艫を破する子

 夜、灯す蛍光灯は赤く、さもそこが現実であることを忘れさせる。繁華街によくあるそれではなく、何処かの一昔前の、綺麗な作画の映画で見たようなそれであった。


「こっちへ、いらっしゃい」


 落ち着いた声色の、一人の男の声がする。廊下の奥、一つ、明るい部屋の、襖の隙間と向こう、一夜にとっては大きく見える手が、こちらを呼んでいる。後ろに構えさせたゲンと羚は、一夜の指示を待っているようだった。一夜が何も言わなければ、彼等は黙って主人に付いて行く。一夜は何もしゃべらずに、一つ、考えたふりをして、廊下を進んだ。襖の隙間を除いて、その明るさと、平穏さ、彬人と他に、漣、カズがいることを確認して、襖を開けた。


「やあ、そちらから出向いてもらってすまない」


 彬人はそうやって、何も悪気のないような顔を、一夜に向ける。それはやはりカズのよくするそれと似ていて、一瞬、一夜は脳の筋を硬くする。


「そう思っているなら初めから呼びつけるなよ」


 一夜の一言に、少し困ったような顔をして、彬人はカズを見る。だが、それでカズが何かを言うわけでもなく、ただ、ひっそりと、彬人に言葉を催促するようだった。


「……ここでないと、アイツにどんな邪魔をされるかわからなかったので」


 彬人が零した、アイツ、という呼称に、一夜は眉を顰めた。


「アイツ?」


 一夜の一つの問いに、彬人は少し困ったような顔をして、項垂れるように言う。


「海人のことです。正確には、海人のフリをした、とある山の神」


 さらりと言ってのけたそれは、自らの子であった。その目は我が子を思う父親ではない。憎み、吐き出す、一人の男の目。一夜は渋く彬人に問うた。


「嫁と本来の子は何があった。俺は豊宮家の内情を知らない。何なら燈籠船が何を担う家かも知らない。どうせ、この場所の守護、なんてショボい役割じゃないんだろう?」


 隣でカズが苦笑した。彬人は黙って一夜を見返すと、一つ、考えるように目を瞑って、また口を開く。


「妻の倫子りんこは海人ともう一人の子を産んで、肥立ち悪く海へ向かいました。もう一人の子は小学校に上がる前に行方知れずに。海人は――――」


 彬人が唇を噛む。


「海人は、先月、裏にある社の中で、首と腹を食い千切られて死んでいました。俺の知る神の殺し方でした」


 それが真実であるならば、海人がこの旅館で、彬人の子として生活し、存在している理由がわからない。一夜は首を傾げた。だが、理由も明白であった。


「神は人間に擬態する。自分の神性を隠すのに、一番手っ取り早い方法として」


 一夜がそう言葉に替えた。彬人は頷いて、また口を零す。


「ですが今回の場合は、擬態して隠れているというよりも、俺に見せつけているのでしょう。でなければ、わざわざ、俺が見つけやすい場所に、海人の亡骸を捨てたりしない」


 あいつは、卑怯で矮小な、臆病者ですから。と、彬人は続けた。そう聞いて、一夜は長く溜息を吐く。どうも、話が揃ってきたようだった。ヒルコのせいだと騒ぎ立てたのは、単純に、隠すためだと、そう言いたいらしい。


「で、その山の神は、海人に擬態しては街の子供を攫って、どうしてるんだ? やり口は知っているんだろう?」


 一夜が問うと、彬人は酷く困ったような顔をして、顔を掻く。


「……それが、おかしいんですよ。アイツは本来、子供を好むような奴じゃないんです」


 ふとそう言って、彬人は漣に目配せする。漣はそれに応じる形で、懐から一冊の古い書物と、真新しいノートを取り出した。

 漣が、柔らかな男声でつらと並べる。


「豊宮家燈籠船がこの地の神を鎮めるために生贄として送り出した人々の記録です。本人の詳細なプロフィールだけでなく、家族構成、『罪状』、血縁ではない周辺人物まで細やかに記されています」


 一夜はそれを手に取って、表紙を撫でる。ぶ厚いものだった。これでも一部らしく、新しいものの巻数は『九拾七』と書かれている。中身は数ページにわたって、同じ人物のことを書いているようだった。その人間の人生を、一つに纏め、丁寧に筆に乗せられている。


