第9話 ぎゅってしちゃっていいですよ

 城の使用人と階下で夕食を終えたあと、セルジュは真っ直ぐ騎士団宿舎に戻った。夕食をとるのはいつも護衛を終えてからで、食事の時間を共にする仲間は少なかったこともあり、セルジュが宿舎で夕食を取らなかったことに関して気に掛ける者はいなかったようだ。

 厨房でコップ一杯の水を飲み、二階奥の自室に上がる。上着を脱いでベッドに腰掛けると、セルジュは手脚をぐんと伸ばし、全身の筋肉をほぐした。


 今夜の夕食の席でのことが何度か脳裏を過る。多少の緊張はあったものの、女性に話しかけられて嫌な汗をかくことも、挙動がおかしくなることもなかったような気がする。

 コレットは毎晩の訓練に効果があるとは思っていなかったようだが、実を言えばそれはセルジュとて同じことで、勢いで始めてしまった訓練に効果があったことにセルジュ自身も驚いていた。

 毎晩部屋に呼びつけておきながら自分では何の努力もしていなかったことが知られてしまい、コレットに今後の訓練を断られる可能性は大いにあった。けれど、効果があると判れば話は別だろう。以前にも増してやる気を見せていたようだし、今夜の訓練もいつもどおり出来るはずだ。


 小さく息を吐いて手のひらをみつめていたところで、いつものように扉を叩く音が響いた。

「早かったな」

 口にしながら扉を開き、セルジュは一瞬、息を詰まらせた。

 頬を上気させて息をきらせたコレットが、榛色の瞳をきらきらと輝かせてセルジュを見上げている。たじろいだセルジュを押し込むようにして部屋に入ると、コレットは興奮をきたしたまま声を弾ませた。

「聞いて驚いてください! 女性恐怖症克服訓練にリュシーも参加してくれることになりました!」

「なっ……!」

 思わず扉のほうを確認してしまったが、扉の向こうにリュシエンヌの気配はない。動揺を隠せないままコレットに目を向けると、セルジュに躙り寄りながらコレットが言った。

「王太子殿下とリュシーの婚約お披露目パーティーに向けて、明日からダンスの練習をすることになってるんです。事情を説明したらセルジュさんにも練習に参加して貰ったらどうかしらって、リュシーが……!」

 事態を飲み込めずに目を白黒させているセルジュを他所に、コレットは話し続けた。

「わたし考えたんですけど、セルジュさんの女性恐怖症で任務に支障が出るのって、殿下の側にリュシーがいるからじゃないですか」

「まあ、確かにそうだな」

「ということはですよ? リュシーに触れても平然としていられるようになれば、実質上女性恐怖症を克服したも同然ってことになりませんか?」


 なるほど、とセルジュは思った。

 確かに、現状問題になるのは護衛対象の側にリュシエンヌが存在することで正常な判断が出来なくなることだ。王太子の護衛騎士の任務にはその婚約者の護衛も含まれることを考えれば、護衛対象に触れることすらままならないのでは如何ともし難い。

 逆に考えれば、リュシエンヌに触れることさえできるのならば、通常の任務に支障はないと言えるのかもしれない。


「……手を繋ぐのにもだいぶ慣れてきたし、丁度いいかもしれないな」

「じゃあ、決まりですね!」

 セルジュが呟くと、コレットは口元で両手を合わせて瞳を輝かせた。

 子供のようなはしゃぎようにやれやれと一息吐いて、セルジュは軽く頷いてみせた。



***



「はい、どうぞ」

 部屋の中央でセルジュと向かい合い、コレットが両腕を広げて言った。行き場のない右手のひらを握り締め、机に置かれた砂時計をちらりと見やり、セルジュは片方の眉尻を吊り上げた。

「なんのつもりだ」

「なにって、訓練の続きですよ。ダンスの練習をするならリュシーと密着するのは必然なんですから、女性を抱きしめるくらいのことはできないと」

 にっこり笑ってそう言うと、コレットは一歩前へと踏み出した。

 恥じらいもなく平然と「抱きしめろ」などと要求するとは、相変わらずコレットの言動は品位に欠けている。セルジュの眉間に深々と皺が刻まれる。大袈裟な溜め息がひとつ溢れた。

