまん、調子にのった」

 コレットを腕に抱いたままセルジュは足元まで視線を落とし、ドレスの無事を確認した。破れでもしたら大変だと焦ったものの、とくに損傷は見られず、ホッと息をついて顔を上げて——セルジュは思わず息を飲んだ。


 大きく見開かれた榛色の瞳にセルジュの顔が映り込む。薄っすらと頬を染めたコレットの潤んだ瞳に、セルジュは抗いようもなく目を奪われていた。

 みつめあったのはほんの一瞬で、コレットはすぐに顔を伏せると、ぱっとセルジュから身を遠ざけた。

「せっ……セルジュさんは背が高いから、わたしが相手だと踊りにくいでしょうけど、リュシーとならもっと楽に踊れると思いますよ」

 珍しくぎこちない笑顔でそう言うと、コレットはこほんと咳払いをしてセルジュと向かい合い、はじめにそうしたように軽く腕を広げた。


 ピアノの演奏はいつの間にか終わっていたけれど、ヴィルジールとリュシエンヌが退室したあとも、セルジュはそのままコレットと練習を続けた。

 頭の中で、ゆったりとしたピアノの旋律がいつまでも円舞曲を奏でていた。

 

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