遠出に泣くと
手に薄っすらと多数の傷が残っているのは、一夜とカズ、どちらの手も同じである。それはよく見なければわからないが、同じものを持っている同士、簡単にわかる。風が揺れ、夢うつつに近かった意識が開ける。ビクリと、一夜の生きていないような表情に驚いて、カズの腕が離れる。その勢いのまま、手を引っ張ってしまって、一夜の体はぐらりとカズのいる池に落ちようとしていた。
「……っ」
力無い体は、本来の体重よりも重く感じる。自分より数段軽いとはいえ、息を整え切れていないカズには、やはり重く感じられる。どさりと音を立てて体を預けた一夜に、意識を感じられない。
夢遊病だろうか。
そんな症歴、カルテで見た覚えはない。ハッキリと、一夜は自分の意思でこの池まで来たのだとわかった。しかし、一夜がいた部屋から、ここまではそれなりに距離があったはずであるし、体力が足りないと言われた彼が、ここに来る理由も方法も分からなかった。
「一夜? 大丈夫か?」
自分の濡れた体に、一夜の浴衣が張り付いたのが何だか気になって、一夜に出来るだけ触れないように肩を貸し、屋敷までの芝生を歩いた。ずるりと足を引きずると思ったが、無意識か軽い意識か、一夜は足を動かす。軽くなった肩が、何だか不気味で、冷える。
「……一夜? 気が付いてるのか?」
尋ねた言葉に、一夜はゆっくりと前を向いて、頷く。声を出す気力を振り絞ったらしい。弱く、小さく、一夜は言った。
「すまない」
その謝罪が、一夜自身が負傷して助けられているからなのか。それとも遅すぎるが、保冷剤をぶん投げたことを謝っているのだろうか。
「悪いことをした。俺の監督不行き届きだ」
一夜が、何を言っているのかがわからない。意識の混濁を疑うが、目は部屋で眠っていた状態を思い出せば、かなりハッキリとしている。ゆっくりと動いた先、やっと縁側にたどり着くと、一夜はもう一度、倒れ込むようにそこにうつ伏せになる。縁側を構成する板は滑らかで、芝生より冷えていた。カズは少々痛む体に鞭を打って、一夜を仰向けに直し、目を合わせる。
「悪いがお前の言ってることと俺の認識が合わない。いくつか質問に答えろ。もしくはそこから詳しく説明しろ」
カズはフッと空気を飲み込む。濡れた唇で温度を得た空気が、肺を焼くようだった。
「今、何に対して謝った」
それだけを聞くと、一夜は目を閉じて、もう一度開く。そして口をゆっくりと開けた。
「お前を池に落としたことだ。あそこは大宮家以外が落ちると水の異界に飛ばされる」
ハッキリとした言葉が紡がれた。一夜は目を擦って、腕を支えに座った。
「毒花には注意しろ。お前も宮家なら使い方を間違えるな。出来ることなら仕え人に人間は使わない方が良い。とても面倒臭いことになる」
「……まるで、自分達が人間じゃないように言うな」
カズが疑問を呈す。しかし、一夜はそれに対して、目も合わせず、肯定を落とした。
「大宮家が人間に見えるか? 神も殺そうとする一族を人間と形容するべきではないだろ」
不安症。カズには一種の精神不安定の状態に見えた。それが本音かどうかを調べることは今の技術では不可能である。しかし、一夜の言葉は何処となく、何か根拠を踏まえて、それを飲み込んで話しているようでもある。
「それは人間の定義の話か?」
質問を重ねれば何かわかるのではないかと、置いてはみるが、その答えに期待はしていない。とにもかくにも、一夜が安定的に思考を巡らせていないのは明白であった。
「……人間の定義か……それにも近い。こういう世界にいると、自分の立ち位置があやふやになるんだ。崇められると自分が他人に作られている気がしてならない」
どうにも、カズにもそれ以上を聞くことが出来なかった。ただ、黙ってその先を聞く。
