降りる人

 トロリと、瓶の中で動く鮮血。


 生娘の血液は、魔術や魔法の世界では一般的にインクのように使われる。昔ほど、処女であることが重要ではなくなった現代では、あまり手に入れやすいとは言えないが、魔女の界隈ではよく消費されるものだ。特に宮家のような特殊な血筋の血液は、生娘でなくとも高値で取引される。宮家であり生娘であるという、二つが揃った二人の血液は、通常の術に使う血液よりも数段上質なものとなっていた。


――――これをオークションに出せば、きっと目玉商品になるだろうな。


 カズは嫌なことを考えてしまったと、一度頭を振る。


「扱いづらいか?」


 文夜がそんなカズを見て、ふとそんなことを言った。しかし、円形に文字を描くカズは、手を止めずに、目も動かさずに笑う。


「いや、とんでもなく使いやすい。純血じゃない俺にとっては、な」


 アルファベットとルーン文字の混濁した術式は、意味を知らぬ者には、ただの幼稚なお遊びにしか見えない。効率と術者のやりやすさ、被術者の負担軽減を徹底するには、見た目の美しさなど二の次なのだ。


 カズは、豊宮の跡取りである少年は、西の魔女の技術が強く影響した魔女である。魔女には四人の、始祖と呼ばれる魔女がいる。それぞれ、イギリス、カナダ、ケニア、中国に住み、全く異なったやり方、思想を持つ。それは彼女や彼らが千歳になろうとしている現代では、一種の流派として、脈絡繋がれているのだ。


 西の魔女の流派は特に、効率化や時代に合わせた魔女のあり方を説く。その考えと技術に影響されているカズは、宮家の色がある魔術の術式においても、あまり他人の目を気にしない方針である。


「あとは被術後の準備だけだ」


 整えた円状の術式、魔法陣を見て、カズはそう呟いた。体力が幾らか削られて、身体が畳に滑る。


「大丈夫ですか」


 グラりと揺れたカズの体を、樒が襟首を掴んで支えた。その隙間から見えた項には、汗の一つも垂れていない。


「大丈夫。飯食って眠ればどうにかなる。それより一夜の体力がギリギリなのが心配だ」


 肌が薄らと白い一夜を見る。文夜が隣で、体を温めたり、脈を測ってはいるが、どうにも回復しているようには見えない。


「何が足りない」


 文夜にそう、カズが尋ねるが、その答えを渋るように、文夜は重く口を開く。


「……血が足りない……今までの出血が酷すぎた。宮家はありとあらゆる代謝に、能力を巡らせているから、血液が足りないのは少し危険だ」


 ふむ、と、カズが唸った。


「輸血するしかないだろ。宮家とて人間だ。親御さんには連絡入れてるんだし、そろそろ到着してもおかしくないんだ。二人から血を貰えばいい」


 それができればそう、焦る顔はしないのだろうと、流石に言った本人もわかっている。それが出来ないから、文夜は、カズと樒と千寿香の三人に、苦しそうな顔を向けているのだ。


「……一夕君の体は健康体なんでしょう? そっちから持ってくればいいのでは無いですか? 一卵生の双子なら、出来ないはずはない」


 それもそうだと、樒の言葉に頭の中でカズは相槌打つ。しかし、文夜はそれにも頭を振った。


「……今のところ、一夜にそのまま輸血出来る血液は、この世界に一滴も無い。一夕の血を輸血しても意味が無いんだ。何の効果も得られない」


 その発言は、部屋にいた四人全員が黙るには十分であった。医学的な問題では無いのだろう。一夜と一夕が一卵生の双子であることは、誰が調べても決定的である。しかしそれでも出来ないと言うのだから、それは、もっと別の場所の問題である。


