第5話 とてもご立派でした

 ヴィルジールがセルジュを執務室に呼び出したのは、セルジュがリュシエンヌの護衛の任を放棄した翌日、昼中のことだった。


 上背のあるセルジュでも優に通り抜けることができる背の高い豪奢な扉。その前に立ち、セルジュは深々と息を吐いた。

 いつもは見上げるだけの扉の奥で、ヴィルジールが今、セルジュの到着を待っている。昨日セルジュが犯した不始末の沙汰を下すために。

 覚悟こそしてきたものの、任務を放棄した理由を問い詰められることや、ようやく手にした護衛騎士の任を解かれる可能性を考えると、胃の奥がきりきりと痛みを訴えた。

 セルジュが意を決して軽くドアノックを打ち付けると、小気味良い音が廊下に響き、 程無くして重い扉が開かれた。いつもと変わらない、赤銅色の髪の燕尾服の男が顔を覗かせる。

「殿下がお待ちですよ」

 セルジュの顔を見て優美な笑みを浮かべると、ロランはセルジュを室内に通し、静かに扉を閉めた。


 広い室内に紙の上をはしる羽根ペンの心地よい音が響く。中央に置かれた執務机にうず高く積まれた書類の向こう側で、蜂蜜色の髪が揺れていた。

 姿勢を正したセルジュを扉の前で待たせると、ロランは執務に没頭するヴィルジールの元へと向かう。ややあって、書類の向こう側からヴィルジールが端整な顔を覗かせた。

「遅かったね。今日は騎士団との合同訓練だったっけ?」

 気さくに微笑むヴィルジールの様子はいつもと変わりない。セルジュが黙って頭を下げると、ヴィルジールは机の上の書類の山を退けて視界を確保し、ゆったりと椅子の背凭れに身を預けた。

 無言で一礼し、ロランが退室する。これからヴィルジールが告げる言葉の深刻さが嫌でも伝わってくる。空色の瞳を真っ直ぐに向けられて、意識せずとも喉がなった。硬く身を強張らせてセルジュは王太子の言葉を待った。

「堅苦しい挨拶をする仲でもない。手短に言わせてもらうよ」

 慣れ親しみつつあったはずの砕けた物言いにも不安が煽られ、セルジュは拳を硬く握り締めると、目を逸らしたくなる衝動をぐっと堪えた。

 昨夜から幾度となく脳内で再現し続けた言葉が、いよいよヴィルジールの口から告げられるのだ。判決を待つ被告人の気分で、ぎりと奥歯を噛み締める。

 緊迫した空気の中、ヴィルジールは徐に口を開いた。


「昨日は助かった。リュシエンヌもとても喜んでいたよ」

 予想外の言葉に、セルジュは赤褐色の瞳を見開いた。満足気な様子で告げて、ヴィルジールは更に話を続ける。

 美しく整った庭園の植木や花畑に興奮してリュシエンヌが庭師を褒め称えていたこと、紅茶と茶菓子を気に入ったリュシエンヌに料理人についてまで詳しく聞かれたこと、それらの話を瞳を輝かせて語るリュシエンヌがいつもよりいっそう輝いて見えたこと。

 リュシエンヌと交わしたであろう会話の一部始終を、ヴィルジールは悦に入って語り続けた。


「……ってリュシエンヌが言うわけ。セルジュ、ちゃんと聞いてる?」

「ええ、まあ……」

 どの辺りが手短なのだろうか。

 うんざりするような惚気話の数々を聞き流しながら、セルジュはロランが席を外した意味を、今更ながらに理解したのだった。


 結局のところ、リュシエンヌは昨日のことをうまく誤魔化してくれていたようだ。最初から最後まで、ヴィルジールの口からセルジュの職務放棄を指摘する言葉が出ることはなかった。

 だが、不可抗力とはいえ、セルジュは実際にリュシエンヌに手を上げたのだ。事実を誤魔化して護衛を続け、いざという時に失態を犯すわけにもいかない。

 結果として、セルジュは惚気話を聞き流しながら脳内で昨日の不祥事の話を簡潔に纏め、話を終えたヴィルジールに事の全てを打ち明けた。

 女性恐怖症の所為で、このままでは王太子護衛騎士の任務にも支障が出る可能性が高いこと、女性恐怖症を克服するために努力することを説明し、そのうえで、期日内に克服できなかったそのときは護衛騎士を辞任することを約束したのだ。

