春味誘拐

雷藤和太郎

フキノトウ、菜の花、少女

 コンクリートの壁。薄暗い室内。少女はお腹に人形を抱えて不安そうに椅子に座っていた。

 灰色の冷たい事務机には、デスクライトが煌々と照っている。白熱電球の光は直視するには目に痛い。少女はジッとうつむく。時折、ジジジ、という何かが焼け焦げるような音だけが聞こえる。

 室内は、少女しかいなかった。

 廊下に続くドアには窓が一つついており、部屋から外界へ通じるのはその窓と、部屋の片隅に取り付けられた型の古い換気扇だけである。ドアの窓から見える向こう側も、室内同様に薄暗い。

 うつむく少女はそっと足を体に寄せて、椅子の上で体を丸める。換気扇の向こうから、自動車が通っていく音が聞こえた。

「待たせてしまったな」

 ドアが開いて、ガタイの良いスーツ姿の男性が部屋に入ってきた。少女は椅子の上で身を強張らせてしまう。

「風間先輩、もっと愛想よくしてください」

 風間と呼ばれた男性の後ろから、頭一つ小さい女性が顔を出した。スーツ姿に対して、こちらは婦警の制服を着ている。

「うるさい、太刀川。これでもいっぱいいっぱいだ」

「あっほら、言い方。そんなんだから茉莉香ちゃんが怖がって、もう、可哀想に」

 太刀川と呼ばれた婦警は、椅子の上で身を縮こまらせる少女に近づいて、全身で覆うように少女を抱きしめた。

「ごめんね茉莉香ちゃん、こんな暗いところで待たせちゃってね、怖かったよねぇ」

 広げた翼で卵を温める親鳥のように、太刀川は茉莉香と呼ぶ少女をゆっくり抱きしめた。

 強張っていた茉莉香の体は、太刀川の温かい抱擁によって徐々に解かれた。体に子ども特有の柔らかさが戻るのを感じ取った太刀川が、ゆっくりと離れて、茉莉香の様子を確認する。

「そのお人形さんは、お友達?」

 茉莉香の抱えていた人形は、真っ黒い熊の人形だった。人形と太刀川の顔とを交互に見比べて、茉莉香は小さくうなずく。

「そっか。可愛いお人形さんだね、お名前は?」

「……ツッキー」

「ツッキーかぁ。お胸に横にしたお月様の模様があるものね」

「太刀川、無駄なおしゃべりはそのくらいにしろ」

 風間が眉間を揉みながら言う。ドア前で二人のおしゃべりを聞いていた風間は、大股で茉莉香の座る椅子の対面、事務机の抽斗がある方の椅子にドッカと座る。手持ちの調書を広げて茉莉香と向かい合うと、その隣にいた太刀川が目を三角にしていた。

「なんだ、太刀川」

「無駄なおしゃべりじゃありません、茉莉香ちゃんはまだ小学生なんですよ?あんな目に遭って、ようやく出てこられたと思ったら今度は大人がよってたかって質問責め、挙句の果てに警察署の暗くて狭い一室で待ってなくっちゃいけない、ってこれが良い子にとってどれだけ怖いことなのか分からないんですか!?」

 まくしたてるように文句を言う太刀川は、両手でそっと茉莉香を抱きしめている。茉莉香は再び視線を落として、今にも消え入りそうだ。

「……被害者がちゃんと証言してくれれば、時間はとらせない」

「また言い方!茉莉香ちゃん、隣にお姉さんがついているからね。この強面のおじさんから守るよ」

 背中をさする太刀川にすがるような視線を向ける茉莉香。その様子を見て風間は内心で安堵していた。

 二人の役割は太刀川の仕込みだった。

 強面で威圧感を与えてしまうだろう風間が調書を取ったところで、事件の関係上、茉莉香を余計に怖がらせるだけだ。そこで太刀川と一芝居うって、茉莉香が話しやすい雰囲気にすることにした。仕込みは成功、茉莉香は太刀川を自分側の人間だと思い、この場で悪者は風間だけどなる。