「そのままじゃ、出来ないんだな?」


 カズが、静まっていた部屋に声を鳴らす。


「なら、どうにか工夫すれば出来るって言うことだ。それをしてくれ。俺達じゃ出来ないんだろ。お前はお前が出来ることをしてくれ」


 カズの言葉に、わかった、と、ボソリと文夜は応えた。どうにもそれがもどかしく、千寿香がカズの耳元で尋ねる。


「何故か、というのは聞かなくて良いんですか」


 不可思議が凝り固まってそこに存在していることは、もはや明白だった。しかし、カズは首を振り、困ったように笑う。


「俺にはまだ、一夜という存在の、当事者になる勇気がない」


 一夜の小さな体には、問題は山積みに乗っているのだろう。それを自分が幾らか代わりに背負うだけの自信が、自分には備わっていないと、カズは簡単に理解出来ていた。


「俺は一夜と朝伏ほど、自分自身に魅力は見い出せないし、一夕ほど多くの人間と手を取り合いたいとは思えないし、和姫ほど我慢強くはない」


 フッと、カズは息を吸った。


「文夜」


 呼ぶ声は、少年のそれではない。変声期直後の、青年の声。


「自分から説明しようとしなくていい。俺は、俺が気になったことは、自分で尋ねに行く。勝手に答えを用意して投げなくていい。こっちの受け取る準備が出来てなきゃ、協力だって出来ないからな」


 立ち上がり、自分の描いた魔方陣を見渡した。この中央に、一夜を乗せるのだ。


 カズの話を聞いて、決心付いた文夜の、最後の仕上げさえ終われば、すぐにでも取り掛れる。


「それじゃあ、俺達は一旦どくから。終わったら呼んでくれ」


 声は少年に戻っている。威圧も優しさも、畏怖も無い。いつものカズである。床に触れぬようにと結んでまとめていた、袖を直し、一度、皆がいる部屋へ急ぐ。数人、もう家に帰ったと聞いたが、それが誰であったかは忘れてしまっていた。微かな笑い声が、耳に届いて、固まっていた足先が解れたようである。空はもう赤く、日暮れの空であった。


 ふんわりと、良い匂いがして、カズは眉間にシワを寄せる。


「あら、終わったの?」


 丸テーブルを拭いて、片付けようとしていたテトリンが、カズにそう言った。


「いや、ちょっと問題発生して、文夜がそれを片付けてる。それが終わったら再開させようと……」




「すまんが暫くそれは出来そうにない」




 少し張った声で、カズを遮りそう言ったのは、いつの間にか背後にいた文夜であった。


「材料が来ないことには出来ない。すまん、それを言おうと思ったんだが、足が痺れてそれどころじゃなかった」


 小鹿のように足を震わせる文夜は、テトリンの笑いを誘う。


「丁度いいわ! 皆でご飯にしましょ! 四人ともお家に電話しちゃって!」


 長い大テーブルを軽々と持ち上げ、片付けた丸テーブルの跡に置くと、テトリンはスキップのように軽い足取りで、台所に戻る。既に携帯を取り出して、家に夕食の有無の連絡を入れている千寿香の指も軽やかであった。足の痺れが取れたらしい文夜は、妙に慣れた足取りで、屋敷の電話に向かう。取り残されたようなカズは、樒とチラと見合う。


「……ぎっくり腰はどうだったんだ?」


 カズの問いに、鼻で笑って見せた樒は、歯を見せて言った。


「どうにか弄って治しましたよ」


 成程、痛みを堪える顔ではないと、カズも鼻で笑った。


「おいお前ら! 手伝え! 働かない奴には肉食わせねえぞ!」


 突然、ククっと、少々不気味な笑いが聞こえる。下が砂利で出来た庭で、炭を運んでいたのは、笑い声をあげた銃夜と、見かけたことのない、黒いジャケットを着込んだ青年であった。


「うるせえ! さっきまで仕事してたわアホ!」


 カズの返答に対する、さらなる銃夜の笑い声の後ろで、バーベキューコンロを数台出す者達が見えた。その中に異夜と羚がいたが、それ以外はどうにも見たことがない者や、名前がわからない者しかいなかった。遠目に見ると、それは爛れたような、腐ったような四肢と顔を持つ少年や、病院に共にいた、アキラと呼ばれた男、クセの無い黒髪と深い緑の瞳を持ち合わせた男であった。


「ちょっと、草履出して手伝って! 日が完全に落ちる前に火を焚かなきゃ!」


 ウキウキとした感情を抑えられない咲耶が、着火剤とマッチを持って、炭の塊に駆け寄っていた。辺りを見回してみれば、全員が全員、何かしらの仕事を見つけて動いているようである。


「……よくやってられんね、仲間の一人が死にかけっていう時に」


 皮肉と、それに纏わる冗談を練り込んでぶちまけた。独り言ではあったが、誰かしら聞いてくれればいいと願う。だが、誰もその声には反応せず、今を楽しもうとしているようにも見えた。置いていかれるような気がして、ふと、真樹達を探す。再度見渡すと、タライに水を張って氷をそこに入れようとしている真樹と、西瓜を重そうに持つ細好を見つけた。