 セルジュの話に黙って耳を傾けていたヴィルジールは、「少し考える時間をくれ」と言って、セルジュに暇を出した。



***



 熱い湯の張られた湯船に身体を沈め、天井を見上げて、セルジュは深々と息を吐いた。こうして湯に浸かっていると、一日の疲れも嫌なことも、全て忘れてしまえる気がする。

 騎士団宿舎に併設された大浴場は、訓練と任務で汗と泥にまみれる男達の憩いの場だ。酷使した筋肉を熱い湯にさらしてほぐすこの時間は、騎士団宿舎で暮らす騎士にとって最も至福のときだとセルジュは考える。

 実際には女性と逢引きしたり城下の娼館に足を運ぶことを息抜きにする者もいるけれど、女性恐怖症のセルジュには縁のない話だ。そんな破廉恥な行為より、己の鍛え抜かれた肉体でも眺めているほうが余程良い。

 日々の鍛錬で鍛え上げた筋肉と引き締まった肉体はセルジュの密かな誇りであり、王国騎士団に所属する者でセルジュに勝る肉体美を有する者は片手で数え切れる人数しかいない。

 自慢の筋肉を眺めながら心地良い疲労感に瞼を閉じる。脱衣所から野太い悲鳴があがったのは、丁度そのときだった。


「うわああぁぁ——!」

 浴場内に居た数人の騎士達が一斉に顔を上げる。熱い湯を派手にぶちまけて逸早く湯船から飛び出すと、セルジュは真っ直ぐに脱衣所の扉に駆け寄り、半ば力任せに扉を開け放った。

「どうした!」

「セルジュさん、そっち! そっちです!!」

 年の若い騎士のひとりがタオルで股間を隠しながら、壁のようにずらりと並ぶ半裸の男達を指し示す。人垣の向こう側で、どうやら誰かが揉み合っているようだ。

「何事だ!」

「痴女ですよ、痴女! 女がそこの窓から脱衣所の中を覗いてたんです!」

「女に裸を見られたくらいで悲鳴をあげる騎士がいるか!」

 興奮する騎士に語気を荒げてそう言うと、セルジュはご自慢の筋肉を堂々と晒しながら、ずかずかと痴女の元に向かった。

「凄ぇ……」「かっこいい」などと、人垣から溜め息交じりの呟きが漏れる。女の覗きが出たくらいで情けない、と頭を痛くしながら、セルジュはなおも前進した。

 セルジュは気付いていなかった。脱衣所に会する騎士達の視線が、薄布ひとつ纏っていない己の股間に集まっていることに。


「痴女が出たそうだな」

 筋肉の壁を押し退けてようやく人垣を越えたセルジュは、予想だにしない目の前の光景に赤褐色の眼を見開いた。目の前でふたりの騎士に捕らえられていたのは、昨夜部屋で別れたはずのコレットだった。

「おまっ……痴女はお前か!」

 捕らえられたコレットを睨み付け、上擦った声をあげる。セルジュの声に気が付いたコレットは、一瞬ぱっと明るい表情をみせたものの、榛色の瞳をまんまるくすると、上気した頬を隠すようにすぐに顔を俯かせた。