「どの想像までが俺であって良いのかわからないんだ。わからないから、疑問の根源を壊すしか出来ない。正解まで歩くことが怖い」
震えた一夜の声が響いた。遠くのバーベキュー会場の楽し気な音と斉唱する。これ以上の会話は傷を広げるだけであると、カズは悟った。
カズは右掌に、常人よりは尖った歯を立てて、どろりとした血液を腕まで流れ出させる。
「なら今は歩かなければ良いんだ。今の暗さに慣れたら歩け。今は眠れ」
ぽたりと、血、膝に滴るように、一夜の目を塞ぐ。ぐらりと揺れて、もう一度眠る。手を顔から離すと、血だらけになった顔で、一夜はぐっすりと、深く息をして眠っていた。
呼吸器官が回復したわけではない。カズが無理矢理に眠らせたからである。じりじりと痛む手の傷から出る血液も気にせずに、カズは一夜を抱きかかえようと試みる。しかし、体格差が足りない。肩を貸した時もそうであったが、一夜は意外にも重く、カズは今の姿ではあまり一夜をおぶさったり抱きかかえて移動することは難しい。ふと、周囲に目配せして、カズは溜息をした。周囲にやはり人はいない。それはある意味ラッキーであり、ある意味アンラッキーでもある。誰も運べそうな人間がいないのであれば、自分が運ぶしかない。運ぶためにこれからすることは、やはり知っている人間以外には見てほしくないものだ。
グッと、足先から力を込める。不快感を持った高揚が、足先からやって来るのを感じた。バキバキと、骨が割れるような音と痛みが走った。声を出しそうになるが、息を深く吸うだけで抑える。脊髄が最後にゴキリと音を立てた。
自分の一回り大きくなった手を見て、また溜息を吐いた。それは深呼吸にも近く、ギシギシと傷む体の節々に響く。数か月ぶりに元の姿に戻ったカズは、痛みを伴いつつも軽いことに少々驚いたが、筋肉量がそもそも違うのだから、当たり前ではある。くるりと一夜に目を戻し、手を板と体の間に挟み込んだ。そのまま腕を上げて、抱え上げる。それは先程とは違い、明らかに軽やかで、簡単であった。
立ち上がり、周囲をもう一度見渡して、バーベキューを行っていない方の、裏手の方を回って歩いて行く。ギシギシと板の音がうるさい。腐りかけの板があるわけでもないだろうが、連続する梅雨の雨が腐れかけぐらいにはしているのかもしれない。そういえば、自分の屋敷もそろそろ業者を呼ばないといけない頃かと、思い出して、片隅で唸った。薄く灯りのついた、魔方陣を描いた部屋の隅、柔らかそうな布団を見つけて、そこに一夜を置く。少し明るい場所で見れば、顔色はあまり良くないことがわかる。あれだけ話せたことがある意味不思議てあった。実は自分は見てはいけないものを見たような、踏み入れても仕方がない場所に踏み入れている気もして、頭を掻いた。
「……あのさ」
無音の背に、カズは伝えた。
「正面突破で殺すことも眠らすことも出来ないなら、俺に手をかけない方が良い」
ピクリと、自分の首筋に僅かな風が当たる。それは生き物の何かが首筋に触れかけていたのを、動揺で止めた時のものである。
「一度で殺せりゃ良いけど、無理だから、何度か仕留める必要がある。そこに不意打ちの意味は無い。わかったらその手を引け。そして帰れ。お前が誰なのか知る気もないが、俺は一夜を傷つける気はさらさら無い」
おそらくは、その手の主は、一夜の従者か守護者である。自分が何故それに不意打ちを仕掛けられなければならないのか、そんなことはわからないが、自分を池に落としたのも彼ないし彼女だろう。自分の動揺を隠しつつ、カズは首元の手が引くのを待った。
「……もし、俺のことを周りに漏らしたら」
カズの言葉で、引きかけていた手がもう一度びくりと跳ねる。
「お前の身元を特定して切り刻んで、俺の使い魔にでも食わせてやる。まあ、お前が漏らせばの話だ。俺もお前がやったことは誰にも漏らさない。これでイーブンだ。そうだろう?」