 だが、コレットの言うことは尤もでもあった。

 子供のお遊戯ではあるまいし、婚約披露パーティーのダンスで手を繋いで終わりのはずもない。身体を密着させるほどではなくとも至近距離で向き合うのは必然で。護衛の任務も考慮すれば、いざというときに女性を抱き上げる程度のことが出来ないようでは話にならない。


 ごくりと息を呑み、セルジュはコレットに歩み寄った。

 隣に並んで歩いたことは何度もあった。至近距離であることに違いはないのに、向かい合っているだけで全く心境が違っていた。身長差があるおかげでお互いの顔のあいだに距離はあるが、改めてみつめられると妙に落ち着かない。

 緊張で強張る身体を無理矢理に動かして、セルジュは恐る恐るコレットの身体に腕を回した。手を繋ぐことでコレットに触れるのにも随分慣れたと思っていた。けれど、いざこうして触れてみると、コレットの小柄な身体は思っていた以上に華奢で柔らかで。セルジュの心臓は大袈裟に暴れ出し、内側から痛いほどに胸を打ち付けた。


 ——冷静になれ。相手はコレットだぞ。

 胸の内で己を叱咤して、セルジュは平静を取り戻すために、少年の頃からそうしてきたように、知り得る限りの筋肉の名を脳内で羅列した。

 大胸筋、小胸筋、前鋸筋ぜんきょきん、広背筋——。

僧帽筋そうぼうきん、三角筋、上腕二頭筋……」

「何ぶつぶつ言ってるんですか?」

「……いや、些か冷静になろうかと」

 いつの間にか声に出していたことに気が付いて、セルジュは視線を泳がせた。くすりと笑う声がして、コレットがセルジュの身体にぴたりと身を寄せる。細い腕が背中に回され、分厚い胸板に頬が触れて。亜麻色の髪がほんのりと甘く香り、セルジュの鼻腔をくすぐった。


 庭園で失態をおかしたときは、リュシエンヌに触れられただけで反射的にその手を払い除けてしまったのだから、抱き付かれようものなら突き飛ばしてしまうのではないかと思っていた。けれど、実際に女性コレットに触れられてみると、あのとき感じたような嫌悪感は全く覚えなかった。

 ただ騒がしく暴れる心臓の音をコレットに聞かれてしまいそうで、それだけがひたすらに恥ずかしくて。

 羞恥と緊張で流れた汗がセルジュの背筋をつたう。湿ったシャツをなぞるように、コレットの指がセルジュの背中をつと撫でた。

 ごくり、と大きく喉が鳴った。

「……もっとぎゅってしちゃっていいですよ」

「う、うるさい、黙ってろ」

 怒鳴るようにそう告げて、セルジュは恥ずかしさを誤魔化すようにコレットを抱き寄せた。

 今にも爆ぜてしまいそうなセルジュの心臓の音が聞こえているのだろう。コレットは宥めるようにセルジュの広い背中を優しくさする。繰り返し繰り返し、ゆっくりと。

「大丈夫です、セルジュさん。そう、肩のちからを抜いて……大丈夫ですから……」

 まるで小さな子供に言い聞かせるような微かな囁きが耳を掠める。

 何が大丈夫なのか、説得力などかけらもなかった。けれど、何度も言い聞かされているうちに不思議と気分が落ち着いて。

 セルジュはいつしか、この状況に安らぎを感じはじめていた。

 

 さらさらと時の砂が零れ落ちる音が、静寂に包まれた室内に心地良く響いていた。

 このまま永遠に砂がなくならなければいいのに、と。そんな思いがほんの一瞬、セルジュの脳裏を掠めて消えた。



***



「……セルジュさん」

「ん……?」

「そろそろ時間かも」

 コレットの言葉の意味を、セルジュはすぐには理解できなかった。

 ほんの少しの間をおいて、ハッとして机の上に目を向ける。砂時計の砂は既に落ち切っており、腕の中を見下ろすと、セルジュの分厚い胸板にぴたりとくっついたまま動かない——いや、正しくは動けないのだろう——コレットの亜麻色の頭があった。

