「動き始めた点C」 2ぱねる
私はドライヤーの音で我に返った。
「ごめん! 寝ちゃった!」
「うん、いいよ。 めーっちゃカットやり辛かったけどな。あと、ヨダレな!」
私はカットクロスに溜まったヨダレを見て恥ずかしくなる。
「ちょ、ティッシュ!」
「その前に、仕上がりはどうですか? お客様」
その言葉を聞いて、鏡を見る。
「うそ……これ私?」
自分の知っている私は、前髪ぱっつんの胸まである平凡なロングヘア。
目の前に写る私は、前髪が動きの出るように毛先が少し軽くなっていて。サイドは顎下位の長さ。ショートボブって言うのかな?
なんかフワっとしててめっちゃ可愛い……。私じゃないみたい……。
自然と笑みがこぼれてきてしまう。
「お客様どうでしょう?」
そう言って、手鏡で後ろ側も見せてくれた。
首が隠れるくらいのボブスタイルだ。
「可愛い! 可愛いよ謙!」
「だろ! 自信作だ! お前の毛質的に
「あんた凄いよ! あ、写メ撮りたい!」
「それはまだお待ちくださいお客様」
「なんでよ?」
「まだちゃんと仕上げてない。結構すいたから一回シャンプーしないとだし」
「えーそうなの?」
有無を言わさずに、謙はヨダレ付のカットクロスを取り、椅子を回転させて倒してきた。
顔にガーゼが掛けられる直前に目が合った。その時少し心臓の辺りが跳ねる。そう『ドキッ』ってやつだ。
やばい。顔近いよ……。って、なんで謙にドキッてしてるの私。
蛇口をひねる音と共にシャワーが出される。
「お前さ、結構髪痛んでるのな。根元の伸び具合とリタッチの痕的にさ、カラー月一で行ってるだろ?」
「うん、そんなに痛んでるの?」
「うーん、あんまりこんなこと言いたくないけど、お前の担当者下手くそ。ただ染めればいいって思ってるんだろうな」
「技術的な事は分かんないけど、結構無愛想な人かなー、私の担当。指名してる訳じゃないんだけど、いつも同じ人」
シャワーの音が止まり、シャンプーからミントの香りが漂ってくる。
リズミカルにかつ規則的に動く謙の手は、痛くもなく弱すぎでもない程良い力で、とても気持ちがいい。
謙のシャンプーは、小さい時に床屋ごっこで遊んだ時以来かな。
男の人ってこんなに手おっきいんだ。頭が包まれてるみたい。
「だから、その、次からは俺が染めてやるよ……練習にもなるし」
手の動きが少し乱れたような気がした。
「あんたカラーも出来るの? もう専門学校行かなくてもいいじゃん」
「カラーは姉貴の所に月一で染めに行ってるからな、だいぶ鍛えられてる……はず。学校は免許取る為にいくんだ」
「え、
「こっちに全然帰って来てないからな……」
「久しぶりにお話したいな……。ねえ、すっごい頭スースーしてきたんだけど!」
「あ、わりい。トニックシャンプー使っちまった」
「がー、流して流して! で、普通のでもっかい最初っからやって!」
「ったく、しょうがねーな」
その瞬間、私が勢いよく口を動かしたせいか、ガーゼがするりと落ちた。
本当の『目と鼻の先』ってこういう時に使うんじゃないだろうか?