苦し紛れの脅しを受け取るかは、かなりわからない。自分は一夜ではないのだ。畏怖される存在ではない。何方かと言えば、否、確実に、おちょくられている立場である。黙り続ける誰かの言葉を待って、カズは気分を悟られないように、出る唾を飲み込まず口に含む。
フッと、気配が消えた。自分の後ろにいた誰かは、どこに行ったのかもわからないが、どこかへ消えた。近くに潜んでいる可能性を危惧し、カズはすぐさま辺りを見渡す。
「ゴネリル、リーガン、コーディリア」
自分の影に触れ、その名前を呼んだ。月明かりで伸びた影からずるりと這い出たのは、白い雌獅子、白い雌山羊、白い雌豹であった。
「一応、周りに人間がいないか探してくれ」
カズがそう指示すると、それぞれまた影に溶け込んで、何処かへと消えて行った。暫くの後、また浮き出た三匹の目を見て、唸る。
「わかった。ありがとう」
どうやら、誰もいないらしい。じっと目を見るコーディリアの頭を撫で、自分の影の中に押し込んだ。それに続いて、ゴネリル、リーガンも影に入っていく。完全に一夜と二人きりになったことを確認し、体をまた、ミシミシと縮める。伸ばすよりも痛みは少ないが、不快感は酷くうるさかった。池に落ちた時に濡れた着物が、不思議と既に乾いていたことについて、元に戻ったと同時にカズは首を傾げたが、水そのものに何かしらの術があるのだろうと、無理矢理に納得する。
――――いつ、一夜は元に戻るだろうか。
ふと、一夜の寝顔を見て思った。もう、食事に参加する気にもならない。おそらくは、明日にならなければ輸血も出来ないのだろう。血液は命の一部である。それが使えないのであれば、最早手立てはない。どんなに至高の体を持とうとも、どんなに最上の魂を持とうとも、それだけは誰にも覆せない。それが今の技術と能力の限界である。
何度か、幼い頃からカズは考えたことがあった。宮家と魔女が手を取って魔術という高等技術が生まれたのだから、魔術と科学が折り重なれば、神のその先にすら往ける技術が生まれやしないかと。宮家の能力は現在見つかっている純粋な能力の分別で言えば、世界最高とも言えるだろう。外の世界を知らない宮家の中心達では、そんなことはわからないだろうが、世界を知るカズは少なくともそう考えていた。そこに次元の違う技術や能力を組み合わせれば、どうなるだろうか。この考えの半分は、自分の目的のための思考の一部である。もう半分は、純粋な興味であった。魔女の性ではない。豊宮家の血縁だろう。父方の祖父もその好奇心を糧に、北の魔女を娶り、一代にして魔術を完成させた。そうでなくても、豊宮家はいつの時代も、好奇心で周りから煙たがられている。
それは千年前からの話であり、豊宮を守護する神獣にも現れている。
「よう、クロはいないのかい?」
その神獣、ハヤバネが、突然、自分の目の前に降り立ったことに、カズは心底驚いていた。
「……何だよ、突然。夕飯抜きにでもされたか?」
カズが怪訝な表情を浮かべた相手は、一人の青年であった。彼は上半身に、現代チックな黒のノースリーブを着こみ、黒のジーパンを履いていた。髪は全てを反射させる黒色で、瞳の色は紫色で、怪しく輝く。そこまでは現代の青年と何ら変わらない風貌だが、ただ一つの人間との違いは、彼が耳の部分から翼を生やし、先程まで鴉の姿を取っていたということだろう。それがカズのよく知る神獣ハヤバネである。
「別にぃ? ちょーっとお前が困ってる気がしたから来てやっただけさ。良い神獣だろ?」
「遅いんだよ。問題がゴタゴタ煮詰まったころに来ても」
「そうか、それは丁度良かった。とても面白い時に来たってことだ」
