第7話 不名誉な噂

 壁際に並ぶ書類棚と執務机の間を往き来しながら、なかなか進まない書類の整理に若干の焦りと苛立ちを感じはじめる。

 コレットの相変わらずの弾んだ声がセルジュの耳に届いたのは、ちょうどそんなときだった。

「お手伝いしましょうか?」

 手にした書類から視線をあげてセルジュが振り返ると、すっかり片付いて綺麗になった応接セットのソファに掛けて、コレットがセルジュを見上げていた。

「いらん。お前は良い加減、自分の仕事に戻れ」

 ぷいと顔を背け、セルジュが意地を張る。榛色の瞳をまるくして、コレットはロランに視線を投げかけた。

「でもわたし結構役に立ってるじゃないですか。ねえ、ロランさん」

「ええ、とても助かっています」

「ほらセルジュさん、今のロランさんの言葉、聞こえました?」

「うるさい」

 黙って書類整理をしている分には文官の秘書でも務まりそうだと見直しかけていたのに、口を開いてしまえばコレットは相変わらずだ。小さく息を吐いて視線を落とし、セルジュは書類をめくる手を動かし続けた。

 そもそもの話、人に頼りにされるのが好きだから頼まれれば断らないだけであって、セルジュはこういった事務仕事はどちらかと言えば苦手だった。邪魔になるほどではないだろうが、お世辞にも手際が良いとは言えないはずだ。

 不得手なのは自覚しているのだから、意地を張らずに素直に手を借りれば済む話だ。けれど、コレットにこれ以上借りを作るような真似は、セルジュのプライドが許さなかった。

 コレットの言葉など聞く耳も持たず、セルジュは黙々と書類の山と格闘し続けた。部屋の扉が開閉される音が聞こえたが、気がつかないふりをした。


 しばらくすると、ふたたび扉が開く音がして、執務室に紅茶のあまい香りが漂ってきた。

 眉を顰めて顔をあげ、セルジュが応接セットへと目を向けると、テーブルに並べられたティーカップにコレットが手際良く紅茶を注いでいるところだった。

 セルジュとロランの視線に気がつくと、コレットは行儀見習いらしく澄ました様子で姿勢を正した。

「お茶をご用意致しました」

 かしこまって深々とお辞儀をするコレットは、教育の行き届いた客間女中のようだ。顔をあげてセルジュとロランを見上げると、彼女は愛らしい笑顔で誘うように小首を傾げた。

「疲れてるのに無理して書類とにらめっこ続けてると効率落ちちゃいますし、休憩しませんか」

「またお前はそう——」

「良いですね。セルジュ、せっかくですしいただきましょう」

 反論しようと口を開き掛けたものの、セルジュの言葉はあっさりとロランの声に遮られてしまった。書類の束を机の上に重ね、ロランがさっさと応接スペースに移動する。

 軽い屈辱を感じながら、セルジュはロランの後を追いかけた。


「ロランさんは、お砂糖は?」

「ええ、いただきます」

 にこやかに微笑んでロランが応えると、コレットはシュガーポットの角砂糖をひとつ、ロランの紅茶に落とし入れた。

 白く輝く塊が淹れたての紅茶に溶けていく。ティースプーンがカップと触れ合う軽い音に耳を傾けながら、セルジュはソファの肘掛けに肘をつき、コレットとロランの和やかなやり取りを眺めていた。

 書類整理の様子を盗み見ていても感じたことだが、ロランの前でのコレットはまるで貴族令嬢のように立ち居振る舞いが淑やかだ。セルジュの知る押しの強い我儘な姿とは似ても似つかない。しなをつくるようなその態度を目にしていると、まるで自分だけおざなりな扱いをされているようで何故だか気に入らない。