「一個じゃ足りねえんじゃねえの?」


 丁度、二人が縁側の近くで動いていたために、カズは縁側を歩くだけで二人に近づいた。声をかけられたことに驚いた細好が、西瓜をタライの中に即座に浮かべて、真樹の後ろに隠れて、カズを睨む。


「大丈夫、これから来る人達がもう少し買ってきてくれるらしいから」


 真樹の大丈夫は、細好に対する言葉でもあるのだろう。似合わない苦笑いが、張り付いて見える。


「誰呼んだんだよ」


 カズが尋ねると、真樹は真に笑んで言った。


「君影先生と、三枝先生と、弟切先生だよ。テトリンが言ってたんだ。三人とも、僕ら側の人達なんだって。樒先生のお友達だって」


「お友達ねえ」


 後ろ、いつの間にかいない樒を笑って、カズはステップを踏む要領で、縁側を裸足で降りる。砂利が、足の裏を潰すように触れた。


「まあ、毒花の奴らは皆、横の繋がりが強いからな。友達って言うのかは知らねえが、考え方としては良いんじゃねえの」


 コクリ、と、真樹は首を横に傾げる。意味が分かっていないようで、細好の通訳を待った。呆れたような、諦めているような、少し楽しそうにしているような、矛盾を孕んだ細好の表情が、妙に気味悪く、カズは少しの身震いをする。


「毒花というのはな、樒や君影といったように、七つの毒花の名を冠した、能力者の集団のようなものだ。宮家支族が宮家から無理やりに宮家の名を外されたとするなら、彼らは自分からその道を外れた者たちの集まり。宮家に従うこともするが、基本的には絶対的忠誠はしない。何せ、宮家と同等の能力を持っていながら、自己の為に名を踏み潰した者が殆どだからな」


 口調がきつくなるにつれて、細好は睨む。その目線の先には、西瓜を持ってこちらに歩みを寄せる、件の四人がいた。


「僕、何かしたかな?」


 苦笑いで、先頭の弟切は首を傾げる。樒は三人の気配を感じて、その荷物を持ちに駆けつけていたらしく、その手には丸々と大きな黒玉西瓜がビニール袋に入れて託されていた。託した側であろう三枝が、ハンッと、鼻を鳴らす。


「千宮の坊ちゃんがこんなところで従者も付けずに何をしてらっしゃる。下賤な私達と声交えているタイプではないでしょうに」


 三枝から紡がれる、明確な敵意と、殺意にも似た鋭利な言葉。学校で何度も出会っている、カズと真樹からすれば、三枝はこのようなことを言う人間ではない。冷徹に見得ようとも、実に生徒思いの、優し気な大人である。


「……従者は全員休暇中だ。今回は一夜の見舞いも兼ねて、俺が個人的に来ているだけ。それに、俺が誰と食事を交わそうと、俺の勝手だ。誰の従者にもなろうとしない奴が、俺に何か言う権利はない」


 細好も、そう、小さな牙を見せるように、声と言葉を小さく荒げた。何か、お互いにナイフを向い合せるようなことがあったのだろう。この二人をこのままにしてはいけないと思ったのか、君影が、その身を乗り出す。細い糸目は、カッと開いて、その瞼の下の黒い瞳を見せていた。


「こんなの時にわざわざ酒を不味くすることないでしょう。とっとと子供たちの西瓜を冷やして、皆で飲みましょうよ。ね、三枝先生」


 そう言って君影は三枝と顔を見合わせるが、三枝は本心から嫌そうに、一夜がカズや元治に見せるような嫌悪の表情を向ける。そのまま、何も持たない手を軽そうに、踵を返した。


「やっぱりあの人だけは抱けませんね。体は良いけど、こっちのものを踏み潰されそうで」


 樒が、勝手に前にいた君影の持つ袋から出したらしい、飲み途中のビールの空き缶を持って、そう言った。常に曝け出している本音を、更にありもしないオブラートを剥して言う癖のある、酔っぱらった樒佑都を知っているカズは、真樹と細好の手を掴んで、逃げるようにバーベキューセットを整えている集団に翔けて行った。驚いて何か喚いている細好の声は、カズにはあまり届いていない。