 自分が小さな女の子に悪者にされることは心が痛んだが、事件の真相を語ってもらうためには仕方ない。

「さて、事件について話を聞かせてもらえるかな、茉莉香さん」

「茉莉香ちゃん、私がついているからね。少しずつでいいからこの強面のおじさんに一緒にお話ししていこう」

 ただし太刀川には後で拳骨を落としてやる、と心に誓う風間だった。


 ◇


 例年よりも少し早い開花前線の到来に、茉莉香は両親に連れられて共に川辺の公園まで花見に出かけた。川辺の公園には、茉莉香たちと同様の家族でごった返していたが、桜の木から程遠い芝生の丘の一角にシートを置いて陣取ることができた。持ってきた飲食物を広げて、茉莉香の話す勉強のこと、友達のこと、学校のことなどに両親は耳を傾けていた。

 周りの家族の中には禁止だと看板に書かれているのにビールを持ってきて飲んでいる家族もあったし、羽目を外した大学生が千鳥足になって子連れの家族に迷惑をかけている姿も見られた。

 春の陽気である。桜花の美しさの前には、人間の醜いふるまいなど鎧袖一触であった。桜に負けないものは、醜さではなく同等の美しさである。茉莉香の両親は、溌溂と育った我が子の姿こそ、桜に負けず、何物にも代えがたい宝物だと信じて疑わなかった。

 しかし、手の届く桜の枝が悪意のある何者かによって手折られてしまうように、春の陽気は誰かにとっての宝物を簡単に盗み取ってしまうような気の迷いに溢れている。

 そして気の迷いは、時として無差別であった。

 茉莉香が尿意を催してトイレに行くと言い出したのが、昼食を食べ終えてすぐのことである。迷子にならないようについて行こうとした母親を遮って、茉莉香は一人で近くにある公衆トイレへと向かった。

 十分経っても茉莉香は帰って来なかった。迷子になったのかと思い、父親を待機させて母親が周囲を探し始めた。しかし茉莉香は見当たらない。川辺の公園に迷子の相談窓口がある訳もなく、同じように花見をしている人たちに問うてみるも、人の多さも相まって情報は一向に集まらない。ついには父親もしびれを切らして捜索に加わったものの、日が傾き始めても茉莉香は現れなかった。

 そこでようやく両親はただ事ではないことが起こったと思い、警察に駆け込んだのだ。警察による捜索もむなしく、その日のうちに茉莉香が両親のもとに帰ることはなかった。

 母親はすっかりパニックに陥ってしまい、慰める父親の手を払い意気消沈してしまう。父親は母親の会社に事態を説明し、しばらく休ませることにした。同時に、母親の実家に連絡して、来てもらうことにもしたのである。

 茉莉香は桜の木が手折られるように、両親のもとから消えた。


 ◇


「すまないね、茉莉香ちゃん。わざわざお家にまで来てもらって」

 小さな手をひかれて茉莉香が訪れたのは、五階建てのマンションの一室だった。自動ドアの先に暗証番号を入力する機械があり、ソファや観葉植物の置かれたエントランスの先にあるエレベーターには、部屋番号と、もう一度暗証番号を入力しなければならない徹底ぶり。

 エントランスは地階だというのに明るかった。採光のための窓から入ってくる春の陽射しと、足元を照らすLEDライトのおかげだろう。

 三和土で靴を脱いで部屋に入り、茉莉香は部屋へと案内される。廊下の先の扉を開けるとダイニングキッチン付きの広々としたリビングが広がっており、全面のガラス窓からは辺りが一望できる。

「うわあ……」

 茉莉香には見たことのない景色だった。

 街の向こうには、先ほどまでいた川辺の公園が川の対岸に広がっており、二つ見える橋の片方は電車が通っている。電車の向こうには工業地帯、反対側の橋の向こうにはビルの群れ。