シャンプーの姿勢だから、謙の顔が近いのは想像出来てたけど、ガーゼというガードのおかげで、プライベートスペースというそれは保たれていた。
私はシャンプーされている立場な訳で、頭は濡れてるし泡だらけだしで……要は拘束されてるようなもんで。
あらわにされる顔面。私の頭に触れている大きな手。目と鼻の先の謙の顔。
私は息を止め、肩に力が入り、手は胸の辺りで祈るようにし固まっていた。
「あ、わり。ってかどうした? お前顔真っ赤だぞ。そんなにスースーきつかったか? 今流すから待ってろ」
「が、ガーゼ、顔に、早く」
固まったまま私は言った。
何事もなかったようにスッと新しいガーゼが掛けられた。
安堵から「ふー」っと息を吐き出す。
その息でするりとまたガーゼは落ちた。
「……おい」
「ご、めん」
シャンプーが終わり、背もたれが起こされる。
こんなに緊張したシャンプーは初めてかもしれない。気持ちよかったけど……。
背中にじんわりと汗をかいているのに気付く。
「お前ずっとロングだったから、こういうスタイルの時の乾かし方とかわかんないだろ?」
タオルで私の頭を拭きながら訊いてくる。
「うん、こうブワーってやればいいんじゃないの?」
「まあ、結構濡れてる状態の時はそれでいいんだけど。その感じで最後まで乾かしきると、お前の場合は左側の毛先が前方向に向いちゃって、駄目なんだよ。つむじあるだろ? 自分でどっち巻か知ってる?」
「つむじ? どっちだろ? 気にした事ないや」
「お前は右巻きなんだけど。髪の毛ってのは、このつむじからの流れに沿って生えてて、その方向に合わせて乾かすと毛先が内側に綺麗に収まる。ロングの時は髪の毛自体の重さである程度落ち着くんだけど、短くなるとそうはいかないのさ」
「へー、でもなんかめんどくさそう」私は唇を突き出しながらだるそうに言った。
「簡単簡単。右巻きだから、右側はドライヤーを前から後ろに。左側は後ろから前に風を当てながら乾かすだけ。コツは、根元から手櫛で軽く引っ張りながらやることかな。根元がしっかり流れに沿って乾いてればオッケー」
「それだけ?」
「うん。たまにさ、ワンレン……おかっぱのボブあるだろ? まっすぐ切ってある髪型。その髪型で右か左のどっちかだけの毛先が、前に跳ねてる人見た事ない?」
「あー! いるいる! あれかっこ悪いよね。ってかうちの小春がまさにそんな感じ」
笑いながら答えた。
「あれがまさに、つむじを気にしないで乾かした結果ってやつ。きっと右も左も前から風当てて乾かしてるんだろうな。小春はまだ小さいからしょうがないな、今度頭やってやれよ」
「うん、やってみる」
「まあ、今からやって見せるから、見てて」
私は美容室に何度も行った事がある。でも、こんな話は一度もされたことがない。
つむじが何巻とか、乾かすときのやり方とか。
なんかすっごい面白い!
謙の手はまるで手品師のように動き、私の頭を乾かしていく。
その後も、トップは握るようにしてドライヤーであっためて、その後冷風をあてるとしっかりとボリュームが出るとか。
サイドに空気感出したかったら、同じようにやるといい。とか。
ドライヤーについてる冷風の使い道をはじめて知った。ただお風呂上がりの熱い時に使うものじゃなかったのだ。
そんな話をしている謙は、今までに見たことがないくらい楽しそうな顔をしていた。
ドライヤーの音が止まり、謙はワゴンに向かいながら、手のひらに何か取っているように見える。
乾かし終わった私の頭は、トップにボリュームがあり、サイドはふわっと、鉢まわりはボリュームが抑えられている。
「これ本当にドライヤーだけ?」
私はワックスなどの整髪料なしでここまで出来るのかと、感心しながら訊いてみた。
「今見てただろ? スタイリングはドライの時点でかなり決まるからな、あとはこれを付けて完成」
そう言いながら、私の髪を根元からグシャグシャとする。同時にフルーツのような甘い香りが鼻をかすめる。
「せっかく仕上がってたのにグシャグシャにするの? しかもワックス付けてる? せっかくシャンプーしたもらったのに!」
「これは流さないトリートメントだよ、ワックスタイプのね。だからこのまま寝ても大丈夫。それにしっかりドライしてるから、こうやって崩しても、手櫛ですぐに直る」
すると、みるみるうちに整っていく。トリートメントの効果なのか、パサついていた毛先もまとまり、先ほどよりも綺麗に仕上がった。
「その付けたやつすっごい良い匂い! なんの匂いなの?」
「これかー? フリージアって書いてるな」ワックスの裏面を見ながら答えた。
「フリージア? 花かな? でも匂いはフルーツみたい! すっごい好き」
「うーん、ならこれお前にやるよ。どーせうちでは使ってないし! 付けるようなお客さんも来ないしな」
「えー! いいの? お店のスタイリング剤って高いじゃん……お金払うよ」