「よう、まだ炭はあったまってないぞ。野菜の準備とかしてろよ。何かあったのか?」


 丁度、文夜がその場にいたのを確認し、そっと胸を撫で下ろす。


「いい大人達が遊び始めたから避難してきたんだよ。酒が入るとあの人達面倒くさいから」


「あぁ」


 文夜は成程、というように、カズの言葉に妙な賛同を示す。その隣で、アキラと羚が、炭を温めるのに、ずっと手を動かしていたが、全て聞こえていたのか、少々、にやけるような口の動きが見えた。


「……見ない顔だな」


 細好が、不審がって、アキラを見る。羚以外の誰もが、その素性を知らない彼に対する興味は、カズ自身にもあった。


「俺に何か?」


 興味の目線が向けられていることに気が付いたアキラが、声を上げた細好と、目線を合わせるべく、跪いた。膝の両方を幼顔の細好を舐めるように見て、ニヤリと、気味悪く笑う。


「……成程、可哀相に。これは何とも業が深い産物だ」


 深い、不快な思想を持つ者の顔。カズはそれをよく知っていた。驚きと、一種の恐怖で固まっている細好の前に出で、アキラの目線を遮った。必然的に、カズの顔を見ることになったアキラが、表情を落とすように、突然、無表情になる。この仕草もよく知っている。


「俺は細好君と話していたんだがな。何故君が出てくるかがわからない。そこを出来れば退いていただきたい」


 自己主張。それを通すためだけの言葉。ある意味、聞き飽きた言葉の並べ方である。尊重は見えない。そこにある思想が、全て自分だけの為にあるような、そんな表層が透けて見えた。立ち上がって、カズを見下ろす形になったアキラが、睨むカズの顔を見て、今度は軽く噴き出すように笑った。


「そう睨む必要は無い。彼に危害も何も加えやしないさ。俺は医者だからな。副作用以外の害を、他人に与えてやる理由を持っていない。今はただ、久しぶりの野外パーティーを楽しむただのおっさんさ。そして社会的地位は、君の同僚のようなものでもある」


 続く、アキラの言葉は、少々穏やかに変貌した。


「フルネームは厳島彰。こう見えて西の魔女の派閥に属する魔女だ。是非君とはお近づきになりたいと思っている」


 手を差し出す。握手という奴だろう。だが、カズは睨むのをやめない。その経歴が、あまりに信用できないからである。羚に目を移し、彼が舌を出して無邪気に微笑んだのを確認すると、溜息をついて、眉間の力を抜いた。


「俺が聞きたいのはそういうことじゃないけど、とりあえずは信用しよう。俺に隠し事して更に一部嘘をついていることについては、いつかちゃんと話してくれるのを待つ。だから、あまり他人を怖がらせるのは止めてくれ。まだこの国は魔女には慣れていないんだ」


 カズは、そう、顔を見ずにアキラにそう言った。


「ふむ、了解した」


 止めていた手を、アキラは言葉と共に再開する。赤くなった炭が、夜の闇によく映える。もう夜であった。少し離れたコンロでは、既に異夜や銃夜達が、何処から出したかもわからない肉を突いていた。黒いジャケットの男や、妙な体の少年もそこにおり、どうやら、その態度から、異夜の従者か守護者であるようである。また、銃夜には主人と同僚を共わない葛木と、一度聞いたことはある、安倍家の兄弟が寄り添い、守護者である晴嵐もいた。不思議と、裸女はそこにはおらず、気配も見当たらない。


「早く食べないと、食材すぐに無くなっちゃうからね!」


 屋敷の中から、大皿に出した生の食材を、テトリンがそう言って披露する。その中には、郁やその妹の定、ヒヨとフセまでいる。だが、ヒヨとフセに関しては、あまり乗り気には見えず、二人の周囲のみ、通夜のようである。


 走って皿を取りに行く真樹と、それに気づいて共に駆けだした細好を見て、ふと、カズは空を見上げた。


――――満月。


 空に浮かんだ月が、青白く、その存在を誇張していた。しかしその場にいる誰もかれも、空を見上げる気はないらしく、虚しくその誇張に意味はなかった。唯一気づいたカズが、思いついたように、それを写す鏡を探す。


 自分以外の全員が、誰も自分に気を留めないことを確認して、カズは屋敷の周囲を散策する。何処に何があるかは知っている。カズが向かった先にあったのは、池であった。裸足に芝生が心地いい。水辺の草は湿っている。