「すごい景色だろう?」

「うん!」

 茉莉香は無邪気に喜んだ。茉莉香の家もマンションではあったが、その周りには同じような高さのマンションがいくつも立ち並ぶ住宅街で、この部屋からの景色のような展望は得られない。一方、この部屋は茉莉香の住むマンションほど高くはなかったものの、周囲に同じような高層の建物がないために見晴らしがよい。

 茉莉香が眺望に夢中になっている間に、男性はリビングにある蓄音機に針を落とした。ゆったりとした音楽が部屋を満たす。それから男性は冷蔵庫からタッパーと製氷を取り出してリビングに戻った。

「おじさん、それ何?」

「はちみつレモンだよ」

 早くも眺望に飽きたのか、男性の持ってきたものに茉莉香の興味が移った。促されるままに男性の隣の椅子によじ登り座って、はちみつレモンと言ったタッパーの中のものを見つめる。

 よく洗って種を取ったレモンを薄く輪切りにしたものを、はちみつに漬けてタッパーで保管したものだ。男性はそれをグラスに二、三枚入れて、さらに漬けていたはちみつもたっぷりグラスに流し込む。クリスタルアイスを入れながら、男性は茉莉香に聞いた。

「炭酸は飲める?しゅわしゅわ、ってする奴」

「うーん……苦手かな」

「じゃあ普通の水にしようね」

 男性は用意していたミネラルウォーターをグラスに注いで数回ステアする。グラスの中でさわやかな色のはちみつがもやもやと混ざり合ってジュースとなった。

「どうぞ」

 差し出されたそれを、少し用心しながら受け取る。ひんやりと手に冷たいグラス、かすかに甘く色づいたジュースとはちみつの香り。茉莉香はゆっくりとグラスに口をつけて、はちみつレモンを口にする。

 こくん。

 レモンの香気が鼻に抜け、はちみつの甘味が口の中いっぱいに広がる。男性は炭酸水で同じように作って隣で飲み始める。

「美味しいかい?」

「おいしい!」

 満開の笑顔を咲かせる茉莉香に、思わず男性も顔をほころばせた。

「それはよかった」

 春の陽気、さわやかなジュースの酸味と甘み、そして音楽。茉莉香はすっかり男性と打ち解けて、友達たちの間で流行っている遊びやマンガのこと、欲しいと思っている文房具、行ってみたいところなどをとりとめもなく話した。

 男性は茉莉香の話に親身に耳を傾け、決して否定せず、それでいて大人や両親に関する話題には触れないように、慎重に茉莉香の話題を誘導し続ける。男性は少女に不安や恐怖を与えることに細心の注意を払った。

「おじさんは夕食の準備をするのだけれど、茉莉香ちゃんはどうする?手伝う?」

 それとも、と言って男性はテレビにつながれた最新のゲーム機を茉莉香に見せた。子どもが遊べるパーティーゲームや通信対戦型アクションシューティングのラインナップは先ほどの茉莉香との会話の中でも何度か出てきていたものである。

「ゲームする!」

 台所の手伝いよりもゲームの方が楽しいに決まっている。それが話題のゲームであればなおさらだ。男性は茉莉香にゲームを渡し、プレイし始めるのを見届けてから、再びダイニングキッチンの中へと入っていった。

 間もなくして、キッチンに湯を沸かした鍋から湯気が立ち上り、包丁の小気味よい音と、シンクに水の流れる音、何かを炒める音などが聞こえてくる。茉莉香は目の前のアクションシューティングゲームに夢中だった。楽しい時間はあっという間に過ぎる。料理をしながら茉莉香の様子を伺う男性だったが、茉莉香はゲームに夢中で一向に飽きる気配がない。

 意外に我慢強い子なのかも知れない。

 そんなことを思いつつ、男性は間に合わせるように調理を進めていく。夕食の時間は午後六時四〇分だ。それは男性が少女の家をつぶさに観察して得た結論である。茉莉香の家庭は共働きであり、平日の夕食を近くに住んでいる母方の祖母に任せている。その時間が六時四〇分であった。重要なのは、少女を不安がらせないことであり、余計なストレスをかけないことである。