 不機嫌を隠そうともせず、一人掛けのソファにセルジュが背を預けると、ちらりとその様子を確認して、コレットはロランと向かい合う二人掛けのソファに腰を下ろした。

「それにしても感心しました。コレットさんは御自身でお茶を淹れられるのですね」

「ええ、趣味の一環というか、実際に自分でやってみるほうが色々と都合が良いんです。以前は厨房に入って料理したり女中に紛れて洗濯や掃除なんかもしてたんですけど、さすがに父に見つかって叱られました」

「それは卿も困惑されたでしょうね。……にしても、なぜそのようなことを」

「秘密です♡」

 興味深そうに身を乗り出したロランの言葉に、コレットは小悪魔的に微笑んだ。仕草こそ愛らしいが、その趣味の一環とやらも、大方、執筆中の官能小説のリアリティがどうのといった理由でしていることだろう。全くもってくだらない。

 ふたりの会話を鼻で笑い飛ばし、紅茶を一口啜ると、セルジュは皿に盛り付けられた焼き菓子に手を伸ばした。喉をとおる紅茶はほどよく温かく、焼きたての茶菓子はさくさくして美味しかった。


 その後もロランとコレットは楽しくおしゃべりを続け、セルジュはその傍でつまらなそうに茶菓子を頬張り続けた。

 セルジュが粗方茶菓子を食べきった頃、ロランが思い出したように柱時計を一瞥し、口を開いた。

「そろそろリュシエンヌ様もお戻りになる頃でしょう。残りは私達ふたりだけで充分間に合いますので、お迎えの準備をされたほうがよろしいのではないですか」

 促されたコレットが、瞳をまるくして窓の外を振り返る。陽は高く昇りきっていて、時計を見なくてもとうに正午を回っているのがわかった。

「本当、さすがに戻らないと」

 そう言って席を立つと、コレットはテーブルの上のティーセットを律儀にワゴンへ片付けた。

 部屋女中にでも任せれば済むことなのにと思いながら最後の焼き菓子を頬張って、セルジュは席を立ち、ぐんと伸びをする。ふと室内を見回した視線が榛色の瞳と一瞬交わった気がした。

「それじゃ、ロランさん、お邪魔しました」

 セルジュの視線を慌ててかわし、愛想の良い笑顔でロランに頭を下げると、コレットは顔を伏せたまま、そそくさとワゴンを押して部屋を出て行った。



***



 セルジュとロランが書類整理を終えたのは、コレットが部屋を去ってから小一時間ほど経ってのことだった。

「ご苦労様でした。とても助かりました」

 すっきりと片付いた執務机を満足げに見下ろして、ロランはセルジュを振り返り、ふっと表情を和らげる。部屋の中央で腕を組んで仁王立ちしていたセルジュは、「当然だ」と大きくうなずいて、それから皮肉を込めてロランに告げた。

「そういえばロラン、このあいだはよくも嵌めてくれたな。まさか殿下の惚気話をひとりで延々と聞かされる羽目になるとは思いもしなかったぞ」

 片方の口の端を吊り上げて、セルジュが意地悪く笑ってみせる。ロランは一瞬目を丸くすると、くすりと含み笑って肩を竦めた。

「一度くらい良いじゃないですか。私なんてリュシエンヌ様がいらしてから毎日のようにアレを聞かされているのですよ」

「知るか。それがお前の仕事だろう」

 他人事のように笑い飛ばすセルジュに、ロランはやれやれと肩を落として苦笑する。そのまま窓の外へと視線を動かし、灰色の瞳をすっと細めた。


 ロランの視線は、庭園の向こう側に建つ騎士団宿舎に向けられていた。

 ややあって、ロランがおもむろに口を開く。

「そんなことより、セルジュ、貴方が夜な夜な自室に女性を連れ込んでいると、城内のあちこちで噂になっていますよ」

「否定はしない。だが、彼女が俺の部屋に居るのはほんの十分程度だ。何も問題ないだろう」

「ええ、その通りです。報告では彼女が部屋に入ってから出てくるまでは精々十五分。しかし、手短に前戯を済ませて挿入と同時に果てるのであれば充分に性交渉が可能な時間でもあります。故に皆のあいだではこう噂されています。『王太子護衛騎士のセルジュはデュラン王国一の早漏だ』と」

