第6話 意外な一面
青々と広がる空の下、空を切る剣の音と威勢の良い男達の声が訓練場に響き渡る。
騎士団宿舎の痴女事件から数日が経つ。未だ王太子から護衛騎士の件に関する返答はなく、セルジュは持て余した暇を埋めるように訓練に明け暮れる日々を送っていた。
護衛騎士の任に就いてから一日の訓練に費やす時間が減った為、身体が
剣を下ろして額の汗を拭い、セルジュは小さく息を吐いた。
連日の夜の訓練も順調だ。最近はコレットの手を握っても以前ほど手汗をかくことはない。相変わらず気まずい沈黙が続くことは多いものの、その時間に息苦しさを感じることも、手を握ることで異様に緊張したり動悸が上がることも殆どない。このままいけば、女性恐怖症の克服も本当に夢ではないのかもしれない。
微かな希望を胸に抱きながら剣の手入れを終え、セルジュは居館の壁面に連なる窓を見上げた。
いつもなら、このあとも騎士団の面々との手合わせで昼過ぎまでみっちり訓練を続けるところだが、生憎今日は予定がある。王太子不在の執務室で書類の整理を任されているロランが、護衛の任が無いのならとセルジュを手伝いに呼んだのだ。
剣を鞘に納め、武器棚に立て掛けると、セルジュは大きく伸びをしながら騎士団宿舎の自室に向かった。
木製の扉を押し開けて、騎士団宿舎の廊下へと入る。一歩足を踏み出すたびに傷んだ床板が軋み、薄暗い廊下にぎしぎしと音を響かせた。
食堂を兼ねた広間の前を早足で通り過ぎ、真っ直ぐに浴場へと向かう。汗に濡れた身体を熱い湯で流し終えると、セルジュは湯上がりの水分補給に食堂へと向かった。
誰もいない厨房でコップ一杯の冷水を飲み干し、ふっと息をつく。もう一度食堂へ顔を出したところで微かな違和感を覚え、セルジュは窓辺へと目を向けた。
高い窓から柔らかな陽が射す窓際のテーブルに、椅子に掛けて刺繍をするコレットの姿があった。セルジュの視線に気がつくと、彼女はぱっと瞳を輝かせ、はにかんだ笑みを浮かべた。
「訓練お疲れ様です」
針を動かす手を止め、刺繍枠をテーブルに置いて席を立つと、コレットはぱたぱたとセルジュに駆け寄ってきた。
痴女騒ぎのときと言い、屈強な男達が暮らす騎士団宿舎に女ひとりでやってくるとは。辺境伯令嬢とはおよそ思えないコレットの無防備な行動に、セルジュは若干の眩暈を覚えた。
「また侍女の仕事をさぼっているのか」
「失礼なひとですね。前にも言ったじゃないですか。取材ですよ、取材」
「リュシエンヌ様の許可はいただいているんだろうな」
「勿論です。……というか、今日はジゼルだけで充分みたいなので」
言われてセルジュは思い出した。コレットが暇を持て余している理由は、ロランが王太子の執務室で書類の整理を任されている理由と同じだ。
この日、リュシエンヌはヴィルジールと共に王妃が暮らす西の館を訪れていた。王妃の部屋で過ごすなら落ち着きのないコレットを置いていくのも納得がいく。
セルジュがひとりで頷いていると、怪訝な顔でその様子を見ていたコレットがセルジュの顔を覗き込んだ。直立していても頭ふたつぶんは身長差があるというのに、わざわざ身を屈めて腰の後ろで手を組んで。
コレットの榛色の瞳にセルジュの愛想の無い仏頂面が映り込む。
「セルジュさん、訓練終わったんですよね?」
「終わった。だが、お前の相手をしている暇はない」
「むう……相変わらずつれないですね」
唇を尖らせて、コレットは不服そうに眉尻を上げる。拗ねるコレットに構うことなく背を向けると、セルジュはさっさと食堂を後にした。
シャツのボタンを留め、襟元を整えながら足早に廊下を進む。床板を軋ませるセルジュの荒々しい足音に混じって軽い靴音がついてくる。
「何も今でなくとも、夜に話せば良いだろう」
「いつもさっさと帰れって言う癖に」
軽く息を弾ませるコレットの言葉に思わず溜め息が洩れた。
「どこに行くんですか?」
「王太子殿下の執務室だ。ロランの書類整理を手伝う約束になっている。良いからお前は部屋に戻れ」
集る虫を払うかのように手のひらを軽く振って、セルジュはさらに歩調を早め、長い渡り廊下を進んだ。
***
荘厳な装飾の施された扉の前に立ち、金属製のドアノックを打ち鳴らす。広い廊下に心地良い鐘に似た音が響き、程なくして重い扉が開かれた。
顔を覗かせた赤銅色の髪の青年は、セルジュの顔を見て灰色の瞳を細め、僅かに口の端を吊り上げると、怪訝な表情でセルジュの隣を見下ろした。
「遅かったですね。理由はなんとなく把握できましたが」
「……すまん、色々と試みたが無理だった」
隣に立つコレットを一瞥し、セルジュはロランに頭を下げる。この部屋に至るまで、セルジュは入り組んだ廊下を速足で移動し、ときにはわざと道を違えたり身を隠したりと手を尽くしたものの、コレットの追跡能力は猟犬並みで、結局最後まで振り切ることができなかったのだ。