 すかさず纏わり付かれるものだと身構えていたセルジュは、コレットの意外な行動に拍子抜けして、同時にその場に漂う妙な空気に気が付いた。

 コレットを捕らえた騎士の視線が真っ直ぐに向かうその先は——。

「セルジュさん、平常時でそれですか!?」

 羨望にも似た声とともに響めきが起こり、セルジュはようやく自分が局部すら丸出しだったことに気が付いた。

 騒めく騎士達。両手で顔を覆ったコレットは、おろおろとしながらも指の隙間から榛色の瞳をちらちらと覗かせていた。

 セルジュの顔が耳まで赤く茹で上がる。壁際に置かれた棚から慌てて着替えを引っ掴むと、セルジュは素早くそれを身に纒い、コレットの腕を奪うようにして脱衣所を後にした。


 その日から、王太子護衛騎士セルジュの逸物の雄々しい姿は、王国騎士のあいだで長く語り継がれることとなった。



***



「なんのつもりだ。辺境伯令嬢ともあろう者が覗きなんて……恥ずかしくないのか!?」

 部屋に戻るなり、セルジュは声を張り上げた。あまりの剣幕に流石に驚いたのか、コレットが一瞬びくりと肩を竦めて目をつむる。

「ごめんなさい。でも、窓から覗いたのは事実ですけど、覗きをしてたわけじゃないですよ」

「……はぁ?」

「騎士団宿舎にセルジュさんがいるってロランさんに聞いたから……」

 らしくなく胸の前でモジモジと指を動かしながら、コレットがちらりとセルジュに目を向ける。慌てて着替えたせいで掛け違えたシャツのボタンを直しながら、セルジュはどうにか気を落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。

 口ではコレットを責めたものの、セルジュの不機嫌の原因は他にあった。女性恐怖症とはまた別に、セルジュはコンプレックスを抱えていたのだ。

 無駄に成長した股間にぶら下がるモノ。大きさだけは人並み以上で、男なら誇るべきことなのかもしれない。

 だが、いざというときに萎んで使いものにならないのなら何の意味もない。ひたすらに恥ずかしいだけの代物なのに、大勢に見られてしまったのは屈辱だった。しかも、あの場に居たのは騎士団の男達だけではないというのが更に屈辱的だ。

 驚きに見開かれていた榛色の瞳が脳裏を過ぎる。首から上がかあっと熱く、耳まで赤くなっているのが自分でもわかった。

「……その、とてもご立派でした! 七年も経つと人は成長するものなんですね」

「うるさい! 脱衣所でのことは忘れろ!」

 フォローにもならない言葉にセルジュが反射的に怒鳴り返すと、コレットは瞳を丸くして口を噤んだ。

「くそっ、もういい! さっさと終わらせるぞ」

 机の上の砂時計をひっくり返し、コレットの手を取って、セルジュはベッドの端にどさりと腰を下ろした。


 静まり返った室内に、さらさらと砂が落ちる音が心地良く響いていた。

 生まれたままの姿を見られてしまった羞恥もあって、いつも以上に手のひらが汗をかいていた。握り締めた指先が時折ぬるりと滑るものの、相変わらずコレットは嫌な顔ひとつ見せず、澄ました顔で宙をみつめている。おかげでだいぶ落ち着きは取り戻したものの、気まずい沈黙が部屋を満たしていた。

 ただじっと時が流れるのを待つなかで、沈黙を破ったのはコレットだった。

「……あの、昨日の……リュシーとのこと、殿下は何か仰ってましたか?」

 顔をあげてセルジュの顔を覗き込むコレットの表情は、いつになく真剣だった。セルジュが大袈裟に悲観していた所為か、本当に護衛騎士の任を解かれるのではないかと心配していたようだ。

 能天気で何かと気に障ることを口にするヤツだが、可愛いところも少しはあるのかもしれない。


「安心しろ、何も言われていない。ただ、いつまでも隠し通せることでもないだろう。殿下には全てをお話しした」

 王太子に女性恐怖症のことを説明し、必ず克服してみせるから時間を頂きたいと願い出たことを、セルジュはコレットに打ち明けた。

「……それで、殿下は何て?」

「考えておく、と仰っていた」

「そうですか……」

 会話が途切れる。ふたりとも視線を落とし、しばらくのあいだ口を閉ざしていた。

 ややあって、繋いだ手にきゅっとちからが込められた。

「大丈夫ですよ。セルジュさんにはわたしが付いてますから」

 いつもどおりの陽気な声でそう言って、コレットがにっこりと笑う。釣られるように顔をあげたセルジュも、自然と和らいだ表情になっていた。

「それが不安の種なんだがな」

 含み笑って応えるセルジュに、コレットが「ひどい」と言ってぷうっと頬を膨らませる。

 ちらりと砂時計に目をやると、砂はとっくに落ち切っていた。

「時間だな」

「それじゃあ、また」

「さっさと帰れ」

 ふん、と鼻で笑い飛ばして小さな手のひらを手放すと、セルジュは扉へと視線を投げた。


 ふたつに結った亜麻色の髪を揺らし、コレットが弾むように長い廊下を駆けていく。遠ざかる小さな影を見送りながら、セルジュはほんの少し名残惜しさを覚えていた。

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