「我々、燈籠船の本業は、つまりはそういうことです」


 彬人が息を飲む。カズは一夜から目を反らした。


「つまりは、贄を積むことか。この地の神に、俺達の方の、鋸身屋のように」


 一夜がそう言って、彬人を見る。彼は半ば諦めたような無心で、口を開いた。


「概ね、生贄を捧げる役であることに違いはありません。しかし、正確には、我々の血筋から贄は出ません。いえ、我々も贄と言えばそうなのかもしれませんが」


 話を早く進めろと、一夜が睨むと、彬人は一度黙って、もう一度、言葉を紡ぎなおす。


「……我々は、この山の神と契約し続けているのです。そして、その山の神が、海を荒らさぬよう、暴れぬように、管理課から受け取った罪人を贄としています」


 管理課という言葉を聞いて、一夜がピクリと眉を顰めた。そのまま、一夜は手を口に当てる。恨みのこもった牙が、関係のない彬人に向けられないようにするためである。


「我々は才の無い者でも契約を強いられるために、短命です。故に、子孫はあまり多く残せません。よって、一族の者を贄にすることが難しいのです。それを解してくれる管理課から、彼等が捕縛した罪人を頂いています」


 言い訳でもするように、彼は言った。明らかに態度の変った一夜を、よく見ているようである。


「……話がそれましたが、生贄がどんな者を中心に出されているのか、読んでいただけますか」


 彬人がそう言って、一夜は古めかしい物も、新しい物も、両方を端まで捲る。罪人であるという以前に、まず、全員に共通性が見られた。


「成人した女」


 後ろで共に見ていたゲンが、一夜の耳元で囁く。既にそれは一夜も気付いていた。資料の全てにおいて、生贄は、皆、成人した若い女ばかりである。その中でも特に、子を産んだことのある女が中心であった。


「最も当てはまるのは、『若い母親』か」


 ぼそりと一夜が零す。それに対して、彬人は続けた。


「今まで、彼の神に捧げられた中には、幼い子供などありませんでした。尚且つ」


 置いて、彬人が言う。


「海人が食われた日まで、彼の神はある洞窟で眠っていました。俺が成人する前、俺と俺の父がある事件の際に封じたのです」


 彬人の言葉が、何処か語り口調へと変異する。一夜は前のめりに、彼の声に聞き入った。


「彼の神を封じた事で、我々燈籠船は、俺の代でその役目を変えることも視野に入れていました。でも、今回のことで変わってしまった。海人が死んだことで、俺にはもう子はいません。妻も今はいません。存続すら出来なくなってしまう」


 宮家において、子を残せない、家を続かせられないといことが、どれだけ重大な欠点か、一夜は理解していた。それ故に、彬人が何を悩んでいるのかも、大方は理解が出来る。その上に、彬人は自身で、燈籠船が短命な家系であることも提示している。しかも、一夜から見ても、彬人は、酷く人間的感性を持つ宮家であった。家の為とは言え、すぐに新たな後妻を持てはしないのだろう。酷くちぐはぐな人間だと、一夜は一度、軽蔑の目を向ける。


「……それで、その神を、お前はいったいどうしたいんだ。俺がそいつを殺せばいいのか」


 自分の役割が神殺しであるならば、一夜は納得がいった。カズが大宮家を出来るだけ呼びたいと言ったのも、それであれば、理解が追い付く。豊宮家の能力は構築であり、大宮家は破壊である。その差は、人知を超えたものをどれだけ手早く殺せるかに、簡単に結びついた。


「いいえ」


 しかし、彬人は全く別の言葉を吐いた。


「殺さねばならないのは俺です。貴方達は、俺が失敗した時に、殺してくれれば、それでよいのです」


 遺言のようだった。一夜の中で、何か根差すものがあった。彬人に、一夜は、一つ、置く。


「カズは本家の当主として、それでいいのか」


 違うんだろう? と、カズを見る。カズは依然目を反らすばかりである。だが、一夜は知っていた。そのためにカズが一夜を連れてきたわけではないことを。


「お前が失敗して死んで、俺達がその神を殺したとしよう。その時、この家はどうなる」


 一夜の問いに、彬人は淡々と口を綴った。


「初風が婿を取るでしょう。あの子は自分の役割をよく理解している子だから。そして、新たなお役目をこの家は頂くのでしょう。そうでなければ、初風が他所の家に嫁いで、この家は役目と共に潰えるだけかと」


 その一言で、全てはおよそ、理解できた。彬人は死ぬつもりである。あまりにも、彬人がいなくなって良い理由が揃いすぎていた。彬人が責任を放棄する理由が存在していた。カズはそれを止めたくて、自分達を呼んだのだろう。一夜がそう自己解釈するには十分である。