「もうすぐご飯できるよー」

「うーん」

 男性がカウンター越しに茉莉香に話しかけると、上の空な返事が返ってきた。相当熱中しているらしいが、男性が顔をそちらに覗かせるたびに敵方から撃たれているので、決して上手な訳ではなさそうだ。

 男性は微笑みながらリビングのテーブルに食器を並べていく。三菜一汁のきっちりした日本食である。食事の匂いがふわりと茉莉香の鼻をかすめていく。匂いに誘われて茉莉香が振り向いた。

「ご飯!?」

「ご飯だよ」

 少し待って、と言って少女は再び画面に向き直した。試合は終了し、茉莉香の方はギリギリで負け。

「また負けたァ、本当に難しい、このゲーム」

 コントローラーを置いて立ち上がり、男性と向かい合うようにして椅子に座った。

「わあ」

 茉莉香と男性の間には、色とりどりのおかずが用意されていた。

 卵焼きと松風焼きを主菜として、副菜に大根とツナのサラダ、カツオ削り節の乗った菜の花のおひたし。汁物は蛤出汁の吸い物で、大きく口の開いた蛤が丸々一個入っている。

「まぜご飯だ!」

「ちょっと違うかな。鯛めしって言ってね、鯛と一緒にご飯を炊くんだ。良い匂いがするでしょう?」

「美味しそうな匂い!」

 桜鯛と呼ばれる春の真鯛は、旬をわずかに過ぎてはいるものの、色味が良く、絶品である。良く焼いて香ばしさの増した骨やお頭と共に炊き込むと、得も言われぬ滋味が口の中に広がるのだ。骨は取り、身をほぐして混ぜてあるので、主菜が弱くても満足感は申し分ない。

「とりあえず、いただきますしようか」

「はぁい」

 二人は顎の前で手を合わせると、いただきます、と唱えた。

 茉莉香は黄色の鮮やかな卵焼きを一切れ箸でつまんで食べる。噛むたびに溢れる出汁の旨味と、甘く味付けられた卵の旨味が口の中でほどけていく。思わず目をつぶって、美味しさを噛みしめる様子を、男性は微笑ましく見つめた。

 食卓に並べられているものの中で、一つだけ、茉莉香には分からないものがあった。手のひらほどの大きさの小皿に、くたくたの枝のようなものが丸く盛りつけられ、その上に緑がかった味噌がかかっている。枝のようなものは茉莉香もどこかで見たことがある気がしたが、味噌の色が気になった。

「……これは?」

「蕗の薹味噌なんだけど、知らない?」

「フキノトウ?」

 これも春の味覚である。

 早春に芽吹いた蕾の状態のフキノトウを湯がき、灰汁を抜いたものをたたいて味噌と混ぜたものだ。蕗の薹の野味と苦味を味わうものとしては、天ぷらの次にポピュラーだと言ってよい。

「おじさんが食べたいって言っていた奴?」

「そうだよ」

 ふぅん、と言って茉莉香が箸先に味噌をつけて舐めてみる。

「苦ァい!」

「でしょう?」

「おじさん、こんな苦いのを食べたいの?」

「ハハハ」

 その下のを見てごらん、と男性に言われた茉莉香が蕗の薹味噌を避けつつくたくたの枝を持ち上げる。

「つくしだ!」

 その正体はつくしだった。つくしも春の野草の一種で、湯がいておひたしにする。これも灰汁がつよく苦みのある食べ物で、子どもにはあまり好かれない。

「食べてみるかい?」

「……苦い?」

「多分ね」

「うぇー、ヤだ」

 副菜の皿の端に置いて、茉莉香は口直しに蛤の吸い物をすすった。わずかに白く濁った吸い地は蛤の出汁そのもので、口の中に広がる旨味は格別である。これと鯛めしとを交互に口にするだけで、いくらでも食べられるほど。