「大丈夫大丈夫。親父にもバレないって」
その時鏡越しに、バックルーム側から何か見えたような気がした。
同時にバックルームから突然声がした。
「ほー。なら、それは謙の給料から天引きしとくか! それは確か1200円だったな。社割で30%引きとして……いくらだ?」
突然の第三者の声で、私は跳ね上がる。
少しの間のあと謙が口を開く。
「360円引きだから840円だろ。ってかいつからいたんだよ?」
その声の主はバックルームから姿を現す。
長身でがっちりした体。髪は後ろに軽く流していて、もみあげとつながっている髭。口にはタバコを咥え、タンクトップに短パン。
そう、謙のおじさんである。
「シャンプーしてるくらいからここで隠れて見てた。こんな時間に男女二人だ、結構いい雰囲気だったし、なんか起きるんじゃねーかと思ってな」
そう笑いながら話す。
「おじさん、お邪魔してまーす。あと肉まんご馳走様でした!」
「おう、コンビニの肉まんだけどな。で、千夏ちゃんこのあと泊まってくのか? 床屋プレイか? 俺は耳栓でもして寝るからいくら声出してもいいぞ」
そう言いながらタバコの煙を吐き出す。
「え? 帰りますよー。ぷれい?」
私はクエスチョンマークを出す。
謙はあたふたした様子。顔は赤い。
「親父! なんも起きねーよ! ワックス代は給料引きでいいからさっさと寝ろ!」
おじさんはがっがと笑いながら、受付の灰皿でタバコを消す。
「しかし千夏ちゃん、可愛くなってよかったな! 短い方が似合うんじゃねーか?」
と、顔はイカツイがとても優しい笑顔で言った。
「えへへ、あ、写メ撮らなきゃ!」
私は鏡に写る自分の撮影を始める。
おじさんは隣のセット椅子に座る。謙は片づけをしている。
「おい謙! お前、美容師やれ」
おじさんは頭の後ろで手を組みながら言った。
「いや、この店どうすんだよ? 継ぐやついないだろ」
「ここは俺の店だ。お前にはやらん! 俺は寝たきりになるまでここは続ける。その頃お前は何歳だよ?」
「んなこと言われてもな……俺だって手伝い出来るだろ? 切れる人増えるし良いじゃん」
私は写真を撮りながらも、耳を大きくしてこの話を聞く。
「最近の発注で、パーマ液やらレディースウィッグやら、ストレートアイロンやら。この前は、エクステも買ってたな? 普通床屋で使わねーよな?」
「それは……」
私はなんとなく閃いた事を口にしてみる。
「せっかくセット椅子二つあるんだし、こっちで謙が美容師やるとかいいんじゃない? 私天才かも!」
手をポンと叩く。
しかし、謙がすぐ私に反論してくる。
「それは、難しい。保健所に理容室で提出してるから、美容師免許で働くと法律的にアウト。理容室と美容室は全くの別物なんだよ。入り口二つにして、こっちが理容室、こっちが美容室ってすれば出来なくはないけど……」
「そ、そうなんだ」
やばい、なんだか難しい話に……。
「まあ、お前は黙ってやりたい事やれ! 今から美容師でも板前でも野球選手でも、なんでも目指しやがれ。この店のことは考えなくていい。……で、千夏ちゃん、カットしてもらってどうだ?」
「え、うーんと。最初は不安だったけど、カットしてよかった! 凄い可愛くしてもらったし……それに、乾かし方の話とか面白かった! シャンプーも気持ちよかったし! 私行ってる美容室にも謙みたいなスタッフいればいいのにな」
すると、おじさんは謙に見えない角度で、私にグッジョブサインを出してきた。
どういうことだ?
「だとよ謙。よかったじゃねーか!」
そう言ってガハハと笑う。
謙は掃除が終わったのか、バックルーム側に向かった。と同時にドアが開閉した音も聞こえてきた。
「あれ? トイレ行っちゃったのかな?」
私はおじさんに訊く。
「照れてんだよ、がはは。トイレはこの階にもあるからな。……あいつはな、床屋向いてねーんだよ」
なんで? こんなにカット上手で知識もあるのに? 私はその言葉が理解できない。
おじさんは更に続ける。
「千夏ちゃんに言っても分からんかもだが、理容は固い技術で、美容は柔らかいんだ。あいつ器用だから刈り上げとかも見よう見まねで出来るが、すぐに理論や美に走る。理容ってのはきっちり
「は、はあ」
なるほど……分からん。
「今回千夏ちゃんのカットが成功したのは、謙が
と、まるで彩月のような顔で言ってくる。そう、アホ面で。
「なに? おじさん、変な顔で言わないでよ! 誰かさんって誰?」
「あー言えない言えない、俺の口からは言えないなー」
せっかくのいかつさが台無しだ。
すると、謙が入ってきて、私の手を引っ張りだす。
「もう親父にかまうな。帰るぞ。送ってくから」
私は引っ張られながらも鞄を持ち、裏口から外に出る。
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