ハヤバネは他人が困っているのを見ると面白いと言う、所謂北欧神話のロキのような、トリックスターを演じているような奴であった。特に、豊宮の直系に手を出してはかき回して困らせ、後処理の一つもしない。カズもその前の当主たちも、何度も困惑させられている。
「かき回すなよ? 流石にこれ以上は俺も腹立つ」
カズがそう忠告すると、ハヤバネはカズの隣に胡坐をかいて座り、にっこりと微笑む。
「手は出さない。でも俺はいつでもお前を見ている聞いている。それが俺の存在意義だからな。せいぜい足掻けよ魔女の子」
「ストーカーか?」
「ハハッ そうとも言うな」
紫の瞳が、潤んで月の光で輝いていた。すると、丁度、板の軋む音が聞こえて、それに気が付いたハヤバネがサッと、鴉に姿を変え空に消えた。何事もなかったように、カズはその足音の正体を待った。
「……カズ?」
カズと対面する形で文夜が、猫背を更にまげて、部屋に入り込む。
「一夜に何かあったのか」
暗がりでよくは見えないが、文夜が焦りを見せているのがその声色でわかった。しかし、カズは冷静に、且つ少々の微笑みを交える。
「さっき目が覚めて錯乱したから、深めに眠って貰ったんだ。これで少しは能力の消費を抑えられると思う」
一夜に寄りついて顔を確認した文夜は、カズの言葉と共に、その安全と安心を認識し、ホッと溜息を吐く。文夜の手が、一夜の顔に触れた。一夜を見る今の文夜の表情は、まるで父親のようである。
「で、何で来た。用事は俺か、一夜か」
カズが落ち着いた声でそう言うと、文夜は表情を直して、カズの目を見た。口を開いた時の表情は、苦しそうで、伝えづらいことを伝えるのだろうと、そこまでの期待はしないでいる。
「……輸血の材料が揃うのは、明日の昼になった。儀式も昼以降でないと行えない。けれどそれまで一夜の容態が安定する気がしないんだ」
なるほどと、カズは頭を搔く。
「とりあえず、使い魔を近くに寄せて精力を出来るだけ安定させよう。出来れば安定させるためには一夜の式神も置いておきたいんだが……」
そこまで言って、カズは、おや、と、思いついた。
「一夜って何で式神を持ってないんだ? こいつくらいの天才なら、生まれた時からいてもおかしくないのに」
呟いた先、文夜は、眉間に皺を寄せてカズを見る。カズは不思議そうにそれを見たが、暫く経って、何かに納得したように、一夜の額に手を置く。
「わかったよ。それも何かあるんだろ。今は聞かないでおくさ。今はな」
そう言ってカズは、再び、コーディリア達を影から呼び出し、一夜を囲ませた。少々の獣臭さはあるものの、その辺の犬や猫に集られるのとそう大差ない臭いではある。一夜はクロに包まれていることが多い。それならば、どうせ臭いなど気にならないだろうと、カズは更に黒猫を数匹影から出し、一夜に乗せた。
「多すぎないか」
文夜がそう言って、止めようとしたが、一匹の猫に威嚇され、身を引く。
「暖かくていいだろ。体も冷えてるしな」
温度と毛皮で出来た生きた布団を被って、一夜は静かに眠っている。カズはそれを確認して、文夜と目配せし、立ち上がった。
「肉食っていかねえのか」
文夜がカズに尋ねるが、カズは笑って歩き出す。
「他の奴らが食う分を残してやるのさ」
その答えに、文夜がクスリと柄にもなく笑う。そんな希少な顔も見ずに、カズは黙ってバーベキュー会場に急いだ。そういえば、樒は飲みすぎてやいないかと、次第に心配が湧き、自然と早足になる。いっそう煩くなった大人達や子供達の中で、自分の従者二人が、何故か軽い殴り合いになっているのを見つけたカズは、また裸足で走り出す。
数分後、仲裁に入った三枝の蹴りでぎっくり腰を再発させた樒を、千寿香が車に載せ、唯一運転しても法に触れない文夜が、ワゴン車を走らせて、カズは帰路に着いた。
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