「美味しい!」

 満面の笑みを浮かべる少女を前に、男性はただただその幸せを噛みしめていた。茉莉香の笑顔に誘われるように、男性も少しずつ食を進める。茉莉香が口にしないつくしのおひたし、蕗の薹味噌和えを口に入れて、目を固くつぶって苦みを堪能する。

「そんなに苦いなら食べなければいいのにー」

 目の端に涙を浮かべた男性を見て、茉莉香は無邪気に笑った。

「苦いけれど、食べたいんだよねぇ」

 男性はしみじみと言った。

「茉莉香ちゃんにお願いする時にも話したけれど、春っていうのは芽吹きの季節なんだよ。芽吹き、っていうのは、体を起こすっていう意味もあって、冬の間、ぼんやりしていた体を苦味でしゃっきりさせる。心機一転、って言葉は知ってる?見る、聞く、匂う、そういう五感の中に味わうがあって、春を感じる一番の味は苦味なんだよ」

 分かるかな、と男性が聞くと、茉莉香は少し首を傾げた。

「大人になったら分かるかもね」

 男性は微笑み、菜の花のおひたしに箸をつける。わずかに蕾のほころんだ菜の花を湯がいたものに、削り節と醤油で味をつけたもの。

「菜の花も食べるの?」

「そうだよ。これはそこまで苦くないから、ちょっと試してみる?」

 蕗の薹味噌やつくしのおひたしに比べれば、ずっとえぐ味は少ない。ほうれん草のようなものと思えばよい、と男性が言うと、茉莉香はほうれん草も好きじゃないという。子どもは苦いものに敏感だ。

 それでも、苦味を美味しく感じるのが大人だという男性の言葉に触発されたのか、茉莉香は果敢に菜の花のおひたしに挑戦する。蕾の部分からわずかに見えた黄色が卵焼きの色を連想させる。そこで茉莉香ははっと気づき、おひたしを卵焼きに乗せた。

「これなら苦くても、甘いから大丈夫」

 得意になって口に入れる。

 口の中は、苦味と甘味が一緒になっているはずだ。咀嚼する茉莉香の姿を愛おしそうに眺める男性。目をつぶって口の中のものを噛む茉莉香。

 やがて茉莉香は音が聞こえるのではないかと思うほどに喉を動かして、口の中のものを飲み込んだ。目を開くと、先ほど男性がつくしを食べた時のように、目尻に涙をわずかにこぼしながら、笑顔を浮かべた。

「春の味!」

 歯を見せて笑う茉莉香に、不作法だとは思いつつも、男性は食卓越しに手を伸ばして茉莉香の頭を撫でた。

「よく頑張って食べたね、偉い偉い」

「んふふー」

 頭を撫でられると、猫のような仕草をする。それがまた男性にはたまらなく愛おしく感じられるのであった。

 目の前のものをパクパクと平らげていく茉莉香の様子を見ながら、男性も同じように食べ進めていく。松風焼きに塗った味噌は茉莉香の分は普通の甘味噌だが、男性の分は蕗の薹味噌である。