「……カズ。どうしたい。俺はお前がその神を殺せと言うなら、にそ殺しに行ってやるぞ」


 え? と、彬人がカズを見る。


「待ってください。ご当主。俺が頼んだのは俺が失敗した時、確実にアイツの息の根を絶てる人材です。俺が死ぬときに、見届けてくれる人です」


 首をふるふると振って、カズに寄る彬人は、言葉を零し続けた。


「無慈悲に俺の死体を踏みながら、目的を果たせる人間を呼んでくると、貴方は言ったじゃないですか」


 その一言に、一夜が唸った。


「おい待て。カズ、お前俺のこと無慈悲に死体蹴り出来る人間だと思ってんのか」


 一夜が指さし問うと、カズは実にわかりやすくニパっと笑い、一夜に言った。


「あぁ、割とそうだと思ってた。多分お前らの後ろで聞いてる奴らもな」


 後ろの襖が開く。どさどさと、複数人が部屋に入り込んだ。彬人が驚いて、その方を見る。一夜は長く溜息を吐いて、振り返った。

 そこで集まっていたのは、鋸身屋の裸女と銃夜、異夜と守護者である十朱の三人、細好と真樹、ヒヨとフセである。


「そうですね。特に俺は今でもそう思ってますよ」


 裸女が淡々と一夜に語る。ちらりと手首の傷跡が見えた。


「でもそうでもないってのも、俺達は知ってる。色んな件でな」


 銃夜が手元にあった真樹の頭を撫でる。真樹はそれを嬉しそうに享受して、一夜を見た。そしてまた微笑む。


「そこを開けたら海人が」


 彬人が心配を言うが、カズがそれを遮った。


「心配するな。海人はここに近寄ってきてはいない。銃夜が結界を作ってくれた。夜が明けるまで、ここの近くには入れないようになってる。それに、樒と千寿香、それに安倍家と崇知、金糸屋も旅館内を警戒してる」


 カズがそう言う隣で、何かと優秀なことをしてくれると、一夜は内心、銃夜を労うが、それを口にはしない。

 人が揃ってしまった。神を殺すには十分すぎる人材たちである。


「彬人」


 カズはその名を呼んだ。彬人は、カズの方を向く。


「俺達は子を失ったことも、妻を失ったことも、まだ無いけれど、多分、お前よりもずっと大きなものを、お前よりも沢山失っている。沢山背負っている」


 カズは珍しく、牙を剥いて、唸った。


「宮家の人間が家族や恋人を失ったくらいで死ねるわけないだろ。そんなことで死んで良いのなら、俺達は今ここで、自分の役目を全うしていない。悲劇に甘んじるな。お前も俺達もただの人間じゃないんだよ」


