陸章:嘲笑編
壮麗たる
雨は上がりて日を差して、熱を落として日が過ぎる。夏に差し掛かる光を浴びて、一夜は、酷く怠い体を縁側で揺らしていた。
カズに助けられた事件から数日が経つが、高校での事件のことも相まって、大宮という家全体が、どうも騒がしく感じる。そもそも、黒稲荷神社にいる人間も、妙に多く感じた。同じ亥島の中に家がある面子ならまだしも、何故、ここに居座っているのだろうか、という面々もおり、食料の買い出しでテトリンや他の大人たちが家を留守にすることが多い状態である。
「一夜君。カズ君達が来たよ」
羚は一夜を見下ろして、そう笑っていた。一夜はそれを聞いて、溜息を落として立ち上がる。気怠い体は重く、どうにも上手く動かない。しかし、数日前の強烈な痛みを伴う体よりは、何を比較しても気にはならなかった。
「随分と後処理に熱心なことだな」
目を合わせたカズにそう言ったのは、一夜である。一夜が、胡坐かくカズの前に正座をすると、目の前のカズはニタリと笑っていた。いつも通り。正直に言えば、自分を助けようと奮闘していたカズの様子、周りから聞いた話から、ほんの少し前までは、多少の、微々たるものではあるが、一種の尊敬と感謝の念を持っていた。しかし、こういう顔をされれば、あぁ、いつものクズ野郎だと、ただ、落胆する他ない。
「まあ、初めてやったこと、初めてなされたこと、なら、研究目的として、結果と考察をしなきゃなるまいし。後処理っていうか、問診というか、アフターケアは必要だろう?」
そのアフターケアが納得いかない。豊宮の商業主義。恩着せがましいと言えば、そうである。後乗せ料金が高くつく。妙に、そんな懐疑心が一夜を覆っていた。
「気にするな。初めてのことだって言っただろ。治験と一緒だ。お代は貰わねえよ。寧ろ、研究材料として感謝するさ。その感謝の気持ちを含めて一つ、面白いものをくれてやる」
カズの笑みに、嫌な予感を持って、目配せでカズの隣の樒を見た。一夜の目線に気づいた樒はお手上げだというように、へらへらと笑って、両の掌を見せている。一夜がハッと短く溜息を吐くと、カズは口から零していく。
「一夜。海には行ったことがあるか?」
カズが懐から取り出した数枚の写真は、青でその半面を覆うものであった。白い面は濡れている部分のみが薄く焦げたように見える。青は光を含んで、煌めいている。それが巨大な水であることは分かった。それが、自分が足も入れたことのない、塩水の塊だということもわかった。
「リハビリだ。遊びに行こう」
「リハビリ?」
カズの写真によって一種の幻想に包まれていた一夜の目は、カズの一言でふと現に帰る。
「暫く外に出てねえだろ。それに、俺がいない間に色々とうちの父さんから体について聞いてたみたいだしな。それの練習も兼ねてだ。つまりは半分、俺の案じゃなく、豊宮一姫の提案。『息の吸い方』なら、泳げば嫌でも覚える」
数日前のことを思い出す。
「痛みを和らげるのに、息の吸い方を聞いたが」
一夜がそう淡々と言うと、同時に、襖が開いて、ゲンが湯呑を机に置いていく。それを合図と言うかの如く、羚が口を歪めた。
「カズ君。一夜君は多分、まだよく理解してないよ。だってわからないんだ。自分が『人間として殆ど息をしてなかった』なんて、唐突に言われたって。息をしなくても生きていける人間が、周りはそうじゃないなんて気づくのは難しい」
羚がそう言ったのを、カズは眉を顰めて聞いていた。ふむ、と鼻を鳴らすと、カズは頭を掻いた。
「大宮家は寿命が短いことが多い。いや、宮家そのものが短命であることが多い。大きすぎる能力をずっとは持っておけないからだ」
すると唐突に、カズは一夜の腕を掴む。驚いて振り回して、カズの手を払いのけようとする一夜など知らぬ顔で、カズは手首から動脈に沿って肘裏までをなぞる。
「特に血管。純度の高い宮家において、ここは循環機能を能力に依存しながら、高純度の力の塊である血液を流している。循環機能が能力の力で動かされているんじゃ、飽和して血液から力が漏れ出して、そのまま血管を傷つける。お前が倒れたのも、オシラサマを加護に加えて力を大きくしたは良いが、それの大きさに血管が耐えられなかったのが原因だ」
カズが手をパッと離すと、一夜は力任せに手を引っ込め、撫でつけた。カズが触れた部分は熱い。心音もした。