「おじさんは甘い味が苦手なの?」

 不意に発せられた茉莉香からの質問に、男性の箸が止まる。

「どういう意味かな?」

「お父さんがね、甘いものが苦手なの。何で甘いのが嫌いなのって聞いたら、男は甘いのが苦手なんだって言うから、おじさんも苦手なのかなって」

 おそらく、男性が卵焼きに口をつけていないのも、茉莉香がそう思った理由の一つなのだろう。その卵焼きは茉莉香にあげようと残しておいたものだった。

「苦手なわけじゃないんだよ。……実はね、おじさんは甘味を感じないんだ」

「甘味を感じない……?」

「甘い、しょっぱい、酸っぱい、辛い、苦い。味には色々あるだろう?そのうちの一つ、甘いって感じが、おじさんには分からないんだ」

「それじゃあ、ジュースは?」

「甘くない」

「ケーキは?」

「ぱさぱさしてて、ホイップはぬるぬるしてる」

「チョコレートは?」

「ほろ苦いのが口いっぱいに溶けて広がる」

「かわいそう……」

 茉莉香は心底悲しそうな顔をして男性を見つめている。

「苦いのは食べたいんだけど、甘味がないとなかなか食べる気が起きないんだ。そこで茉莉香ちゃんに協力してほしかったんだ」

「でも……私は何もしてないよ?」

 茉莉香は男性の家に上がってから、ジュースをもらっておしゃべりをし、ゲームを借りてプレイし、それから食事を一緒にしただけだ。不思議がる茉莉香に男性は微笑む。

「おじさんは独り身でね、一緒に食事をしてくれる人がいないんだ。茉莉香ちゃんみたいな、可愛くて素直な子と一緒に食事を採るのは、おじさんにとってとても貴重でかけがえのない時間なんだ」

「……よく分かんない」

「茉莉香ちゃんは、おじさんにとって角砂糖みたいな存在だっていうことだよ」

「甘い?」

「そう、茉莉香ちゃんと食事をするだけで、とっても甘いんだ。おじさんの代わりに甘いものを食べてくれるかい?甘いものを食べて、美味しいって笑顔になってくれるだけで、おじさんも甘味を感じられる気がするから」

 そう言って男性は自分の分の卵焼きを皿ごと茉莉香に差し出す。茉莉香には甘い卵焼きも、男性にとっては少し出汁のきいた卵焼きだ。

「無理して食べる必要はないからね」

 そう。無理やりに食べさせて、無理やりに笑顔にさせることは、男性の本意ではない。純粋な可愛らしさの前に、大人の思惑に従うなどという雑味を混ぜてはいけない。

「でも、残さず食べなさい、っていつもおばあちゃんが……」

 茉莉香はよく躾けられた少女だった。もちろん、男性がそういう女の子を狙っていたことに相違ない。

「手をつけていなければ、次の日の朝食にしたり、やりようは色々あるから残しても大丈夫だよ。今日の夕食はそういう風に作ってあるんだ」

 主菜は一切れずつ食べられるように切って皿に盛りつけてあるし、副菜の小皿に関しては、少女はほとんど口にしないことを分かって、少な目ないし少女の分を盛っていない。吸い物と主食に関しては、おかわりを前提にした、問題なく食べられる量を盛っている。

「気になるなら、菜の花のおひたしだけでも頑張ってみるかい?」

 小皿に大根とツナのサラダを取り分けながら、男性が言う。手作りの和風ドレッシングをかけて食べるのが男性の日常だった。

「んー……頑張る」

 おずおずと菜の花に箸をつけ、今度は単体で味わう。口の中に入れたときはカツオ削り節と醤油の味があるが、長く噛んでいるとどうしても苦味が広がる。茉莉香にはその苦味がやはり慣れない。

 それでも何とか食べきると、茉莉香は得意になって男性の顔を見た。だいぶお腹もいっぱいになってきたようだ。蛤の吸い物も、既に椀種である蛤の身も食べて、鯛めしも残っていない。お米の一粒も茶碗に残っていないのを見ると、やはり少女の育ちの良さがうかがえる。

「お腹いっぱいになったら、無理しなくていいんだからね」

 茉莉香の分と作ったものは、全て平らげている。大根とツナのサラダには手をつけなかったが、誰が咎めるものでもない。

「食後にデザートも用意してあるからね」

「デザート!?」

 茉莉香が目をキラキラと輝かせる。その表情を受け止めるように、男性はつくしをたっぷりの蕗の薹味噌をつけて食べる。

「早く食べたい、って顔をしてるよ」

「早く食べたい!……なぁ~」

 デザートという言葉にテンションが上がってしまったものの、男性がまだご飯を食べている途中だということに気づいたらしく、語尾がしぼんでいく。せめて男性がご飯を食べ終わってから言うべきだった、と思っているのだろう。