 黒稲荷神社にある池には二つある。一つは、観賞に使う、鯉のいる池。もう一つ、カズの目の前にあるのが、呪術の為に作られた、透き通り生き物の気配が殺された池。後者の底には、刀や何かの紙、木片などが、錆びることもバラバラになることも、腐ることもなく溜まっている。その透き通った水面は空の月を映し、輝いた。


 カズはそれを確認し、水面に手を入れる。水辺に這いつくばって、かき回す。フッと、静かに息を吹きかけてから、大きく呼吸を整えた。そして、一気に、念仏のような英語の呪文を唱え続ける。水面から手を離すと、滴が垂れて、水面に円を描く。ピッと、張りつめて、何も移さなくなった水面に、カズは声を発した。


『おい、そこに誰かいるか』


 英語でそう呟く。すると、ガタンと、椅子か何かが倒れる音が聞こえ、カズは微笑む。複数名の騒めきも耳に届く。


『カズト!』


 少々、甲高い、少年の声。よく知った声であった。


『ハクか。もしかして授業中だったか?』


 カズがそう尋ねると、更に、その後ろから、少女の声を聴く。


『そうだよ! 基礎魔術の授業! 今日は水鏡のレッスンだったんだけど……奇跡的にハクが成功したと思ったら、貴方がそっちからやったのね!』


 少女は、ハクの隣から顔を突き出して来たらしい。何年経っても変わらぬ仲だと、カズは微笑んだ。その微笑みが見えてはいないだろうが、同じように笑ったんだろうと、カズは想像をめぐらす。


『リリー、奇跡的は酷くない!?』


 ハクのその主張で、少女、リリーのコロコロとした笑い声が鳴った。ふと、突然、通話先が静かになった。何が起きたのだろうと、カズが耳を澄ますと、張りつめた声が、カズの背を凍り付かせる。


『ハロー、私の最高の弟子』


 重く圧し掛かるような女性の声。ハッキリとした物言いで、カズはその優位な立ち位置を打ち切られる。


『ハロー、おばあ様……いえ、ミセス・アリッサ』


 カズがそう言うと、アリッサは重い溜息をして、声を続けた。


『何か用事があるなら、もう少し経ってからが良かったわ。それならこんな騒ぎにもならなかった。相談事なら後で手紙を送るから、返信なさい。少しは自分の能力を弁えて。この【アカデミー】に、貴方を越して、水鏡を拒める魔女など、いないのだから』


『……はい。軽率でした』


『……今すぐ言わなければいけない用事が無いのなら、今すぐ水鏡を切って。そちらの夜が明けた頃に手紙を送ります』


『はい。すみませんでした』


『それと、心無い謝罪は結構。今度会う時にその不満、ぶつけてきなさい。全部纏めて叩き戻してやる』


『……わーったよ。とっととおくたばりやがれババア』


 頭を掻いて、カズは水辺に手を差し込んだ。くるりとかき回すと、遠くから聞こえていた音は聞こえなくなっている。水面の反射も、全てが元通りである。


「…………」


 もう一度、水面を見つめた。どうにも、この静けさは魅力的であった。遠くで聞こえるバーベキューの楽し気な声が、カズに多大な羨望を抱かせたが、足取りは重い。立ち上がって、おこぼれにくらいあずかろうと、振り向いた。




 その瞬間である。


 頭を掴まれ、池に叩きつけられる。息を止める準備をしていなかった肺に、水がだくだくと入っていくのが分かった。袴は水を吸って重く、それほど深くないはずの池は、足も付かなければ浮かびそうもない。ずっと手と足を動かしていなければ、浮いていられない。岸に手をかけたくても、何故だか滑ってそれが出来ないでいる。


 誰が自分を池に落としたのか、見当もつかなかった。誰も自分の後ろにいた痕跡が見えないからだ。もしかしたら、地面を見れば足跡か何かあるのかもしれないが、人間の気配は消えている。誰もいない事が悔やまれる。泳ぎをあまり練習してこなかったことも、全て、後悔に含まれた。助けてとも言う気力もなく、ゆっくり、沈んでいく自分の体を感じた。最後の、肺の中の空気が、口から零れる。目を閉じようとしたその時、自分より小さな手が、水の中に差し込まれたことに気づいて、めいっぱいに引っ張った。同時に、自分の上半身が、大気の中に存在するのを感じて、甘い空気を吸う。


 肺の中の水は忽然と消えた。自分の手と、それに力強く握られている、弱々しく息をして立つ一夜の手が、目の前に見えて、ただ、立ち尽くすだけであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る