 宮家という鎖を、カズは彬人の首にかけていく。彬人が心底驚いたような顔をしていた。カズの言葉は酷く矛盾しているようだった。それでも、一夜には理解が出来ている。

 あぁ、こういう所だけは、とても共感できると、一夜はカズを見る。カズにとっては、彬人を踏みとどまらせる言い訳なのかもしれない。それでも、一夜達には、正解であった。


「俺達は宮家バケモノだ。ごく普通の人間のような理由で、死ねるものか」


 狂った正論だった。しかし、そこにいる全員に、当てはまることであった。カズは謳う。己らが滑稽なことを言っているのだと。


「……腹を括れ。どうやって殺す? あの海人を殺せば、その神も殺せるのか?」


 一夜が彬人に攻め入った。彬人は頭を掻いて、素で言葉を紡ぐ。


「……海人に擬態しているということは、あの海人そのものが、彼の神です。あれの心臓か頭を破壊すれば、確実に仕留められるかと」


 彬人に、つまらなさそうに一夜が返す。


「何だ、簡単じゃないか。渋る必要はない。今すぐやる」


 一夜が立ち上がる。耳を澄ませようと、一夜は周囲を見渡し始めた。だが、それを細好が止める。


「一夜、待て。多分、もうあっちも簡単には殺させてはくれないと思う」


 細好は冷静に一言落とす。一夜は引かれた袖を床につけ、細好と面と向かった。そのすぐに、細好は口を動かす。


「流石に、これだけ不自然に色々やってるんだ。あっちも、俺達が殺しに向かおうとしてることは、理解してる。逃げるか何かしらの手を使って殺せないようにしてくるだろう」


 細好がそう唸って、一夜を落ち着かせていく。以前のような子供らしさが、薄くなっていた。


「なら、どうする」


 一夜が問うと、その答えはすぐに還った。


「俺が異界を作って逃げられないようにする。俺だけじゃまだ媒体が無いと出来ないけど、逃げ道を塞ぐことぐらいは出来る」


 細好のその答えに、一夜は苦虫潰したような表情で、もう一度問うた。


「それじゃお前が狙われるぞ。普通に破壊持ちが囲んで殺せばいい」


 一夜が言うと、細好は反撃の牙を見せたが、それよりも前に、銃夜が淡泊に零す。


「そうすると異夜が真っ先に殺されて、逃げられる」


 銃夜はどうも悲しそうな顔をしている。標的にさらされた異夜は、十朱の三人に心配そうな顔を向けられていたが、ごく普通に、当たり前のように、うんうん首を縦に振っている。一夜はそれを軽蔑するように見たが、溜息を吐くだけで、それ以上の言葉を向けなかった。


「……一夜、俺はお前の従兄だ。その上で、千宮家の大元締めだ。立場はお前と同じ。多分、才能も、きっと、お前と同じくらいある」


 細好は一夜ととても似た顔で、一夜のように牙を剥く。


「お前も俺を見くびるなよ。守護者だってお前のと同じくらい強いんだからな」


 それに、と、細好は続ける。


「お前なら俺が狙われるよりも先に、神の一柱くらい殺せるだろ?」


 一夜は気づいた。細好の口調が変わっている。自信と勢いに溢れていた。しかし心音は本人のモノである。変り行く周囲に、一夜が気付いたのだ。こちらを睨むような、それでも、必死に訴える様な細好の目を、一夜は見つめた。


「細好。リュウに連絡しろ。お前を守るのはアイツの仕事だ」


 一夜がそう一言返すと、細好は、ぱぁっと表情を明るくして、廊下に出る。懐に入れていたらしい携帯電話を、嬉々として使っていた。隣で真樹が画面を一緒に見ていた。

 さて、やり方は決まったぞと、一夜は彬人を見返す。そうすると、彬人は目を丸くして、一夜達を見ていた。どんどん自分の目の前で、自分を省いて事が進んでいく。


「さて彬人。死ねなくなったな」


 にししっと、いたずらのようにカズが笑った。そうすると、彬人は酷く疲れたように溜息を吐いて、足を崩した。その隣で、漣が、少しだけ笑っていた。


「…………あ」


 だが、足を崩して暫く、細好が連絡を終えて部屋に戻って来た頃、彬人は何かを思い出したように、口を押えて、険しく表情を変える。その様子を、一夜が察知した。


「どうした」


 その一言で、全員が顔を彬人に向けた。彬人は青ざめながら、漣を見る。


「漣。机の引き出しから写真を。あれが一番説明に手っ取り早い」


 呼ばれた漣が、彬人の感情が伝染するように顔を青ざめさせて、その行動を急がせる。漣は周りのことなど目に映さずに、その『写真』を探し始めた。一方で、彬人は一夜を見つめながら、言葉を乱雑に紡いだ。


「急がないといけない。すみません、今、今何故か思い出したんです。やっと思い出したんです。妻の顔と本当のことを。本当にすみません。そうだ、そういうことだった。俺はあいつと同じだった」


 彬人の論と共に、カズの袖から、ぷるぷるとスマホの呼び出し音が鳴り続けた。カズが画面を見て廊下に出る。その様子は、何かあったようであった。


「落ち着け。はっきり説明しろ。多分まだ大丈夫だ」


 一夜の言葉に、彬人は一瞬考える様な素振りで、深呼吸をした。キッと表情を固めると、漣が写真を手渡した。


「俺は、神と結婚したんです。アイツの……山幸彦の妃だった、豊玉姫と。彼女は俺の親友の姿に擬態して、その少年の周囲の記憶を弄って、最初から女だったように思わせて、俺と結婚したんです」


 ぎょっと、細好が彬人を見た。何かを言おうとして、一夜に遮られると、彬人は覚束ない口元で、言葉をつづけた。


「そして彼女は双子を産みました。海人は神の持つ能力は持っていなかった。けれど、もう一人は……もう一人の、真人まさとは、違った。あの子は一夜様、貴方のようだった」


 彬人は一夜の目の前に写真を置く。だが、一夜は彬人の言葉が終わるまで、彬人を見続けた。


「貴方のように神の如き才覚を持っていた。いや、まさしくアレは神だった。アレこそが豊玉姫が俺と子を成した理由だった。豊玉姫は神を現世に生み出すために俺と契約したんだ。それも元夫の目の前で、見せつけるみたいに。山幸彦が殺した、海幸彦を産み直して見せた」