「じゃあ、デザートにしようか」

 男性は茶碗に残っていた鯛めしをあっという間に平らげると、少女とともに手を合わせた。

「ごちそうさまでした」

 男性が皿を重ねて流し台に持っていこうとするのを、少女は手伝った。

「私も、お皿洗い手伝います」

「……ありがとう」

 せめてもの食事のお礼ということらしかった。男性の隣で袖をまくり、皿洗いを手伝う少女のいじらしい姿は、男性の心に得も言われぬ満足感を与えさせる。一緒に作業をするのは、親子になったようでむず痒さがあった。一人で作業するよりもずっと時間はかかっていたが、時間の経過を感じさせない温かさを男性は感じていた。

「じゃあ、デザートを用意するから、テーブルで待っていてね」

 律儀にテーブルで待つ少女。そこに男性が置いたデザートを見て、茉莉香は目をまんまるに見開いた。

「ふわあ……!」

 夜空を閉じ込めたような、透明の菓子があった。

 ゼリーよりもわずかに固く、羊羹よりも水っぽい。深い青色の水滴の中には、星型の餡が入っている。

 水まんじゅうだ。

「お星さまが入ってる!」

「頑張って作ってみたんだ」

 どうかな、と聞く必要もないほど、少女は全身で感動を表現していた。食べるのがもったいないらしく、なかなか菓子楊枝を刺せないでいる。矯めつ眇めつしていた茉莉香だったが、とうとう決心して菓子楊枝で水まんじゅうに切れ目を入れた。

 夜空を切り取ったような断面に驚き、口に入れてその甘さに驚く。茉莉香は思わずほっぺたをおさえた。

「甘くて、つるっとしてて、美味しい!」

「それは良かった」

 少女の笑顔は何よりの甘味だ。

 男性は自分の舌にそっと触れ、それから少女に一つお願いをしてみた。

「その水まんじゅうを、一かけおじさんに食べさせてくれないか?」

 茉莉香はきょとんとし、いくらか逡巡したのち、おそるおそる承諾した。楊枝で切った水まんじゅうのかけらを刺して、男性の口元に持っていく。

「はい、あーんして」

 少女に言われて口を開け、男性は水まんじゅうを味わう。

 それだけのことをしても、男性が甘味を感じることはなかった。

「どんな味?」

「……少しだけ、甘いかな」

「本当!?」

 嘘だった。しかしそれで少女が笑顔になれるなら、男性は自分がつき通せる範囲で嘘をついても構わないと思った。


 ◇


「味覚障害か?」

 風間がペン先で耳の後ろを掻く。

 換気扇の隙間から入ってくる陽の光は、血潮のように赤くなっている。もう少しすると、夕日も沈んで夜を迎えるのだろう。薄暗い部屋の中は床が氷になっているのではと思うほどに寒く、気をきかせた太刀川が、茉莉香のためにタオルケットを用意した。一緒にくるまっているので、おそらく太刀川自身も寒さを感じていたのだろう。

 茉莉香は誘拐犯の名前を覚えていなかった。覚えていない、と言うよりも、名前を聞いていない、と言った方が適切かもしれない、と風間は思った。

 計画的な誘拐だ。

「その男性は、何らかのストレスによって甘味を感じられなくなったんですかね」

「普通に身体的な不調も考えられる、余計な推察をするな」

「甘味を感じられないって、どんな感じなんだろう……茉莉香ちゃんも、おじさんのこと、可哀想って思ったんだね」

 太刀川の腕の中で、茉莉香は小さく頷いた。

 デザートを食べ終えるとすっかり暗くなっており、そのまま家に帰すのは危険だと男性が言うので、茉莉香はその家に泊まった。翌朝、男性と共に川辺の公園に戻った茉莉香は、そこで男性と別れて自分の足で自宅に帰る。二日目の捜索に入る前に見つかったことで、母親と、前日父親によって連絡を受けた母方の祖父母は痛く安堵した。母親は茉莉香を抱きしめ大声をあげて泣き、そこで初めて、茉莉香は「お母さんを悲しませることをしてしまった」と自覚する。

