第13話 漬けは漬けすぎること非らじ

 魚屋さんというものは精肉店以上に短時間鮮度命の生業のように思われる。

 公園の時計が「ふるさと」を歌った頃から、精肉店ではあまり見ない値下げ競争の火蓋が魚屋の店頭で切って落とされる。


「さぁサービスだよー!」


 店の中に響き渡る呼び声が合図だ。

 最初に値下げの札が貼られても値段を計算すればせいぜいのところ2割3割引きだ。しかしながら閉店もあと1時間かという頃、値引きシールが上貼りされる。


「さぁあ、半額半額ー!全部値引きだよー!!」


 威勢のいい声が、下町叩き売りの風情を帯びる。

 嘉穂が店に立ち寄る時間、ちょうど講義とバイトの終わった時間がこのタイミングに重なれば、家計に大きなヘルプである。くるりと売り場を回ってみる。本鮪半額…千円、パス。縞鰺半額、うわあ食べたい…八百円。さようなら。鰤半額三百円、パックが大きすぎて一人には飽きる…。また次回。


 ふと、目が止まったのは冷蔵ケースの隅に追いやられたトレイ。他の刺身魚とは異なり、色とりどりの魚が煌めいている。


 お刺身サラダ用(つまり柵どりした魚の切れ端)、大容量で二百円。

 買いである。


 今日は海鮮丼だ〜と上機嫌で会計を終え、帰路に着く。玄関を開けて大学の鞄を椅子の上にほっぽり、嘉穂は買い物袋から戦利品を取り出した。


 うん、十分。二、三食分はありそうだ。


 エプロンをつけたら手早く野菜サラダと味噌汁の準備をし、一食分だけ取り分ける。これは今日の海鮮丼分。洗ったみょうがを刻むと、爽やかな夏の匂いがする。


 残りは保存用である。保存といえば漬けである。タッパーの中に醤油と味醂を合わせ、そこに山葵を溶き、嘉穂は白、桜色、銀に光る大小様々な魚の身を、キッチン鋏で1センチ角に揃えて切りながら放り込んでいった。

 その日の夕飯は炊きたてご飯に豪華な海鮮丼。家で食べれば刻み海苔もかけ放題。煎り胡麻を散らして、あたかも料亭の風情である。


 満足して食べ終わり、ストンと眠りに落ちた嘉穂だったが、忘れていた。明日が飲み会であったことを。


 ***


「あー…」

 翌々日、夕ご飯を作るために冷蔵庫を開けた嘉穂の口から情けない声が出る。


 投げ売りで買ってきた刺身は、タッパーの中で醤油と味醂に浸かって一日寝ていた。

 やってしまった。48時間も放ったらかしにしてしまった。構ってやれなくてごめん刺身(の切れ端)。蓋を開けてみれば、銀色の身はうっすらと茶色を帯びている。

 特に変な匂いはしないが、流石に時間が経ちすぎた。以上な夏日で気温も上がったため、生で食べるのは怖い。切れ端ごときに食中毒攻撃されて惨敗はごめんである。


 焼くしかない…。


 せっかく刺身の漬けで美味しく混ぜご飯と思っていた嘉穂のテンションは急降下である。しかし仕方がない。勢いなくアルミホイルをそろそろと切り、漬けられて彩りの減じた魚をトースターに突っ込む。のろのろとタイマーを回し、その間に野菜を切り始めた。


 チーン。


 どうかな…。


 さしたる期待もなく、じゅうじゅうという細切れの1つに菜箸を伸ばす。行儀が悪いが、1つを口に入れた。


 …!!!


 香ばしく燻られ、絶妙な甘辛さになった醤油の旨味が嘉穂の口の中に広がった。魚の身は余計な水分が抜け出たのか、むちっとなって臭みもない。


 絶品である。


 放ったらかしにしてしまったと思いきや、何とも味が深まっているではないか。

 人間も魚も、手をかけすぎないほうが味が出るものか。


 漬けは漬けすぎること非ず(ある程度までなら)。


 これはお酒の肴であれば最高だろう。天盛りの紫蘇を刻みつつ、嘉穂は次の家飲みのメニューを考えながら、上機嫌で歌を口ずさむ。

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