がっくりと肩を項垂れたセルジュに小さく肩を竦めてみせると、ロランは口元を手で隠し、さも不思議だと言いたげに疑問を口にした。
「前々から気になっていたのですが、貴方達は一体どういった関係なんですか?」
「セルジュさんはわたしのこんにゃ……」
すかさず口を開いたコレットの両頬を、背後から伸びたセルジュの指がぐにっと摘まむ。呂律の回らない声を出しながら首を捻り、コレットは恨めしげにセルジュを見上げた。
「いひゃいれしゅしぇるじゅひゃん」
頬肉を摘ままれたまま訴える顔が滑稽で、思わず吹き出しそうになる。込み上げる笑いをぐっと堪えると、セルジュはコレットを押し退けてロランに向き合った。
ほんのりと紅く腫れた両頬をさすりながら、コレットが拗ねた子供のように唇を尖らせる。
「婚約……って、セルジュ、貴方以前、決まった相手はいないと言っていましたよね」
「
「なるほど……
呟いて、ロランが再びちらりとコレットを見やる。訝しむような視線を受けて、コレットがにっこりと微笑んだ。
「書類整理するんですよね。お手伝いします」
「ふざけるな! 重要な書類もあるのに部外者を中に入れられるわけがないだろう」
「いえ、重要な物は昨日までに殿下と済ませてありますから、手伝いなら歓迎しますよ」
穏やかな笑みとともにロランが応えると、コレットは「やった」と声をあげて、勝ち誇ったように両手で拳を握って見せた。
セルジュのこめかみに血管が浮き上がる。先日の剣の稽古の時といい、コレットの肩を持つようなロランの言葉がいちいち気に障る。
「くそっ、邪魔になるようならすぐに放り出してやるからな。……ロラン、仕事の説明を頼む」
苛立ちに任せて吐き捨てるように告げると、目を丸くするロランを促して、セルジュはずかずかと執務室に踏み込んだ。
***
王太子の執務室は意外にもすっきりと整理されており、セルジュが訪れる前にロランが粗方作業を進めていたことが容易に推測できた。
入口手前に置かれた応接セットのテーブルと大窓の前に置かれた執務机に、うず高く積み上げられたいくつもの書類の山が塔のように整然とそびえ建っている。セルジュとロランは手分けして書類の山を片付け始めた。
応接用のソファに腰掛けてセルジュが忙しなく手を動かしているあいだ、コレットはロランの要望で執務机の書類の整理を手伝っていた。ロランを補佐するコレットの姿は教育の行き届いた秘書のようで、貴族令嬢らしい淑やかな振る舞いは普段の姿からはおよそ想像できない。セルジュの前ではいつも落ち着きがなく煩わしい行動しか取らない癖に、
言い現し様のないもやもやとした気持ちを抱えながら、テーブルの上の書類の山を半分ほど片付けたところで、セルジュはぴたと手を止めて、書面に綴られた見慣れない文字に眉根を寄せた。
「テレジア語ですね」
いつの間にか隣にいたコレットが、セルジュの横から書類を覗き込むようにして呟やいた。
「わかるのか?」
「はい」
訝しむようにセルジュが問うと、コレットがこくりとうなずいた。
テレジアはデュランの隣国で、土地の痩せた貧しい北国だ。貧富の差も激しく多くの国民が常に飢えに瀕しているというのに、主義思想の違いから頑なにデュランの援助を拒んでいる。
当然のことながらデュラン国民の多くがテレジアに抱く印象は良いものではなく、テレジアの言葉を学ぶ者など国政に携わる極一部の官僚のみだった。
テレジアの言葉で書かれた文字を確認しつつ、コレットは次々と書類の山を仕分けていく。その手際の良さに、セルジュはいつの間にか感心させられていた。
「意外だな」
「あはは、テレジアからの難民に対応するのに必要だから覚えておけって、父がうるさくて。見直しました?」
「そうか……そうだったな」
言われてはじめてセルジュは思い出した。
コレットの父が治めるマイヤール領は、テレジアと国境を介して隣接している土地だ。コレットとの婚約が解消されていなければ、セルジュも今頃、テレジアの言葉を学んでいたのかもしれない。
セルジュがすっかり手を止めてしまったところで、執務机のほうからロランの声が響いた。
「以前から気になっていたのですが、コレットさんはもしや、マイヤール卿のご息女ではありませんか?」
「そうですけど、それが何か?」
顔をあげ、きょとんとしてコレットが答える。ロランは面食らった顔で灰色の目を瞬かせると、
「いえ……ああ、その書類はコレットさんにお任せしても宜しいですか。セルジュはこちらの手伝いをお願いします」
僅かに動揺した様子でコレットとセルジュに指示を出し、そそくさと執務机の上を片付け始めた。
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