「血管と呼吸器は臓腑として直結している。能力への依存を抑えるのに、人間らしく呼吸するってのが必要なんだ」
ジワリと肺が熱い。体温が上がっていることは確かであった。カズの言葉が何か刺さっているようでもある。酸素の飽和はある意味の痛みを持って、一夜を襲った。それでも、それは、『襲う』から、『包む』に変容する。
「理解したか? 俺も急いでるんだ。明日には出るぞ。出来ればお前だけじゃなくて、宮家の奴らは大体来てくれると『助かる』んだが」
カズがニヤリと笑った。言葉の強調が、協調を促す。一夜は頬杖をついて、羚とゲンを眺めた。ずっとにこやかにしている羚を見ても何も思いつかない。逆にゲンを見ると、その後ろ、ゲンを盾にこちらを輝かしい瞳で見つめる真樹と細好に目が行ってしまう。ガラリと、また新たに玄関の戸を空ける音が聞こえた。決断を迫られている。無常な好奇心と高揚感を、カズの差し出した写真が浮かばせる。
「……参加する全員に各々が求める水着を。宿泊施設は宮家経営の旅館。泳ぐのは一般人がいない場所。それぞれの宮家に一人以上の守護者か従者がつくことを忘れないでくれ」
一夜がそう絞り出すと、カズは勝ち誇ったように笑った。呆れたように、溜息を吐きながら立ち上がった樒は、何処かに電話をかけるようであった。
「お邪魔します。あれ? 何かお話中だった?」
襖を開いて笑ったのは、真夜であった。共にいた葛木の手にはアイスクリームの入った箱が幾つか袋に詰められて、ある。それは一夜たちが真夜たち金糸屋と共に食べるには多すぎるように感じて、一夜は鈍らせていた耳を澄ませた。心音は幾つもあり。それは、勢ぞろい、を表している。
「ドライアイス少ないから早く食べろ! というかスプーン何処!」
そんなひょっこりと顔を見せた銃夜の言葉で、アイスクリームの匂いを嗅ぎつけて、細好と真樹が一目散に台所へと走っていく。ぞろぞろと廊下を歩く人間達の分を考えれば、その大量のアイスクリームの重さは理解できた。
「俺はマシュマロ入ってるやつが食べたいから残しておけ。洗い物めんどくさいからカップのまま食えよ」
諦めきって、一夜はひんやりとしたアイスクリームの保冷箱を受け取って、熱を帯びる頬を冷やした。
一部屋では入りきらぬ人間達は、中庭にまで溢れて、それぞれが冷たい乳成分を食らっている。縁側で凍ったチョコとマシュマロを口に溶かす一夜は、隣でミルク味の蓋を舐める黒い獣を見つめていた。その更に隣には、糸目の、怪しげな雰囲気をまとう男が一人。自分が頼ったのだから、怪しい、と思うのも失礼極まりないのかもしれないが、一夜にとっては、印象として、それ以上でもそれ以外でもなかった。ただ、ここ数日のことで、思うところはある。妙に懐いているクロと、それを穏やかに、一種、甘えるように接する晴安は、一夜にとっては、意味のよく掴めない存在である。
「なんや、機嫌悪いんか、当主様」
ニコニコと、何処か母にも似た笑みで、晴安は一夜に尋ねた。
「眉間に皺寄ってるで。そんなんじゃ痕がついてまう」
晴安は、ぐりぐりと、冷えた指先で一夜の眉間を伸ばす。されるがままに、一夜は、牙を剥きだして、小さな威嚇を示した。
「晴安。もっとくれ」
クロが舐めていたアイスの蓋を前足で叩くを合図に、一夜は威嚇をやめ、クロを見つめる。
「一夜のも寄越せ」
「小型犬にチョコはダメだろ」
「俺は犬じゃない!」
一夜の溜息交じりの言葉に、クロは空かさず反応し、それを噴き出すように晴安が笑っていた。スッとクロの前に差し出されたのは、カップに半分入った、溶けかけのミルクアイスである。
「体冷えてきたんで食べて貰えます?」
晴安の言葉に、キラキラと静かに目を合わせて、クロはペロペロとそれを舐め始めた。
「後で下痢してテトリンに動物病院連れてかれても知らないからな」
一夜の一言を耳にしたクロは、一瞬、ドキリと体を震わせるが、目を反らして舐め続ける。
「で、何でそんなに機嫌悪そうなんです?」
大人しくなったクロを横目に、晴安は一夜を見つめた。それに応えるように、一夜も目を合わせる。カップの中身はもう残り三分の一になってしまっている。
「これは考えごとするときの癖だ。お前らを見てて不思議だったんだよ」
「僕ら」
晴安は指でクロと自分を交互に差し、嬉しそうに笑った。