 慌てて腕のちからを緩めてやると、コレットは胸のあたりに手をあてて、ほうっと小さく息を吐いた。

「す、すまん。考えごとをしていた」

「筋肉のことですか?」

「……まあ、そんなところだ」

 思いのほか抱き心地が良くて意識がとんでいたとは流石に言えず、セルジュがぶっきらぼうに言い放つ。

 くすくす笑ってセルジュから距離を取ると、コレットは乱れた髪を整えた。


 コレットの小柄な細い身体は、ぱっと見ではあまり肉付きが良いようには見えない。けれど、さきほどまでセルジュが腕に抱いていた身体はほどよく柔らかく、ほんのりと香るあまい匂いも相まって、非常に手放し難いものだった。

 未だ心地よい感触ののこる両腕をぼんやりと見下ろしながらそう考えて、セルジュは己のとてつもなく恐ろしい思考にぞっとした。

 ぶんぶんと首を振り、この異様な気分を変えようと慌てて口を開いた。

「そ、そういえば最近、昼間に見かけないな」

 ここ数日を振り返ってセルジュが言うと、コレットはぱちくりと眼を瞬かせ、あっけらかんと笑って言った。

「ロランさんから聞いてませんか? このあいだ書類整理のお手伝いをしてから是非にって頼まれて、しばらく資料室の整理をお手伝いすることになったんですよ」

 ようやく落ち着いて行儀見習いに打ち込みはじめたのかと思いきや、まさかロランにまでちょっかいを出していたとは。

 セルジュの眉間に深々と皺が刻まれる。訝しむように目を細め、セルジュはコレットに問い質した。

「ロランの手伝いってお前……ふたりきりだからって変なことしてないだろうな」

「そこは、って訊くところじゃありません?」

「どう考えてもお前がする側だろうが」

「ひどい」

 セルジュの仏頂面を前に、コレットは悪びれもせずぷくっと頬を膨らませた。唇をちょっぴり尖らせて、尚も眉を顰め続けるセルジュを上目遣いでじっとみつめて。

「心配しなくても真面目にやってますってば」

 そう言ってふふっと笑う。


 確かに、ロランの前でのコレットは慎ましく気が利いていて、優秀な秘書さながらの働きぶりだった。王太子の執務室での様子を思い出しながら、セルジュは納得して頷いた。

 そもそも、ロランはセルジュよりもずっと女性の扱いに慣れている。コレットが思わせぶりな行動をしたところで気にも留めないはずだ。

 そう考えて、これまで何度か目にしてきたふたりのやり取りを思い浮かべ、セルジュはふと眼を瞬かせた。

「……お前、ロランが好きなのか?」

 その問いは、無意識にセルジュの口を突いて出た。

 先刻の夕食の席で、嫌に親しげに話をしていたふたりの様子を思い出す。

 コレットがセルジュの前とロランの前で態度を変えているのは、単にセルジュが既知の仲だというだけではないのかもしれない。好きな相手に良いところを見せたい、情けないところは見せたくない。そう考えることに、男女の違いはないはずだ。


 唐突なセルジュの言葉に、コレットはしばらくのあいだ目を丸くして、ぽかんと口を開いていた。

「好きか嫌いかで言えば、好きの方に該当しますけど……」

 困ったように呟いて。その表情に、悪戯な笑みが浮かぶ。

「もしかしてセルジュさん、妬いてるんですか? 実はわたしのこと好きだったりして」

「それはない」

 揶揄うようなコレットの言葉を、セルジュはきっぱりと切り捨てた。

「即答かぁ」

 コレットが愉しそうに笑う。後ろめたいことなど欠片も感じさせない無邪気な笑顔に、セルジュは何故だか胸を撫で下ろしたい気分になっていた。

「毎日のように付き纏われていたのに急に姿を見せなくなったから気になった。それだけだ」

 溜め息交じりにそう言って「さっさと帰れ」と手を振ると、コレットは「はぁい」と軽い返事をしてドアノブに手を掛けた。そしてセルジュを振り返り、にっこりと笑って告げた。

「明日のダンスの練習、楽しみですね」

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