「ふざけるな」

 心底うんざりしながら吐き捨てると、セルジュは応接用ソファにどさりと腰を落とし、大きな溜め息をついた。

 過去にも似たような経験をした覚えがあった。悪意のある渾名を付けられ、陰口を叩かれ続けた。寄宿学校時代に受けた子供の虐めとまるで同じだ。けれど、あの頃ほど精神的ダメージを受けた気がしないのは、セルジュ自身が多少なりとも成長したということなのだろうか。

 肘掛に頬杖をつき、セルジュが不機嫌を露わにしていると、向かい合うソファに腰を下ろし、ロランは穏やかな口調で続けた。

「先日の騎士団宿舎の痴女騒ぎの際に、相当ご立派な姿を皆に見せ付けたそうじゃないですか。貴方は硬派で実直で若くして王太子の護衛騎士に任命された。それだけでも妬まれる要因は充分なのに、ご立派な男性の象徴まで見せ付ければ、可笑しな噂を立てる輩が現れても何ら不思議ではありません」

「……馬鹿馬鹿しい!」

 セルジュは声を荒げた。

 シモの話で馬鹿にされるのも不服ではあった。だが、それ以上に不愉快なのは、この不名誉な噂に巻き込まれてコレットにあらぬ誤解が生じることだ。

 不能も同然のセルジュからすれば早漏のほうがある意味マシな気さえするが、純潔であることが重要視される貴族令嬢のコレットにとってはそうではない。セルジュと男女の関係があると誤解されるだけで、彼女の名誉は酷く傷付くことになる。

 決断することは容易かった。真っ直ぐにロランと向かい合い、セルジュはその言葉を口にした。

「俺は女性恐怖症だ。コレットには女性に慣れるための手伝いをして貰っている。それだけだ」

 ロランの灰色の瞳が丸くなる。己の女性恐怖症について、セルジュはロランに全て打ち明けた。


「それは……それが本当なら、なかなかに問題ではありませんか?」

「殿下にはすでにお伝えしてある。俺がこうして暇している理由もそれだ」

「……なるほど」

 口元を手のひらで覆い、ロランが視線を落とす。ちらりと窓の外を見やると、青々と広がる空を鳥の群れが横切っていった。

 部屋を満たす重い空気を退けるように、セルジュは唸り声に似た低音で続けた。

「頼むロラン、俺の女性恐怖症については口外して構わない。これ以上くだらない噂が広まらないように早急に対処してくれ。不能だろうが早漏だろうが、俺に対する醜聞が立つのは一向に構わんが、ただ俺を手伝っているだけのあいつまで不名誉な噂に巻き込むわけにはいかないんだ」

 言い切って、頭を垂れる。セルジュの言葉を聞き終えて、ロランは驚いたように目を瞬かせた。

「意外です、貴方がコレットさんを庇うようなことを言うなんて。てっきり貴方は彼女を毛嫌いしているものだと思っていました」

「毛嫌いしていたとしても——」

 ロランの言葉を復唱して、セルジュはその言葉に微かな違和を感じた。

 確かに少年時代のあの件以来、セルジュはずっとコレットのことが嫌いだった。再会してからも、セルジュの人生を狂わせておきながら無邪気に笑う彼女に苛立ちを覚えた。

 だが、果たして現在も以前と同様に彼女を嫌っているのかと問われれば、はっきりと答えられる自信がない。

「……借りがある以上、義理は果たすものだろう」

「そういうものでしょうか」

 絞り出すように呟くセルジュにロランはくすりと微笑んだ。胸の内を見透すように灰色の瞳が細められる。

 若干の居心地の悪さを感じながら、セルジュはもう一度、窓の外へと目を向けた。

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