「不思議に、なあ。安倍の家については当主様も知っとる通りだと思うんやけど。僕らは大宮支族の異端。初期の初期に陰陽師の血を受けた受け皿。百子様の監視下におる、ただの霊能者の家や」
袖で隠した下にあるのは笑みか、それとも無かは分からないが、酷く、温かみを感じる。
「ただの霊能者の家が、クロに好かれるとは思わねえんだけど」
嫉妬、に近いかもしれない。一夜はクロを一瞬だけ睨んで、その目を晴安に上げた。
「……君はまだ分からん方がええかもしれん。もし本当に、僕とクロ様、ここの家についての関係が知りたいなら、当主の部屋を調べえ」
うっすらと、晴安は瞳を見せる。一夜はそれを睨んで、思考を終わらせた。
「そうか。誰も自分からは言わない気か」
一夜がそう言うと、晴安は、すまんなあ、と、一つ置いて、またにっこりと笑む。
「僕が答えを手渡したら、君の御母上に怒られてしまうからなあ」
ピクリと、一夜の手が止まる。アイスクリームは既に溶けていた。
「お文に聞いてもダメやで。あの子はなんも知らん。元治様はダメや。あの方は答えを歪ませる。あらゆることにおいて、君は、生きている人間に聞くことは出来ないと思った方がええ。知ってる人間ほど、先に死ぬ。お喋り程早く死ぬんやで。宮家とかいう世界はな」
中庭は、アイスクリームを食べ終わった少年少女で騒がしかった。参拝客たちにこの声は聞こえているだろう。おかげで、クロと一夜と晴安以外の人間に、この会話は聞こえていなかった。ぺろりとクロはアイスを食べつくすと、晴安の膝に丸まる。
「俺は少し眠るぞ一夜。餓鬼共と遊んでいろ」
クロがすやすやと寝息を立てて眠りにつくのを、一夜は黙って見ていた。晴安は人差し指で口を噤む。一夜は溜息を吐いて、中庭を見渡す。ふと、ヒヨがこちらに向かってくるのを確認して、縁側から降りた。
「どうしたヒヨ」
目を爛々と輝かせたヒヨの周囲には、二匹の赤い蝶が舞い、鱗粉を降らせている。
「一夜、海に行くって本当か? 俺も着いて行って良いか? 母さん達には絶対に了解貰うから、良いよな?」
輝かしいその瞳は、羚と似た群青。カズに何か言われたのだろう。カズが何か、一夜に責任転嫁しているのだろう。後ろから続々と似たような輝きを持った少年少女が顔を出していた。
「……旅費はカズにせがめ。言い出しっぺは俺じゃないからな」
向こう側の、カズを睨んでそう言うと、その場にいた全員が、カズを見つめる。その視線から逃げるように、樒はカズから離れていった。
「坊ちゃん嬢ちゃんは守護者連れて来いよ。流石にこの人数を俺一人が管理は出来ないしな」
ちゃんと、先程言っていた条件を飲んでいる。カズの発言を確認して、一夜は周囲を見渡した。台所からゲンが温かい茶を持って歩いてきていた。
「アイスは体が冷えるから」
そう言って、ゲンは一夜に湯呑を手渡す。手先がじんわりと温もりを取り戻して、一夜は一口飲みこんだ。
「海。海かあ……」
ふと、そんな声が聞こえた。少し、寂しげにも聞こえる。その声の主は、明らかに、真夜であった。目を一際輝かしていた一人でもあるが、彼女は、一瞬、その表情を落とす。それをカズも一夜も見逃していない。一夜は無意識に眉間に皺をよせ、カズはニタリと笑っていた。
「テトリンさんに留守を頼まなきゃね」
羚が、空のカップを片付けて、そう笑っていた。あぁ、とだけ、一夜は口を置く。長閑なこの平穏が、どうか一秒でも続くことを、一夜は願っている。そっと、一夜の肩に少女の手が置かれた。
「大丈夫? 元気がないけれど」
フセは手を外すと、一夜を見つめる。
「大丈夫よ。カズは本当に誰かが死ななければいけなくなったら、自分が死にに行くような男だから」
鼻で、フセは溜息を吐いている。
「わかったようなことを言うじゃないか」
一夜が不器用に笑うと、フセは無感情のままカズを見ていた。
「ま、それなりに。心底嫌いではあるけどね。そんなことより、海、楽しみましょ。何があっても一夜なら大丈夫よ」
励ましだろうか。フセが笑う。色彩、ゲンと似通っているフセは、金髪を初夏の太陽に煌めかせている。その髪なら、海の、乱反射の光にも輝くだろう。
新品のキッズ携帯で電話をする細好と、人数と金勘定を始めたカズを横目に、一夜は口元を綻ばせた。
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