 精神病患者の妄言のようだった。その過程を知らぬ一夜達に、それがどういうことかはわからなかった。ただ言葉の羅列が続いた。話の根本が見えることは無かった。だが、彬人は、ふと、床に写真を置く。


「山幸彦は俺と彼女の子を殺したいだけだ。だから海人の死体を俺に見せつけた。そして狂っている。おそらくは、海人だけが豊玉姫の子ではないと勘違いしていた」


 呼吸もせずに、彬人は独り言のように続けた。一夜はついに、写真を見る。その写った四人家族の、彬人の隣で微笑む女を、何処かで見た気がした。


「だがアイツが望んでいるのは子殺しじゃない。自分と子を置いて海に帰り、自分の目の前で自分以外の男と子を成した豊玉姫を殺すことだ」


 写真に写る女、豊宮倫子。彼女は聡明そうな表情で、長い黒髪を湛えて、きりっと上がった釣り目に、優し気な眉と、口元を持っていた。瞳は夕焼けのような赤で、

それが長い睫毛を主張させるに至る。


「海夜」


 思わずその名が出た。双子の姉である真夜にもそっくりだが、どちらかと言えば、海夜と瓜二つであった。称える雰囲気と、今よりも若々しく元気そうに見える彬人の隣でにこやかに笑う表情は、死に逝く彼女の笑顔に、そっくりであった。


「金糸屋の娘が危ない。絶対に今のアイツなら勘違いする」


 彬人が真夜を差してそう言った。カズが廊下から顔を出し、青い表情で一夜を見ている。そして、カズは叫んだ。


「一夜! 真夜が消えた!」


 既に彬人の思い描いた最悪の事態が、動き出していた。一夜と細好が立ち上がる。もう既に二人とも、耳を澄ませていた。真夜や他の人間の心音が、下の方から聞こえている。彬人を見て、心当たりを睨んで引き出す。


「この下にはアイツを封じていた洞窟が」


 それと同時に、窓の隙間から、赤く光る蝶があふれて部屋に入り込んだ。ヒヨはそれを見て、一夜に言葉する。


「一夜、裏の社から洞窟に入れる。追っかけてもう入った奴らもいるみたいだ」


 わかったと、ヒヨの言葉を一夜は拾い上げる。全員が廊下から裸足で裏手に急ぐ。その一番前は、漣だった。彬人は、そこから動かない。異夜がそれを見て、彬人に叫んだ。


「おい何をしている! お前が蒔いた種だろう!」


 責任を負えと、異夜は叫ぶが、彬人は表情を硬くして、立ち上がった。


「俺はもう一つ、やらねばならないことがあります。大丈夫。死にに行くわけでも、逃げるわけでもありません」


 彬人は皆とは反対の、海の方へと足を進めた。異夜は十朱きょうだいを連れて、そちらへ向かう。


「銃夜! 俺はこっちを見張る!」


 少し遠くで、銃夜の、わかったという声が聞こえて、四人は彬人の後ろを走った。旅館を出たそのうちに、ずるりと異夜の影から一匹の巨大な獣が這い出る。それは巨大な黒い狼。首周りの豊かな毛が、ふわりと異夜に擦り寄った。


「ガリュウ、何かあったら頼む。何かあったら悔しいが俺じゃ何もできない」


 異夜がそう言うと、ガリュウという狼は、低い声で唸って、彬人の隣を走った。彬人はそれも構わずに、海までを走る。ついには、膝まで海に浸かって、満月が浮かぶ方向へ歩いて行った。だが、そこまで行くと、息を絶え絶えに、向こう側に叫んだ。


「倫子! 真人!」


 豊玉姫ともう一人の名を呼んで、彬人は続けた。


「助けてくれ! 俺とお前たちのせいで! 関係のない子が殺されるかもしれないんだ! 助けてくれ! 俺じゃもうどうにもならないんだ! 俺だけじゃ無理なんだ! 助けてくれ!」


 夜の静かな海に、一人の男の声は、寂しく響いた。波が静かだった。異夜の隣で、海に入ることを拒んだガリュウが、また低く唸った

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る