 それからすぐに警察署へ行き、色々と検査をして、茉莉香から話を聞いているのだった。

「太刀川、犯人に同情するなよ。その犯人がどれだけ可哀想だろうと、誘拐は立派な犯罪だ。それに、可哀想だと言うのなら誘拐された両親の気持ちも考えろ」

「分かっていますよ!それでも、男性の話を聞いて、可哀想だ、助けたい、って思う茉莉香ちゃんの優しさを蔑ろには出来ません」

 茉莉香は、優しかったのだ。

 可哀想な見ず知らずの男性の訴えを聞き入れてしまうほどに、優しく、純粋だったのだ。それを大人に悪用されてしまうのなら、悪用した大人が悪い。子どもの純粋な優しさを、踏みにじったのだから。

「しかしなぁ」

 詳細な調書を作る前に、人相とおおよその場所を茉莉香から聞いた警察は、既に犯人逮捕に向けて動き出していた。が、茉莉香が男性と食事をしたと思われる部屋にいたのは、無業者だった。

 犯人の男性は、その部屋を無業者の名義で借りて、誘拐のためだけにもろもろの家具等を揃えていたことが、その場にいた無業者の証言によって分かっている。家具や食器等はどれも真新しく、誘拐のためだけに使われた部屋であることは確度が高い。

 無業者が聞いた男性の人相と、茉莉香の語る人相が一致していたので、そこにいたことは確かである。

「それだけ用意周到で、金の使い方に迷いのない奴が、罪を犯して国外逃亡しないようにも思えないんだよな」

 下手をすると、外国に籍を置いていて、誘拐のためだけにわずかばかりの期間を日本で過ごしていた可能性すらある。

「それも推察ですよね」

 太刀川の一刀両断に、風間は両手を頭の後ろで組んで背もたれに体を預けた。

「プロファイリング、だ。もし犯人を必ず見つけようとなったら、とんでもなく手間な事件かも知れない、って思っただけだ」

 その部屋に住む権利を渡された無業者は、顔は覚えていても、名前は一切聞かなかったという。セキュリティのしっかりしたビルにも関わらず、プライバシーの関係とかで防犯カメラは一台もなかったし、居住契約に関するあれこれもだいぶ杜撰な管理だった。テクノロジーに追いつけない管理会社の隙をついた犯行は、鮮やかですらある。

「でも、犯人を見つけないと」

「……茉莉香さん」

 風間に名前を呼ばれて、少女は体を強張らせる。それに気づいた太刀川が、タオルケットの中で、茉莉香を優しく抱きとめた。

 足先から、体が冷えているのが分かった。

「茉莉香さんは、犯人が逮捕されてほしい?」

 意味のない質問だ。

 自分で言った通り、犯人は誘拐という罪を犯して、両親を、その地域の人々を、社会の平和を脅かした。罪に対しては罰が必要である。

 茉莉香はしばらく考え込んでいたが、やがて風間に顔を向けて言った。

「……お母さんが、泣いていたので」

「そうか……そうだな」

 優しい子だ、と風間は思った。

 茉莉香からの聞き取りはこれで終わり、太刀川に手をひかれるようにして、茉莉香は取調室から出てきた。足元も見えないほどに真っ暗な廊下、その端にある粗末な椅子に座っていた茉莉香の母は、茉莉香の姿をみるなり駆けつけて、茉莉香に抱きつき再びさめざめと泣いた。

「ごめんね、怖い目に遭わせてごめんね」

「大丈夫だよ、お母さん、私は大丈夫……」

 茉莉香を抱きしめる母の体が、冷え切っている。

 母親の泣く声だけが、真っ暗な廊下にこだましているのだった。

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春味誘拐 雷藤和太郎 @lay_do69

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